房日新聞寄稿(珈琲キャンペーン御礼と報告)(2020.11.25)
このたびは、ウガンダ支援金付きコーヒーキャンペーンにご協賛いただき、ありがとうございました。3回目を迎えた今年、ウガンダコーヒーを楽しみにご来店くださるお客様がいらっしゃったなど、嬉しいお声も聞かれ、コーヒーの魅力とともに、コーヒーによる支援の輪が広がっています。皆様のご尽力で、「10月はウガンダコーヒー」のキャンペーンが安房地域に浸透しつつあることを感じております。
おかげさまで、ウガンダコーヒーの流通による支援金74,100円と寄付19,312円が寄せられました。これらは今夏に開催された「安房・平和のための美術展」のチャリティ基金と合わせて、ウガンダ意識向上協会に送らせていただきます。
新型コロナウイルス感染症の危機に伴い、人びとの生活環境はますます厳しくなっているようです。現地の安房南洋裁学校の運営や子どもたちの教育・生活支援のほか、さまざまな緊急支援にも使われることとなりますので、改めて御礼とご報告を申し上げます。
★CUFI代表 スチュアート・センパラ ‥⇒ 「ご挨拶と感謝の言葉.pdf」
★NPO安房文化遺産フォーラム代表 愛沢伸雄 ‥⇒ 「キャンペーンのお礼と報告.pdf」
また、キャンペーン期間中、安房南洋裁学校の生徒たちが作った小物入れやエプロンをはじめ、牛の角を素材にした動物ストラップ等を、数店舗で試験的に販売しました。色鮮やかなアフリカ布や小物のかわいさなどが好評を得たため、追加で仕入れを検討しています。入荷次第、通信販売サイト「館山まるごと博物館ショップ」等で販売予定です。お取り扱いを希望される場合にはご相談いただければ幸いです。
これからも末永く安房とウガンダの友情が継続しますよう、引き続きご理解ご協力のほどよろしくお願いいたします。最後になりましたが、新型コロナウイルス感染症の収束と、皆様のご健康を心よりお祈り申し上げます。
‥⇒「ウガンダコーヒー月間」キャンペーン2020
『月刊社会教育』2020年11月号
日本の戦争遺跡シリーズ⑮ ~館山海軍航空隊赤山地下壕跡
文責:池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム)
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月刊社会教育2111
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月刊社会教育2111(赤山)
日本地図を逆さに見ると頂点にあたる館山は、明治から東京湾要塞の拠点となりました。関東大震災で隆起した館山湾を埋め立てて、一九三〇年に開かれた館山海軍航空隊は通称「陸の空母」と呼ばれ、艦上攻撃機パイロットの実戦訓練などがおこなわれていました。
〇戦跡保存の軌跡
館山市では一九八九年から市民による戦跡調査と平和教育の実践が始まり、公民館講座を通じて保存運動が広がりました。これを受けて行政当局では二〇〇二年に、「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」に取り組みました。その報告書によると、将来文化財として保存活用が見込まれる戦跡は市内に四十七確認され、その大半はAランク(近代史を理解するうえで欠くことができない史跡)やBランク(特に重要な史跡)に評価されました。
そこで、戦跡を組み入れた都市づくりの目標像として、「地域オープンエアーミュージアム・館山歴史公園都市」構想が示されました。市有地である赤山地下壕跡は、平和・学習拠点として整備され、二〇〇四年から一般公開が始まり、翌年には館山市指定史跡となりました。
〇謎の多い地下要塞
赤山地下壕は大半が素掘りで、網の目状に約一・六キロ掘られています。凝灰岩質砂岩の内壁には、美しい地層の模様と丁寧に掘られたツルハシの跡が鮮明に浮かび上がっています。建設時期について、市の文化財解説看板には「昭和十年代のはじめに、ひそかに建設がはじまったという証言もあります」とする一方で、「昭和十九年より後に建設されたのではないかと考えられています」と記されており、はっきりとした資料はありません。
内部には、自力発電所・格納庫・応急治療所・奉安殿などがあります。標高六十メートルの頂上にも壕やコンクリート設備もあり、小山に縦穴をくり抜いた巨大な燃料タンク跡も二つあります。戦争末期の突貫工事で作られた防空壕ではなく、大震災後の地質を調査し場所を選定したうえで、早い段階から専門部隊により掘り始められではないかと推察できます。
赤山の近くで生まれ育った元教育長の高橋博夫氏(一九二七年生まれ)は、真珠湾攻撃前から地下壕の建設が始まっていたと証言しており、掘り出した土砂はトロッコで海に運び、埋め立てて岸壁にしたといいます。
〇本土唯一の直接軍政
ミズーリ号降伏文書調印式の翌日、米占領軍三千五百名が上陸し、館山は本土で唯一「四日間」の直接軍政が敷かれました。戦後日本の占領政策を考える試金石だったのではないかと考えられます。
米国テキサス軍事博物館には館山に上陸した司令官の報告書があり、「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、そこには完全な信号、電源、他の様々の装備が含まれていた」と記されています。そして今なお、赤山地下壕内には「USA」と書かれた朱文字が残っています。
【参考資料】
*エコレポ「ピースツーリズム①赤山地下壕跡」
⇒https://econavi.eic.or.jp/ecorepo/live/524
*「戦後70年」証言・調査記録集
『館山海軍航空隊・赤山地下壕建設から米占領軍の直接軍政』
⇒https://awa-ecom.jp/bunka-isan/section/books-06/
文化財保全活動の射程
~被災・救出・安定化、そして…
白水智(中央学院大学)
『千葉史学』2020年11月 ‥⇒印刷用PDF
千倉アワビ街道ウォーキングのお誘い
~渡米したアワビ漁師のふるさとを歩こう~
房総アワビ移民研究所 所長 鈴木政和
(房日寄稿2020.11.1)‥⇒印刷用PDF
私たちは、明治期に南房総から渡米したアワビ漁師たちの歴史文化について調査研究を進め、歴史を共有するカリフォルニア州モントレー湾域の人びとと15年にわたり交流をしています。
アワビ移民のリーダーは、長尾村根本(南房総市白浜町)出身の小谷源之助・仲治郎兄弟です。ヘルメット型の器械式潜水具を導入し、寒流の海でアワビ漁を行いました。兄の源之助は米国に留まり、缶詰工場などのアワビ事業に成功しました。日米開戦後は強制収容所に移送され、移民の歴史は幕を閉じましたが、戦後50年を経て源之助の功績は米国で顕彰され、かつてが住んでいた土地は「コダニ・ビレッジ」と公式に命名されています。
一方、弟の仲治郎は帰国し、七浦村千田(現南房総市千倉町)に住み、水産界のみならず様々な産業や教育・文化にいたるまで、安房地域の発展に幅広く関わっていったと考えられます。さらに同じ集落の人びとを中心に潜水士を養成して、アメリカに送り込みました。兄に比べるとあまり知られていませんでしたが、私たちは仲治郎の活躍に注目していました。
近年、仲治郎の旧宅を解体することとなり、私たちは遺族から管理を任された際、許可を得て屋内の資料等を調査しました。そこで、襖の下張りとして使われていた大量の古文書が見つかりました。旧宅は大正期に建てられたもので、見つかった古文書は実家の水産問屋・金澤屋に関わる勘定書類や、家族や友人らと交わした書簡、七浦尋常小学校に関わるものなど、ほとんどが明治期の資料でした。当時不要となった紙類を襖の下地に再利用したために、古文書は千切られた断片になっていますが、貴重な歴史資料の大発見となりました。
昨年度より南房総市の市民提案型まちづくりチャレンジ事業に採択され、「アワビがむすぶ南房総・モントレー民間交流史研究」に取り組んできました。大量の古文書を紙質や筆跡別に分類し、封筒に仕分けして目録を作成する作業を進めていた矢先、台風15号の直撃により、資料を保管していた建物は全壊してしまいました。私たちは、散乱し水没した資料を1枚ずつ拾い集め、「千葉歴史・自然資料救済ネットワーク」の専門家の指導により冷凍・圧縮・乾燥の手順を繰り返して原状回復し、半年かけて古文書レスキューに成功しました。
今年度は、さらに4枚の襖から新たに古文書を取り出して分類しています。研究チームは、くずし字の解読と専門家の添削の後に、データ入力・目録作成と作業を進めています。今のところ150枚ほどが完了しましたが、まだ半分くらい残っています。
これまでのところ、根本の金澤屋に関わる書簡から、布良にも支店があったことや、新潟の佐渡や秋田の能代などに出向いて漁業をしていたこと、とくに対清国への乾鮑貿易に関わる製造指導のやり取りなど、これまで知られていなかった安房の水産業者の姿が明らかになっています。また、水産伝習所(現・東京海洋大学)の卒業生や農商務省関係者との交流をはじめ、金澤屋と水産加工業・貿易関係者との商取引の書簡は、明治期の殖産興業を考えるうえで重要な内容を伝えるものになっています。
さらに教育熱心な小谷家では、明治初中期の段階で、兄の源之助は慶応義塾幼稚舎に、弟の仲治郎は水産伝習所に就学させています。金澤屋当主であり兄弟の父・小谷清三郎と母・たよの多数の書簡からは、夫婦で水産業に取り組んでいた姿や子供たちの教育に対する考えも見えてきます。
来たる11月3日(文化の日)には、渡米したアワビ漁師のふるさとをめぐるウォーキングを開催します。10時に旧七浦小学校(現・七浦診療所)駐車場を出発し、仲治郎の菩提寺である長性寺で墓参と寺子屋講座を開催します。寺子屋講座ではアメリカで紹介されたNHK番組と視聴と、古文書研究の状況を報告します。参加希望者は、健康に留意しマスク着用のうえご集合ください。
ウガンダトークイベントに31人来場
吉良康矢さんと粕谷智美さん ウガンダへの思い語る
⇒201101房日(ウガンダトークイベント)
*吉良康矢さん原画展「Kira Rd」
連載コラム「館山まるごと博物館」=007
女学校の魅力的な木造校舎を未来に~旧安房南高校の文化財建築~
2020.10.20 ‥⇒リンクはこちら
EICネット「エコナビ」一般財団法人環境イノベーション情報機構
・由緒ある女学校
・木造校舎の魅力
・木造校舎を愛する人びと
‥⇒シリーズ一覧
安房高等女学校からみる100年前の災禍
~台風被害とスペイン風邪のパンデミック
愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)
⇒ 房日寄稿PDF ⇒ 原稿PDF
布良地区で復興イベント
歌や躍りで元気を発信、神社・地域の現状報告も
(房日新聞2020.9.30)…⇒PDF
館山市の布良崎神社で26日、同神社神輿修復委員会による布良地区復興プロジェクトの「復興イベントin布良」が開催された。昨年の台風15号から1年を経て、復興状況の報告があった他、復興ソングや布良地区住民による踊りが披露された。
市民協働まちづくり支援事業にも採択されている同イベント。昨年の台風で甚大な被害を受けた同地区で、イベントをとおして地域内の絆を深めると同時に、これまで支援してくれた人たちへの感謝を込めて現状を報告した。
同委員会の嶋田博信代表(86)が、神社や地区全体の被災家屋について復旧状況の報告があり、金丸謙一市長もあいさつ。復興ソングプロジェクトの山口恵子代表から、復興ソング「Have you seen the Rainbow?虹を見たかい」のCDの売り上げの一部を同神社に寄付する贈呈式も行われた。
その後のイベントでは、子どもミュージカル「トゥルーカラーズ」が復興ソングや、布良の海が部隊のオリジナルソング「万祝」を合唱、千葉市の被災者ユーコスさんが「Under the sun~青い屋根の下で~」を演奏。布良地区の住民が、木やりや民謡、安房節、布良音頭を披露して、最後に出演者と観客がそろって童謡「ふるさと」を合唱した。集まった住民は拍手や合いの手で参加イベントを楽しんだ。
館山市から親子で参加した女性は「子どもたちの歌声に元気をもらいました。お祭りも無くなってしまい残念だったのできょうはたのしかったです」と話した。
「コロナの影響もあって復興はまだまだ、ままならないところもあるが、現在の状況をみんなに知ってもらい、住民や助けてもらったたくさんの人々に元気を届けたい」と嶋田代表。
イベントの様子は後日ユーチューブでも配信される。
安房地域母親大会を終えて
コロナ禍における台風災害対策の意見交換会
池田恵美子(第26回安房地域母親大会 実行委員長) ⇒ 印刷用PDF
房総半島を直撃し、安房地域に甚大な被害をもたらした台風から1年。新型コロナウイルスの世界的感染が続く今、再び巨大台風に見舞われたとき、私たちはどのように対応したらいいのでしょうか。不安を解消し、いざというときに備えるために、市民と行政の話し合いの機会を設けました。
前半は、館山市総合政策部社会安全課危機管理室の清野賢一室長より、昨年の台風の被害状況とその対応について報告をいただき、後半は質疑応答と意見交換が熱心に行われました。一部の内容を下記に紹介します。ご協力いただいた同課及び館山市社会福祉協議会に厚く御礼を申し上げます。
なお今回は感染症対策のため、参加者は実行委員会の構成団体に限定し、インターネットの動画配信で広く市民に情報共有を呼びかけました。2時間にわたる話し合いは、「安房地域母親大会」と動画検索するか、QRコードから誰でもユーチューブを見ることができます。ぜひご照覧ください。
▼全般:
・15号の被害は、家屋等の損壊・停電・断水・通信障害・倒木や飛来物による通行止めなどが想定を超え、実態の把握や対応が遅れた。
・19号では避難者数が2000名を超え、過去最大となった。
・備えが不十分であった。様々な改善を重ねながら、感染症予防を反映した方針を立て、避難所運営マニュアルを改定しているが、まだ課題が多い。
・町内会の自主防災会と市の連携が図れなかった反省を踏まえ、公助・共助・自助をともに高めるために、防災能力と意識の向上を図りたい。
・社会福祉協議会でボランティアセンターを開設するが、地区ごとのサテライト機能は困難。最も被害の大きかった富崎地区や西岬地区では、民間組織が独自にセンターを運営してくれた。
・他の自治体(山梨県笛吹市・兵庫県篠山市・鳥取県倉吉市・埼玉県三郷市・東京都中野区)と災害協定を結び、対応支援を受ける。
・東京電力・館山市建設協力会との災害協定により倒木撤去・停電の回復に努める。
▼情報伝達:
・暴風雨のなか防災無線が機能しなかった。
・「安全・安心メール」「安全・安心テレフォン」「たてやま安心電話」が無料で確実。(利用方法は広報誌「だん暖たてやま」9月号に掲載)
・有償の「防災ラジオ」があるが、2年後には使用できなくなる。
・ツイッターやフェイスブックなどのSNSを有効活用しフォローしたい。
▼避難所:
・初動で公民館・小学校体育館などを設定するが、土砂災害警戒区域や耐震構造などのため不適の建物は除き、三密を避けるため定員は半数以下。必要に応じて中学校・高校・県の施設・旅館組合・大学セミナーハウスなども順次増設する。(広報誌「だん暖たてやま」8月号に掲載)
・段ボールベッドではなく、エアーベッドを500台入れる計画ですでに100台設置済。要支援者・要介護者・高齢者・妊婦さんに優先に考えている。
・飛沫防止の段ボール衝立、できるだけ避難所の改善を考えている。
・トイレを清潔にし、環境改善が必要。飛沫防止のラッピングトイレを各1台ずつ設置。
・発電機は各2台設置のほか、東京電力との災害協定により被災時に電源車を配備。携帯の充電用バッテリー50台くらい配備予定。各自でも充電用を工夫してほしい。
・食事はどうしてもお弁当やパンになりがちなので、避難初日の分は飲料水とともになるべく持参してほしい。
・ペットはケージに入れて、餌と水は持参の条件で、同伴OK。ただし居室スペースは別で、廊下や屋根のある場所に置く。
◆YouTube動画配信
⇒ https://www.youtube.com/watch?v=PTtw21ZLpmU&feature=youtu.be
建設から75年たつ特攻基地(上・下)
特攻機「桜花」下滝田基地
八木直樹(南房総市)
(房日新聞:寄稿2020.8.18-19)‥⇒印刷用PDF
建設から75年たつ特攻基地【上】
毎年2、3回の草刈り清掃をして保存してきた、わが家の近所にある旧海軍特攻基地跡。
わが家の農作業の遅れから初夏の草刈りが遅れ、15日を前にようやく草刈りをしました。
いつも保存活動をともにしてきた仲間たちと作業を行ってきましたが、この炎天と猛暑の中での作業なので、さすがに親世代の方々を誘うのはためらわれ、妻と2人で作業を行いました。
7月の雨量が多かったせいか、例年よりもセイタカアワダチソウやイタドリなどの丈が長くてはかどらず、1日では終わりませんでした。
それでも、草むらに埋もれていた特攻機「桜花」の滑走路を、何とか見えるようにすることができました。お盆が過ぎてから残りの作業も終えようと思います。
最近はネット情報がさまざま飛び交っているらしく、各地から頻繁にここを見に来る人がいると、近所の人から聞いています。もちろん、現場を見ることは大事だと思いますし、より多くの人にこの場所を知っていただくことも保存活動の目的です。
この海軍の特攻基地から「桜花」が飛び立つことなく、日本の敗戦を迎えたわけですが、「桜花」特攻のための部隊は、実際に鹿児島県の鹿屋基地から10次にわたって飛び立ち、430人の若き兵隊さんたちが戦死し、他に訓練中の事故などによって亡くなった方々もいます。
ですから、草むらから現れた特攻基地を運よく見られた方は、「桜花」特攻で、あるいはあの戦争で亡くなった方々に思いをはせ、その死を悼んで欲しいのです。
建設から75年たつ特攻基地【下】
私はここをはじめ、戦争中につくられた地元の地下壕(ごう)や砲台跡などの戦争遺跡周辺の整備や調査をしたり、地元の戦争体験者の方々からの聞き取りをしてきました。その中で強く感じてきたことは、戦争のことをただ資料から読み解いた「歴史」、あるいは誰かが物語として書いた「歴史」を知るだけでは、戦争の真実は感じ取れないということです。
戦場に置かれた一人一人の人間にとっての戦争体験に触れ、その状況下で戦病死したたくさんの人たちの心中を想像することなく、ただ「歴史」としての戦争を批判し、死者の数だけで戦争を知った気になる人。日本の戦争は正しかったとか、自らを犠牲にして戦った兵隊さんたちのおかげで今の平和があると言いながら、一人一人の置かれた状況やその心情には目をくれようとしない人。戦争を批判する人にも、肯定する人にも、「一人一人の人間にとっての戦争とは何なのか」という深井思いが欠けている人は多いという気がします。
逆に、兵隊さんとして亡くなった人たちの死を悼むという気持ちを持っているならば、日本の戦争の歴史に対する考え方に違いはあっても共有することができということを、これまでいくつかの団体さんとの交流を体験して知りました。
戦場や軍隊を体験した方々の中には、靖国(やすくに)神社の存在を肯定する方と否定する方がいます。私は靖国神社が戦死することを名誉だとされた国家的なうそを維持するための場所であると思って参拝などしませんし、靖国神社の中にある戦争博物館「遊就館」を見学したときにその展示が戦争の真実を覆い隠したものだと感じました。
しかし、だからといって、戦争体験者の方々が靖国神社への親しみや特別な思いを口にされるとき、軍国主義的な思想の押し付けを感じない場合には違和感を覚えません。それは戦争中に青春時代を過ごした人たちにとってごく普通の感覚なのだろうと思うからです。そのような方たちからは「戦争だけはあってはならない」というような言葉を必ずといっていいほど聞きました。
特攻、靖国。今は批判的な立場にいる私が、もしもその時代に青春期を迎えていたとしたら、いったいどう思い、どう行動しただろうか。体験者の方々のお話を聞いたり、ドキュメンタリー映画を見たりするたびに、心の中で問いかけるのです。
(おわり、三芳地区在住、農業)