(Series.58)
◎ 山嵜早苗さんの参加レポート
11月9日(日)、第67回千葉県母親大会と第31回安房地域母親大会と共催で館山市の南総文化ホールを会場に、「戦後・被爆80年 今 平和の願い新たに、そして、次世代に」というテーマで行われました。今回は、千葉県歴教協も構成団体に加わり、会長の柄澤守さん、小林光代さん、芳澤比奈子さんらも参加されていました。雨の中、私は津田沼駅から貸し切りバスでまいりました。
大会の内容は、すべてがすてきでした。まず、地元のお二人が『房州弁で憲法を』というコーナーで、憲法9条を楽しく教えてくれました。ちょっと真似してみます。
「おんだら、日本国民はの、世界中の人がおたぎゃの立場を認めあってさ、仲良う暮らしていきてぇさ、心の底から願ってんだお、だかんの、国と国が意見あわねえでなかったあんだかんだもめてよ、そうにわざわざ行って鉄砲やミサイルなんかで、ぎゅうためくらして治めべえなんてこったあ、永久にやっちゃおいねぇど。」
房州のおっかあたちの感じが伝わりましたか?
次に、館山を舞台に作られた映画『赤い鯨と白い蛇』の上映。安房高等女学校卒業のせんぼんよしこ監督が少女時代を振り返り、ふるさと館山の戦争に関する実話をNPO法人安房文化遺産フオーラムの愛沢伸雄さんからお聞きし、戦後60年の2005年に78才で初めてメガホンをとった映画だそうです。
香川京子さんが戦争中の館山に住んでいて、60年ぶりに訪れるという祖母役を務め、浅田美代子さんや樹木希林さんら5世代の女性たちがかつて住んでいた大きな古民家に偶然集まり、それぞれの人生が問わず語りに展開していきます。「私のことを忘れないで」「正直に生きる」「生命を大切に」というメッセージにあふれ、とても良くできた映画でした。
午後のオープニングのライブは、美地さんというシンガーでした。代表曲『世界中のお母さんたちへ』、そして、ベトナムで枯葉剤を浴びた母親から結合双生児として生まれたグエン・ドクさんが平和への願いを込めて作詞した曲『いつも僕の中に』を、手話付きで披露されました。美地という名前に込められた美しい地球と愛と平和を歌うという姿がぴったりでした。
実行委員長の歓迎挨拶と館山市長の祝辞の後、安房文化遺産フオーラムの池田恵美子さんが地域報告をしました。館山市は、近代の戦争で重要な軍事拠点として利用されてきました。NPOでは、その戦争遺跡を調査し、平和学習のスタディガイドをしています。短い時間でしたが、とても分かりやすい解説で地域の戦跡を調査し伝えることがどんなに大切なことか、その先端を行く「館山まるごと博物館」の活動を心から尊敬しています。
続く記念講演は、昨年ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の事務局次長、児玉三智子さんでした。被団協が初めてノミネートされたのは1985年、何度も候補に挙がりながらこの草の根運動が世界に認められたのは2024年のことです。現在の核兵器を巡る厳しい状況の中でノーベル賞選考委員長は、「被爆者の遺産を受け継ぐのは、私達すべての人間の責任である」とスピーチしたそうです。被爆者の体験を聞くのは、辛いものがあります。運よく助かった方々の後ろになんの罪もなくいきなり殺されてしまったしまった多くの人々、あの日から何日も血を流し、苦しみながら死んでいった数えきれない人々、そうした一人ひとりの苦しみを想像しなければなりません。
広島、長崎の後、ビキニ環礁で行われた水爆実験は、アメリカが原爆投下に対しなんの反省もしていなかったことを物語っています。今年もイスラエルの非道な爆撃がアラブの人々の暮らすガザの街を廃墟にしてしまっていると新聞が特派員の写真を載せています。
日本政府には、世界で唯一の被爆国だからこそ核兵器廃絶の先頭に立つべき責務があるのではないかと児玉さんは呼びかけていました。
続く「話し合いのひろば」では、長崎の原爆式典に参加した小学校5年生の児童や、被爆二世という医師の発言もあり、心に響きました。
この後、参加しているいろいろな団体の代表者が次々に意見表明をしました。戦争を知らない世代にどう繋いで行くかが大事です。たくさんの団体が母親大会に集合し、平和の誓いを共有すること、来年は千葉市が会場になるというご挨拶がありました。
私は大学4年の時、母親大会のスローガン「命を生みだす母親は 命を育て 命を守ることを望みます」という言葉を社会教育の研究室ではじめて知り、婦人運動を卒論のテーマに選びました。指導教官の福尾武彦先生は船橋市にお住まいで、歓楽街の色濃かった船橋近辺で子育てをする母親たちの願いを運動にしていく精神的な役割を果たしていました。
日本全体では、広島、長崎、そして第五福竜丸と3回も被爆を受けた日本の母親たちが原水爆禁止の署名運動を起こし、1955年に第1回日本母親大会が開かれました。命がけで産んだ息子たちを戦争で奪われ、泣いてばかりはいられないと立ち上がった逞しく切実な運動でした。この運動は70年にわたり、各県、各地域にも広がって開催されています。
今年は、戦後80年の節目の年です。悲しく辛い戦争を体験した日本人は、その後、一度も戦争に加担してきませんでした。それは、戦争の放棄を明記した憲法9条があるからです。この大会に参加し、私もできることから協力していきたいと改めて思いました。





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