お知らせ

【第89回知恵袋】関和美さん「安房の文化振興に貢献した医師・原進一」

<第89回知恵袋講座>

「安房の文化振興に貢献した医師・原進一」

語り手:関和美さん

2025年5月17日(土)13:30~16:00
会場:菜の花ホール第一集会室

 < 知恵袋講座は、NPOメンバーが講師となって、楽しく学び語り合う茶話会です。>
参加費:会員200円/非会員500円(茶菓子・資料つき)予約不要

 

戦後に安房医師会長などの要職を歴任した鴨川の医師・原進一は、図書館長を4年間務めるなど、安房の文化活動の発展に貢献しました。画家の横山大観や寺崎武男、彫刻家の長谷川昴などとも親交が深かったといわれます。医療図書館勤務のかたわら原に注目してきた関さんは、近年遺族から資料提供を受けたことにより、さらに進んだ調査研究を報告します。

※ 実施した過去の知恵袋講座(一覧)
⇒ https://awa-ecom.jp/bunka-isan/section/machi-03/

【房日】250510_市部瀬の惨劇から80年

市部瀬の惨劇から80年
献花式で40人が鎮魂の祈り
平和願いコンサートも 鋸南

(房日新聞 2025.5.10.付)

終戦間際、鋸南町下佐久間で米軍機が列車を機銃掃射し、13人が死亡、46人が負傷した「市部瀬の惨劇」。犠牲者を慰霊し、歴史を後世に伝えようと、「明日の鋸南町を考える会」が8日、現場に建てられた恒久平和祈念の碑で、恒例の献花式を行い、参列した約40人が花と鎮魂の祈りをささげた。終戦80年の節目である今年は、道の駅「保田小学校」も協力し、同所でプロピアニストによる無料コンサートもあり、聴衆約40人が美しい調べに聴き入り、平和への思いを深めた。

1945年5月8日午前11時50分ごろ、安房勝山駅を発車した下り列車に対し、3機の米軍機が北の空から飛来し、先頭の機関車を銃撃、立ち往生した列車に、2機目の米軍機が機銃掃射を浴びせた。

同会では、地元の戦争被害の歴史を伝えていこうと、2011年に同祈念碑を建立した。会の立ち上げメンバーで、祈念碑の題字を書いた高島超子さんは17年に亡くなり、めいでピアニストの広瀬美紀子さんが叔母の意志をつないでいこうと、活動に協力。町内の道の駅保田小の駅長である三瓶聖史さんも協力を申し出て、今年は戦後80年の節目でもあることから、無料のピアノコンサートを行うこととなった。

献花式は10年から行っており、今年で16回目になる。式には、犠牲者の親族などの関係者や、地域の人たちも出席。事件があった11時50分に合わせて黙とうし、犠牲者の苦しみに思いをはせた。

銃撃で亡くなった機関士の親族で、茂原市から毎年参列している門秀行さんは、今年も花をささげた。「こうして、平和を祈って活動していることが大事だと思う。会の皆さまに敬意と感謝を伝えたい」と話していた。

式の後は、保田小音楽室で「平和への希望を込めて」と題したコンサートを開催。東京・八王子の八王子音楽院の院長でもある広瀬さんが、平和をテーマに選曲したクラシックの名曲の数々を、曲が作られた時代背景や、作曲家の思いなどの解説を交えて演奏。一流のプロピアニストの奏でる、ときに壮大、ときに優雅な調べに、観客はうっとりと聴き入っていた。誰もが知っている昭和歌謡のアレンジ演奏では、主旋律に合わせて歌を口ずさむ人もいた。

演奏を終え、広瀬さんは「叔母の思いを次世代につないでいくお手伝いが少しでもできたならうれしい。今後も鋸南の皆さんとのご縁を大切にしていきたい」と話していた。

(前木深音)

【ホンマルラジオ】250508_池田恵美子『館山まるごと博物館』①

インターネット・ラジオで紹介されました。

https://honmaru-radio.com/biyuukuukan_mainichi20250508nagisa/

インターネットラジオに出演させていただき、「館山まるごと博物館」活動についてお話しました。
今回は、活動のきっかけ、ハングル四面石塔、館山ゆかりの画家(青木繁・寺崎武男)などをご紹介しました。
戦争遺跡については、引続き来月配信の予定です。

【東京】250507_語り継ぐ慰安婦 2つの碑(下)

<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(下)
支援続く「かにた婦人の村」 やまぬ性暴力 女性の受難 今も

(東京新聞 2025年5月7日)

 「ぼくは彼女の生徒にすぎない。泥沼から立ち上がった人間の持つ英知をさずけてくれる」-。1人の牧師は、元慰安婦の故・城田すず子さん(仮名、1921~93年)に促されて86年、館山市に「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑を建てた。困難に直面する女性たちの居場所づくりに生涯取り組んだ、深津文雄牧師(09~2000年)だ。

それだけではない。広域から利用できる国内唯一の女性自立支援施設「かにた婦人の村」(同市)も「2人の出会いから生まれた」と、牧師は述懐していた。

城田さんは、父親らの借金や戦時の荒波にもまれ、売春に従事しなければ生きることもままならなかった女性の1人だった。牧師は1957年初秋、更生を願い訪ねてきた城田さんに「必ずあなたの落ち着けるところを探す」と誓った。

翌年、東京都練馬区にできた小さな婦人保護施設「いずみ寮」でも、65年開設のかにたでも城田さんを迎え入れた。「彼女に手を引かれた」

かにたは、実質終生利用できる施設として90年代終わりまで定員100人を満たし続けた。2000年以降、中長期にわたり女性たちの回復を支援しつつ、地域生活移行に取り組む。現在は四十数人が入所している。

性的に搾取されるなどして心身ともに追い詰められ、一時的な避難だけでは日常生活に戻れない女性たちも、ここではパン作り、畑作業、手芸、営繕などの活動をしながら、成果物を皆でシェア。お互いにリスペクトして暮らす。

昨年4月の「困難女性支援法」施行から1年余り。女性の受難史に社会は学び、女性たちの生きづらさは好転しただろうか。現施設長の五十嵐逸美(いつみ)さん(63)に尋ねると、「難しい時代」と返ってきた。

「性はプライベートなもの、と配慮できる社会に」と語る五十嵐逸美さん=館山市で

元タレント中居正広氏の性暴力とフジテレビの対応問題では、元社員女性の被害に「変わらぬ男尊女卑に根を持つ、モノ扱い」と怒り、女性が誹謗(ひぼう)中傷されたことに衝撃を受けた。

「格差がすごくある社会で、『自己責任』という言葉が跋扈(ばっこ)する。自分ではどうしようもできない問題を抱える人のことを想像しない人が、増えていないか」

心的外傷後ストレス障害(PTSD)で入院した女性に共感を寄せる。「(かにたの)入所者もフラッシュバックは日常茶飯事です」

近親者からの虐待、性暴力を受けた入所女性は、毎晩のように加害者が追いかけてくる悪夢を見て、起きると過呼吸になる。電話をくれれば、駆けつけた職員が手を握ってサポートし30分ほどで落ち着くが、何も手につかず電話できないなど1人で2時間格闘することも。別の10代少女は「とにかく自活したい」と働きに出たが、仕事中に症状が出て治療の必要を悟った。

五十嵐さんは「戦時の性暴力もそうですが、どんな時でも、どんなジェンダーでも、性はプライベートなものとお互いに配慮できる社会にしたい」と強調する。一方、性産業をやみくもに攻撃するのは、危うさもあると指摘。「それでしか暮らせないと考える人たちをより危険な地下に追い込む。『セックスワークしか選べない』と追い込まないサポートを整えることが先です」

(この連載は山本哲正が担当しました)

【東京】250506_語り継ぐ慰安婦 2つの碑(中)

<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(中)
みんなが帰る場所 建立を

(東京新聞 2025年5月6日付)

 千葉県館山市の小高い丘に、「噫(ああ)従軍慰安婦」と刻字された碑が立つ。高さ約2メートル。元慰安婦の故・城田すず子さん(仮名、1921~93年)が「かつての同僚」のためにと強く願い、86年に建てられた。今も8月15日には、慰霊碑前で鎮魂祭が執り行われ、参加者たちは「戦争と性搾取の歴史を繰り返すまい」と誓う。

城田さんは、東京・深川の裕福なパン店の長女に生まれた。だが、14歳で母が亡くなり、親戚や父親の借金などから17歳で芸者屋に売られ、客を取らされた。まもなく、日本統治下の台湾で「海軍御用」と看板のある遊郭へ。南方のサイパンなどを経て、45年ごろパラオへ。そこで、若い慰安婦の管理や世話もした。

「(海軍の)特要隊の女の子は、朝鮮と沖縄の人ばかりで、内地の人はいませんでした」「20人の女の子がそれぞれ番号がきまっていて(中略)お客は、『何番をください』と言って切符を買うのでした」と書き残している。

城田さんは戦後、「汚い商売をしていた人は家に上げられない」と実家から拒絶された。全国にあった、「特殊飲食店」の名目で売春を認めた赤線地帯を転々としたが、妹の自死などをきっかけに「足を洗わなければ」と考えた。最終的に頼った東京都板橋区の社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母(ほうしじょはは)の家」で57年、深津文雄牧師(09~2000年)と出会う。

「城田さんのように困っている人を見捨てるわけにはいかない」と励ましてくれた深津牧師は、翌1958年に婦人保護施設「いずみ寮」が開設されると寮長に。65年には、困難を抱え行き場がない全国の女性たちの「最後の砦(とりで)」として館山に「かにた婦人の村」が開かれ、初代施設長になった。

終戦40年を迎えるころ、城田さんは病弱で、2度の危篤を乗り越えていた。慰安婦の存在が語られずにいたことに思い詰め、深津牧師に「どうか慰霊塔を建ててほしい」と手紙で訴えた。深津牧師やスタッフの手厚い介護を受けて、隠されていた心のひだをさらけ出すかのような告白だった。

心動かされた深津牧師は85年8月15日、「鎮魂」と墨書きしたヒノキの柱を立てる。除幕式で城田さんは「みんな、ここに帰っておいでよ」と叫んだ。1年後、「噫従軍慰安婦」の石碑が建てられた。

城田さんと深津牧師の物語は、かにた婦人の村第3代施設長の五十嵐逸美(いつみ)さん(63)が語り継いできた。地域の歴史を掘り起こすNPO法人安房文化遺産フォーラムも、機会あるごとに紹介。城田さんの著書「マリヤの賛歌」(かにた出版部、2200円)は6月、岩波書店の岩波現代文庫からも刊行予定だ。城田さんについて、五十嵐さんは「忠君愛国と育ったが、今の若い人たちには同じ思いをさせたくない思いが強かったと思う」と振り返る。

城田さんが亡くなる前に語った言葉を口にすると、今も五十嵐さんの目は潤む。「もし生まれ変われるなら、普通のお嬢さん、普通のお嫁さん、普通のおばあちゃんになって、孫に囲まれて生きてみたい」

◆「私は見たのです、女の地獄を」

<城田すず子さんから深津文雄牧師への手紙> 兵隊さんや民間人のことは各地で祭られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄(もてあそ)ばれて、足手まといになると、放りだされ、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬か狼(おおかみ)の餌になり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手させられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を…。
四〇年たっても健康回復はできずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。

【東京】250505_語り継ぐ慰安婦2つの碑(上)

<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(上)
供養されない霊 慰めたい

(東京新聞 2025年5月5日)

 千葉県鴨川市内の寺に、古びた慰霊碑がある。高さ約2・5メートル、表に「名も無き女の碑」と大書されている。
名も無き女とは、戦争時の慰安婦たち。碑にまつわる逸話を広めてきた元中学美術教諭の松苗礼子さん(88)=館山市=は「建てるに当たり、周囲からは『汚らわしい女の慰霊碑なんて』と反対の声も上がり、場所も二転三転して、現在地に決まったそうです」と話す。
建立に尽力したのは、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に衛生伍長として従軍した安房地域の男性(故人)だ。終戦間際、南方のアンガウル島からパラオへ船で傷病兵を搬送中、潜水艦から攻撃を受けて沈没したが、九死に一生を得た。アンガウル島にいた所属部隊はその間に全滅し、唯一の生還者となった。

復員し家業を継いだ男性は、同じく衛生兵だった東京の男性職人と知り合う。話題は、戦時中、性病の検査などで接していた元慰安婦の女性たちの末路に及んだ。1973年10月、碑を2人で建てた。男性は83年、亡くなった。
慰霊碑を巡る物語は92年、NHKラジオ番組「ひるのいこい」で紹介された。これを聴いた松苗さんは感動し、番組制作で取材した山田恵一さんから了承を得て、語り継ぐことを決意。独自に男性の妻から聞き取りもし、「語り部さくら貝」の代表として年に1度は、語りの場で取り上げてきた。
慰安婦たちには戦地で命を落とす人や、生き残っても性病や差別に苦しむ人が少なくなかった。心ない視線を向ける日本人もいる。男性は、どんな思いで慰霊碑を建てたのか。
松苗さんが聞いた妻の話によると、「軍人や軍属は戦死すれば靖国神社にまつられるが、慰安婦であった女性は何の供養もされない。ぜひ慰霊碑を建てて、その霊を慰めよう」との考えだったという。
男性は戦後、何度かアンガウルで部隊兵の遺骨を収集し、現地にも慰霊碑を建てるなど、視野の広い篤志の人だった。妻は、NPO法人安房文化遺産フォーラムの共同代表愛沢伸雄さんによる調査にも応じ、「世の中に知らしめてほしい」と男性の遺品など資料を託し、2013年に亡くなった。
松苗さんが語り部になったのは、「もし石碑が崩れると、慰霊碑にまつわる話題も消えてしまう。何とかしたい」という思いから。女性たちの慰霊に力を尽くした男性について、妻は「夫の思いは当たり前」と話したという。反対する声もあった中で「夫婦一心同体だったことは(男性の)支えになったのではないか」と松苗さん。今は体調を崩しているが、語り継ぎたい思いに揺らぎはない。「こういう話は、風化させちゃいけないんです」

◆元美術教諭・松苗礼子さん 戦争の傷 掘り起こす

「名も無き女の碑」を建立した男性について語る松苗礼子さん=館山市で

松苗礼子さんは1936年5月、館山市生まれ。子どもの頃、自宅には、遠い土地の出身で館山海軍航空隊基地に所属する若い兵たちが休みに訪れていた。45年のある日、おめかしして若者2人と一緒に写真を撮った記憶がある。「2人はその後、パタリと来なくなった。特攻で亡くなったのではないかしら」
「悲惨な戦争を二度と起こさないためには教育が重要」と考え、千葉大を出て地元中学校や県立館山聾(ろう)学校などで美術教諭を務めた。定年退職後は子どもたちに本の読み聞かせなどをし、地元に残る戦争の傷も掘り起こしてきた。

安房(千葉県南部)には、慰安婦を慰霊する石碑が二つ確認されている。一つは「名も無き女の碑」。もう一つは、体験を告白した女性の願いから1986年に建てられた「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑だ。時も場所もばらばらながら、いずれも慰安婦を巡る歴史や女性たちへの補償が国際問題化する前、戦争を生き延びた日本人の意志で建てられた。それを重く受け止め、語り継ぐ地域住民もいる。二つの碑が今も問いかけることを、3回にわたり紹介する。

<名も無き女の碑>

碑の表に、薄く読みづらいがこう刻まれている。「風雪にとざされし/暗き道/春未だ来ぬ/遠き道/されど/春の来るをまちつつ/久遠にねむれ/汝(なんじ)/名も無き女よ」 碑の裏には、「今次の大戦に脆弱(ぜいじゃく)の身よく戦野に艇身 極寒暑熱の大陸の奥に又(また)遠く食無き南海の孤島に戦塵艱苦(せんじんかんく)の将兵を慰労激励す 時に疫病に苦しみ敵弾に倒る 戦敗れて山河なく骨を異国に埋むも人之を知らず戦史の陰に埋(うま)る嗚呼(ああ) 此(こ)の名も無き女性の為小碑を建て霊を慰さむ 昭和四十八年十月建之(けんのう)」とある。

映画『医の倫理と戦争』

映画『医の倫理と戦争』公式サイト

現在の日本の医療現場が抱える様々な問題の根底には、第二次世界大戦における医療関係者による戦争犯罪への加担と、その隠蔽という事実がある。石井四郎が率いた「731部隊」に所属する医師たちは、中国人への人体実験を繰り返し、敗戦後その事実を隠蔽しただけでなく、人体実験で得た“ 知見” を自らの功績にかえ、戦後日本の医学界の中心に上り詰めた。そうした負の歴史と向き合い、「医の倫理」を掲げて戦争反対の声を上げ続ける医療関係者たちがいる。本作では、731部隊の真実を追いながら、現在の医療現場が抱える様々な問題に取り組む医療関係者たちの今を取材した。

NPO法人安房文化遺産フォーラム共同代表の池田恵美子も製作に協力し、赤山地下壕跡を案内している。かにた婦人の村でも撮影がおこなわれた。 続きを読む »»

【房日連載】250501_『世界一の夕陽』(26)大神宮の森

『世界一の夕陽と生きる』撮影現場から (26)

(房日新聞 2025.5.1.付)

大神宮の森

富崎地区の東側に広大な森がある。大神宮の森と呼ばれ、この地域の暮らしを支え続けてきた。

森は人や動物を生かし、その養分を川から海へと注ぐ。海の生物もまた、森の恩恵を受けている。そして、海は水蒸気を放出し、その水分が雨となって森や大地を潤す。地球はそういう循環を繰り返し、45億年生き続けてきた。

豊かな森から豊かな海が育つ。今回の映画で取材した布良漁港の最長老、小谷康彦さんは言った。

「大きな魚の餌になるイワシが取れなくなった。前は沖へ出れば、海いっぱいにワラサとかが跳ねていた。だが、最近は温暖化で、ほとんどそういう魚がいなくなった」

本当に温暖化だけの問題なのであろうか? 大神宮の森が枯れているという。そこで、この広大な森を買い取り、後世に残すためのプロジェクト「安房大神宮の森コモンプロジェクト」が立ち上がった。NPO法人「地球守」代表理事の高田宏臣さんが中心となり、大神宮の森を再生させる一大プロジェクトだ。

高田さんたちが、大神宮の森深く入り、道を直し、よどんだ空気を通すために、木を刈り、森に命を吹き込む。最初に案内してくれたのは、道の側面にある岩盤の穴だった。それは、時間の経過で土に埋もれ、素人の私には、そんなところに大事な穴があるなどわからない。

それをいとも簡単に高田さんは見つける。直径1㍍を超える穴だ。「これは昔の水源。この岩を掘ると水が湧いてくる」。なんと、岩盤をくりぬき、そこから水が湧いて、棚田に水を供給したという。それも鎌倉時代。私は大変驚いた。岩から水が湧き出る? そんなことがあるのか?

高田さんは言う。「ただ水を取るだけではなく、山の保水力を高める」と。私は、目からうろこ状態になった。森の中で育つ木々が生きているのは分かるが、岩も生きているのか?

「鎌倉にある海蔵寺の『十六ノ井』という弘法大師が掘った井戸は、今も湧き出ているんです」。高田さんはそう言って、これが昔の人たちが、知恵を駆使して森に生き、森を育ててきたと話し、さらに山を登り始めた。

この続きは次回に詳しく書きたい。

実は、ようやく映画の完成が近づいてきた。撮影が終わり、あとは仕上げを残すこととなった。そして、試写会が決まった。6月8日(日)に館山市の南総文化ホール小ホール。6月28日(土)に房南小学校体育館。詳細は文末の映画公式サイトを参照ください。なお、小谷さんは、3月に不慮の事故で逝去された。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

(映画のホームページはhttps://www.sekaiichinoyuuhi.com/

◇ ◇ ◇

4月17日付の当コーナーで、赤山地下壕を取材できなかった代わりに案内してもらった場所を「大坊崎」と書きましたが、正しくは「大房岬」です。執筆の際の変換ミスです。申し訳ありません。

寺崎武男 平和の祈り展

<戦後80年企画>

寺崎武男 平和の祈り展

2025.5.17.(土)~ 6.10.(火)

会場:渚のギャラリー
(館山市館山1564-1 “渚の駅”たてやま2F)
入館無料 9:00~16:45
休館日 5/26(月)

*ギャラリートーク
5/18(日)13:30
6/1(日)13:30 続きを読む »»

映画試写会『世界一の夕陽と生きる』

 

ドキュメンタリー映画
『世界一の夕陽と生きる』

公式サイト

映画試写会(無料)
上映時間 105分
参加対象者:安房地域在住の方
▶ 6月8日(日) 南総文化ホール
10:30/14:30/17:30
▶ 6月28日(土) 房南小学校

10:30/14:00

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