<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(下)
支援続く「かにた婦人の村」 やまぬ性暴力 女性の受難 今も
(東京新聞 2025年5月7日)
「ぼくは彼女の生徒にすぎない。泥沼から立ち上がった人間の持つ英知をさずけてくれる」-。1人の牧師は、元慰安婦の故・城田すず子さん(仮名、1921~93年)に促されて86年、館山市に「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑を建てた。困難に直面する女性たちの居場所づくりに生涯取り組んだ、深津文雄牧師(09~2000年)だ。
それだけではない。広域から利用できる国内唯一の女性自立支援施設「かにた婦人の村」(同市)も「2人の出会いから生まれた」と、牧師は述懐していた。
城田さんは、父親らの借金や戦時の荒波にもまれ、売春に従事しなければ生きることもままならなかった女性の1人だった。牧師は1957年初秋、更生を願い訪ねてきた城田さんに「必ずあなたの落ち着けるところを探す」と誓った。
翌年、東京都練馬区にできた小さな婦人保護施設「いずみ寮」でも、65年開設のかにたでも城田さんを迎え入れた。「彼女に手を引かれた」
かにたは、実質終生利用できる施設として90年代終わりまで定員100人を満たし続けた。2000年以降、中長期にわたり女性たちの回復を支援しつつ、地域生活移行に取り組む。現在は四十数人が入所している。
性的に搾取されるなどして心身ともに追い詰められ、一時的な避難だけでは日常生活に戻れない女性たちも、ここではパン作り、畑作業、手芸、営繕などの活動をしながら、成果物を皆でシェア。お互いにリスペクトして暮らす。
◇
昨年4月の「困難女性支援法」施行から1年余り。女性の受難史に社会は学び、女性たちの生きづらさは好転しただろうか。現施設長の五十嵐逸美(いつみ)さん(63)に尋ねると、「難しい時代」と返ってきた。
「性はプライベートなもの、と配慮できる社会に」と語る五十嵐逸美さん=館山市で
元タレント中居正広氏の性暴力とフジテレビの対応問題では、元社員女性の被害に「変わらぬ男尊女卑に根を持つ、モノ扱い」と怒り、女性が誹謗(ひぼう)中傷されたことに衝撃を受けた。
「格差がすごくある社会で、『自己責任』という言葉が跋扈(ばっこ)する。自分ではどうしようもできない問題を抱える人のことを想像しない人が、増えていないか」
心的外傷後ストレス障害(PTSD)で入院した女性に共感を寄せる。「(かにたの)入所者もフラッシュバックは日常茶飯事です」
近親者からの虐待、性暴力を受けた入所女性は、毎晩のように加害者が追いかけてくる悪夢を見て、起きると過呼吸になる。電話をくれれば、駆けつけた職員が手を握ってサポートし30分ほどで落ち着くが、何も手につかず電話できないなど1人で2時間格闘することも。別の10代少女は「とにかく自活したい」と働きに出たが、仕事中に症状が出て治療の必要を悟った。
五十嵐さんは「戦時の性暴力もそうですが、どんな時でも、どんなジェンダーでも、性はプライベートなものとお互いに配慮できる社会にしたい」と強調する。一方、性産業をやみくもに攻撃するのは、危うさもあると指摘。「それでしか暮らせないと考える人たちをより危険な地下に追い込む。『セックスワークしか選べない』と追い込まないサポートを整えることが先です」
(この連載は山本哲正が担当しました)
<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(中)
みんなが帰る場所 建立を
(東京新聞 2025年5月6日付)
千葉県館山市の小高い丘に、「噫(ああ)従軍慰安婦」と刻字された碑が立つ。高さ約2メートル。元慰安婦の故・城田すず子さん(仮名、1921~93年)が「かつての同僚」のためにと強く願い、86年に建てられた。今も8月15日には、慰霊碑前で鎮魂祭が執り行われ、参加者たちは「戦争と性搾取の歴史を繰り返すまい」と誓う。
城田さんは、東京・深川の裕福なパン店の長女に生まれた。だが、14歳で母が亡くなり、親戚や父親の借金などから17歳で芸者屋に売られ、客を取らされた。まもなく、日本統治下の台湾で「海軍御用」と看板のある遊郭へ。南方のサイパンなどを経て、45年ごろパラオへ。そこで、若い慰安婦の管理や世話もした。
「(海軍の)特要隊の女の子は、朝鮮と沖縄の人ばかりで、内地の人はいませんでした」「20人の女の子がそれぞれ番号がきまっていて(中略)お客は、『何番をください』と言って切符を買うのでした」と書き残している。
城田さんは戦後、「汚い商売をしていた人は家に上げられない」と実家から拒絶された。全国にあった、「特殊飲食店」の名目で売春を認めた赤線地帯を転々としたが、妹の自死などをきっかけに「足を洗わなければ」と考えた。最終的に頼った東京都板橋区の社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母(ほうしじょはは)の家」で57年、深津文雄牧師(09~2000年)と出会う。
「城田さんのように困っている人を見捨てるわけにはいかない」と励ましてくれた深津牧師は、翌1958年に婦人保護施設「いずみ寮」が開設されると寮長に。65年には、困難を抱え行き場がない全国の女性たちの「最後の砦(とりで)」として館山に「かにた婦人の村」が開かれ、初代施設長になった。
終戦40年を迎えるころ、城田さんは病弱で、2度の危篤を乗り越えていた。慰安婦の存在が語られずにいたことに思い詰め、深津牧師に「どうか慰霊塔を建ててほしい」と手紙で訴えた。深津牧師やスタッフの手厚い介護を受けて、隠されていた心のひだをさらけ出すかのような告白だった。
心動かされた深津牧師は85年8月15日、「鎮魂」と墨書きしたヒノキの柱を立てる。除幕式で城田さんは「みんな、ここに帰っておいでよ」と叫んだ。1年後、「噫従軍慰安婦」の石碑が建てられた。
城田さんと深津牧師の物語は、かにた婦人の村第3代施設長の五十嵐逸美(いつみ)さん(63)が語り継いできた。地域の歴史を掘り起こすNPO法人安房文化遺産フォーラムも、機会あるごとに紹介。城田さんの著書「マリヤの賛歌」(かにた出版部、2200円)は6月、岩波書店の岩波現代文庫からも刊行予定だ。城田さんについて、五十嵐さんは「忠君愛国と育ったが、今の若い人たちには同じ思いをさせたくない思いが強かったと思う」と振り返る。
城田さんが亡くなる前に語った言葉を口にすると、今も五十嵐さんの目は潤む。「もし生まれ変われるなら、普通のお嬢さん、普通のお嫁さん、普通のおばあちゃんになって、孫に囲まれて生きてみたい」
◆「私は見たのです、女の地獄を」
<城田すず子さんから深津文雄牧師への手紙> 兵隊さんや民間人のことは各地で祭られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄(もてあそ)ばれて、足手まといになると、放りだされ、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬か狼(おおかみ)の餌になり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手させられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を…。
四〇年たっても健康回復はできずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。
<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(上)
供養されない霊 慰めたい
(東京新聞 2025年5月5日)
千葉県鴨川市内の寺に、古びた慰霊碑がある。高さ約2・5メートル、表に「名も無き女の碑」と大書されている。
名も無き女とは、戦争時の慰安婦たち。碑にまつわる逸話を広めてきた元中学美術教諭の松苗礼子さん(88)=館山市=は「建てるに当たり、周囲からは『汚らわしい女の慰霊碑なんて』と反対の声も上がり、場所も二転三転して、現在地に決まったそうです」と話す。
建立に尽力したのは、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に衛生伍長として従軍した安房地域の男性(故人)だ。終戦間際、南方のアンガウル島からパラオへ船で傷病兵を搬送中、潜水艦から攻撃を受けて沈没したが、九死に一生を得た。アンガウル島にいた所属部隊はその間に全滅し、唯一の生還者となった。
復員し家業を継いだ男性は、同じく衛生兵だった東京の男性職人と知り合う。話題は、戦時中、性病の検査などで接していた元慰安婦の女性たちの末路に及んだ。1973年10月、碑を2人で建てた。男性は83年、亡くなった。
慰霊碑を巡る物語は92年、NHKラジオ番組「ひるのいこい」で紹介された。これを聴いた松苗さんは感動し、番組制作で取材した山田恵一さんから了承を得て、語り継ぐことを決意。独自に男性の妻から聞き取りもし、「語り部さくら貝」の代表として年に1度は、語りの場で取り上げてきた。
慰安婦たちには戦地で命を落とす人や、生き残っても性病や差別に苦しむ人が少なくなかった。心ない視線を向ける日本人もいる。男性は、どんな思いで慰霊碑を建てたのか。
松苗さんが聞いた妻の話によると、「軍人や軍属は戦死すれば靖国神社にまつられるが、慰安婦であった女性は何の供養もされない。ぜひ慰霊碑を建てて、その霊を慰めよう」との考えだったという。
男性は戦後、何度かアンガウルで部隊兵の遺骨を収集し、現地にも慰霊碑を建てるなど、視野の広い篤志の人だった。妻は、NPO法人安房文化遺産フォーラムの共同代表愛沢伸雄さんによる調査にも応じ、「世の中に知らしめてほしい」と男性の遺品など資料を託し、2013年に亡くなった。
松苗さんが語り部になったのは、「もし石碑が崩れると、慰霊碑にまつわる話題も消えてしまう。何とかしたい」という思いから。女性たちの慰霊に力を尽くした男性について、妻は「夫の思いは当たり前」と話したという。反対する声もあった中で「夫婦一心同体だったことは(男性の)支えになったのではないか」と松苗さん。今は体調を崩しているが、語り継ぎたい思いに揺らぎはない。「こういう話は、風化させちゃいけないんです」
◆元美術教諭・松苗礼子さん 戦争の傷 掘り起こす
「名も無き女の碑」を建立した男性について語る松苗礼子さん=館山市で
松苗礼子さんは1936年5月、館山市生まれ。子どもの頃、自宅には、遠い土地の出身で館山海軍航空隊基地に所属する若い兵たちが休みに訪れていた。45年のある日、おめかしして若者2人と一緒に写真を撮った記憶がある。「2人はその後、パタリと来なくなった。特攻で亡くなったのではないかしら」
「悲惨な戦争を二度と起こさないためには教育が重要」と考え、千葉大を出て地元中学校や県立館山聾(ろう)学校などで美術教諭を務めた。定年退職後は子どもたちに本の読み聞かせなどをし、地元に残る戦争の傷も掘り起こしてきた。
◇
安房(千葉県南部)には、慰安婦を慰霊する石碑が二つ確認されている。一つは「名も無き女の碑」。もう一つは、体験を告白した女性の願いから1986年に建てられた「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑だ。時も場所もばらばらながら、いずれも慰安婦を巡る歴史や女性たちへの補償が国際問題化する前、戦争を生き延びた日本人の意志で建てられた。それを重く受け止め、語り継ぐ地域住民もいる。二つの碑が今も問いかけることを、3回にわたり紹介する。
<名も無き女の碑>
碑の表に、薄く読みづらいがこう刻まれている。「風雪にとざされし/暗き道/春未だ来ぬ/遠き道/されど/春の来るをまちつつ/久遠にねむれ/汝(なんじ)/名も無き女よ」 碑の裏には、「今次の大戦に脆弱(ぜいじゃく)の身よく戦野に艇身 極寒暑熱の大陸の奥に又(また)遠く食無き南海の孤島に戦塵艱苦(せんじんかんく)の将兵を慰労激励す 時に疫病に苦しみ敵弾に倒る 戦敗れて山河なく骨を異国に埋むも人之を知らず戦史の陰に埋(うま)る嗚呼(ああ) 此(こ)の名も無き女性の為小碑を建て霊を慰さむ 昭和四十八年十月建之(けんのう)」とある。
大神宮の森
富崎地区の東側に広大な森がある。大神宮の森と呼ばれ、この地域の暮らしを支え続けてきた。
森は人や動物を生かし、その養分を川から海へと注ぐ。海の生物もまた、森の恩恵を受けている。そして、海は水蒸気を放出し、その水分が雨となって森や大地を潤す。地球はそういう循環を繰り返し、45億年生き続けてきた。
豊かな森から豊かな海が育つ。今回の映画で取材した布良漁港の最長老、小谷康彦さんは言った。
「大きな魚の餌になるイワシが取れなくなった。前は沖へ出れば、海いっぱいにワラサとかが跳ねていた。だが、最近は温暖化で、ほとんどそういう魚がいなくなった」
本当に温暖化だけの問題なのであろうか? 大神宮の森が枯れているという。そこで、この広大な森を買い取り、後世に残すためのプロジェクト「安房大神宮の森コモンプロジェクト」が立ち上がった。NPO法人「地球守」代表理事の高田宏臣さんが中心となり、大神宮の森を再生させる一大プロジェクトだ。
高田さんたちが、大神宮の森深く入り、道を直し、よどんだ空気を通すために、木を刈り、森に命を吹き込む。最初に案内してくれたのは、道の側面にある岩盤の穴だった。それは、時間の経過で土に埋もれ、素人の私には、そんなところに大事な穴があるなどわからない。
それをいとも簡単に高田さんは見つける。直径1㍍を超える穴だ。「これは昔の水源。この岩を掘ると水が湧いてくる」。なんと、岩盤をくりぬき、そこから水が湧いて、棚田に水を供給したという。それも鎌倉時代。私は大変驚いた。岩から水が湧き出る? そんなことがあるのか?
高田さんは言う。「ただ水を取るだけではなく、山の保水力を高める」と。私は、目からうろこ状態になった。森の中で育つ木々が生きているのは分かるが、岩も生きているのか?
「鎌倉にある海蔵寺の『十六ノ井』という弘法大師が掘った井戸は、今も湧き出ているんです」。高田さんはそう言って、これが昔の人たちが、知恵を駆使して森に生き、森を育ててきたと話し、さらに山を登り始めた。
この続きは次回に詳しく書きたい。
実は、ようやく映画の完成が近づいてきた。撮影が終わり、あとは仕上げを残すこととなった。そして、試写会が決まった。6月8日(日)に館山市の南総文化ホール小ホール。6月28日(土)に房南小学校体育館。詳細は文末の映画公式サイトを参照ください。なお、小谷さんは、3月に不慮の事故で逝去された。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
(映画のホームページはhttps://www.sekaiichinoyuuhi.com/)
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4月17日付の当コーナーで、赤山地下壕を取材できなかった代わりに案内してもらった場所を「大坊崎」と書きましたが、正しくは「大房岬」です。執筆の際の変換ミスです。申し訳ありません。
<2025年 戦後80年>
市部瀬の惨劇 もう二度と
動けぬ列車に機銃掃射…阿鼻叫喚
市民ら 記憶つなぐ活動
(東京新聞 2025.4.24.)-374x400.jpg)
1945年5月8日午前11時50分ごろ、多くの民間人を乗せて旧勝山町の下佐久間(現在の千葉県鋸南町)を走行中の7両編成列車が米軍戦闘機に機銃掃射され、13人が死亡、46人が重軽傷を負った。地域の名から「市部瀬(いちぶせ)の惨劇」と呼ぶ。「『二度と再び、戦争をしたり戦争に加担したりしてはならない』と伝えたい」と語り継ぐ市民グループは80年の節目となる今年も、その日に献花式を開く。(山本哲正)
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『世界一の夕陽と生きる』
撮影現場から (25)-400x376.jpg)
(房日新聞 2025.4.17.付)
戦争の傷跡
映画を作るには、多くの人たちの協力がなくては難しい。特にドキュメンタリーは、被写体となる人を見つけるため、下調べ(映画作りでは、シナハンとかロケハンとかいう)が重要だ。
この映画の舞台となる南房総、館山地域の過去、現在、未来はどのようになっているのか? 調べなくてはならない。
今から12年前に作った映画「疎開した40万冊の図書」(第2次世界大戦中に、日比谷図書館の蔵書40万冊を疎開させたドキュメンタリー映画)の上映会を、NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子さんが館山市で開いてくれた。その際、館山の戦争遺跡を案内していただいた。
前にも書いたが、私は、館山にある国立館山海員学校(現国立館山海上技術学校)の卒業生で、館山で学生時代の2年間を過ごしたが、戦争遺跡らしいところには行ったことがなかった。平砂浦にある砂山や沖ノ島の浜辺で、同級生たちが、弾丸の薬きょうを拾ってきて、もらったことはあったが、この地に、第2次世界大戦中に重要な軍の施設があったことは知らなかった。
ただ、自分たちが生活していた学校の建物は旧海軍の施設だった。さらに学校の艇庫がある海岸に米軍が上陸した写真がある。10年前、池田さんの案内で、館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)跡を見学した。長さが1・6㌔もあり、一般的な防空壕の長さが10~20㍍程度だとすると、はるかに長い。
防空壕だけではなく、軍の施設としても使用されていたと納得した。今回の映画の中で、戦争遺跡は欠かせないと、池田さんに取材をお願いした。残念ながら、撮影期間中、赤山地下壕跡は修復のため取材できなかったが、その代わりに大房岬を案内していただいた。
ここは、東京湾に入る砦(とりで)として、黒船来襲の時代から、第2次世界大戦まで使用されていたところだ。砲台跡や人間魚雷艇「回天」の基地跡が今も残っている。
撮影当日は、大学生たちに池田さんが熱心にガイドをされていた。池田さんは言う。
「日本地図を逆さにすると、房総半島は日本の先端になる。ここから太平洋に向かっている重要な場所なんです」 その時、戦争の秘話として、花づくり禁止令が出されたにもかかわらず、南房総の花を守った人たちの話を聞いた。南房総は花の街。これは知っていたが、戦争中、花の種や苗を必死になって守った人たちがいたことは知らなかった。そのあと、白間津のお花畑に行ってみた。なんと素晴らしい光景。戦争から花を守った話を聞きたいと思った。
【映画監督 金髙謙二】
(映画のホームページは https://www.sekaiichinoyuuhi.com/)
映画上映のお誘い
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(房日新聞 2025.4.17.付)
4月27日午後1時半より、館山市コミュニティセンターで、映画「うんこと死体の復権」を上映できますことを、とてもうれしく思っています。開催実現のためにご協力くださいました皆さまに心より感謝申し上げます。
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排せつ物と死体が教えてくれる 命の循環 「うんこと死体の復権」上映へ
(東京新聞 2025.4.15付) ⇒ 詳細はこちら。-400x152.jpg)
「すべての生きものが共生する循環の輪について考えてみよう!」をテーマに、ドキュメンタリー映画「うんこと死体の復権」(2024年、関野吉晴監督)の上映会とトークショーが27日、千葉県の館山市コミュニティセンター(同市北条)で開かれる。(山本哲正)
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館山の戦跡学ぶ講演会
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(房日新聞 2025.4.11.付)
安房地区高校退職教職員の会の記念講演会が19日午後1時半~2時半、館山市宮城の豊津ホールで開かれる。参加無料で、一般にも来場を呼び掛けている。
当日は、同市のNPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子さんを講師に、「館山市の戦争遺跡とまるごと博物館」と題した講演をする。「館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)跡」の一般公開が再開されたことに合わせ、いま一度、地域の歴史を学ぶことが目的という。
申し込み不要。問い合わせは、会長の内藤欽次さん(0470・22・8486)へ。
安房大神宮の森への想い
千葉市・高田宏臣
(房日新聞 2025.4.9.付)-243x400.jpg)
現代社会は便利さを追求するあまり、自然の恵みと直結した自給的な暮らしから遠く離れ、土地の開発や地形の改変は奥山にも及ぶようになりました。とくにメガソーラーや風力発電などの設備開発が次々と進み、生命の源泉が破壊され、あるいは土砂災害が起きる要因となっている現状に心を痛めています。
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