【論文】佐野一成

【第55回千葉県歴史教育者研究集会:地域分科会】
2022.2.23

館山発 地域と世界につながる戦争遺跡の保存活用

安房支部  佐野一成
(明星大学人文学部人間社会学科4年)

 PDF(佐野レポート)

1.はじめに

館山では30年以上にわたり、戦争遺跡の調査・保存・活用が進められてきた。それは、千葉歴史教育者協議会(以下、歴教協)安房支部の愛沢伸雄さんの授業づくりを契機として市民運動に広がり、エコミュージアムまちづくりを実践するNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(以下、文化遺産フォーラム)の活動へと展開していった。地域内外の交流・連携にとどまらず、日韓・日米交流やウガンダ支援まで幅広い。息長い市民活動はどのように変遷し、また人びとや地域社会にどのような変容をもたらしたのか。高校時代から活動に関わり、書きあげた卒業論文の一端を報告したい。

私がこのテーマを選んだ動機は2つある。1つは、私立安房西高校在学時、所属していたJRC(青少年赤十字)部の活動で、ウガンダ支援交流に関わっていた。学校統合や廃部を経て活動のバトンは3校に継承され、文化遺産フォーラムを窓口として、今年28年目を迎える。活動の原点は、愛沢さんが、千葉県立安房南高校の世界史教諭であったとき、戦争遺跡などの地域教材を活かした平和学習にあるという。現地にはAWA-MINAMI(安房南)洋裁学校と名付けられた職業訓練校も開かれている。

もう1つは、私が生まれ育った館山市波左間という小さな漁村にも、特攻艇「震洋」の基地があったということを愛沢さんから教わり、身近な足もとにも戦争の歴史があると知って驚いた。さらに愛沢さんは、戦争遺跡だけでなく、道路計画で壊されそうになっていた里見氏稲村城跡をはじめ、青木繁「海の幸」誕生の家など、様々な文化遺産の保存活用をおこなってきたという。私は人間社会学を専攻する学生として、学校教育から幅広い市民活動へと場を展開し、人びとや地域社会に影響を与えてきた愛沢さんと「文化遺産フォーラム」の活動に関心をもったのである。

2.卒論の概要

本論は四章で構成した。第一章では、婦人保護施設「かにた婦人の村」との出会いから、地域に根ざした平和学習の実践、「戦後50年」の取り組みなどをひもとき、愛沢さんの教員時代に焦点を当てた。どのように戦争遺跡の調査をすすめ、どのような授業づくりを工夫したのか、そこから保存運動へ展開していった経緯を明らかにした。

第二章では、戦争遺跡と並行して取り組んだ里見氏稲村城跡の保存運動の軌跡、「文化遺産フォーラム」立ち上げの経緯と設立、さらに「戦後60年」の取り組みなどに焦点を当て、地域から国際交流へと広がったプロセスを明らかにした。

第三章では、「文化遺産フォーラム」の掲げる「館山まるごと博物館」の取り組みに着目して分析し、多様な文化財の保存・活用を通じて、市民主体のエコミュージアムまちづくりがどのように進められていったのかに迫っていった。

第四章では、世界とつながる「館山まるごと博物館」として、「戦後70年」の取り組みや、ウガンダ支援交流が高校生から地域社会の市民連携に発展した広がりに注目しながら、「文化遺産フォーラム」の活動が今どのような挑戦の岐路に立っているのかを論じていった。

終章では、「足もとの地域から世界を見る」という理念で展開されてきた活動は、市民や地域社会にどのような変容を与えたのかを明らかにするとともに、自分自身の変容とこれからの課題について見つめ直す機会とした。

3.足もとの地域から世界を見る~授業づくりから地域づくりへ

愛沢さんは、社会科教員研修として1989年に訪問した婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村(以下、かにた村)」との出会いは、人生の転機になったという。売春防止法に基づいて、知的障害や精神障害を抱え自活困難な女性たちの生活を支える施設である。

旧海軍跡地の払い下げで開設された敷地内の中腹には「128高地」地下壕があり、「戦闘指揮所」「作戦室」というコンクリート製の額や龍のレリーフが残されていた。その真上の丘には、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が建てられている。ここで暮らしていた城田すず子さん(仮名)が自らの過去を告白し、仲間の慰霊を求めたことから、1985年に建立された。

足もとの地域に世界史的な出来事が眠っていることに驚いた愛沢さんは、教材化を目ざして調査研究に取り組み始めた。施設長である深津文雄牧師の「底点思考」の理念や、一人の女性が告白に至った生き様に焦点を当て、女子校であった安房南高校で平和・人権学習の授業を9時間にわたりおこなった。

従軍慰安婦問題の認識に伴い、戦争に関わって悲しみや苦しみ、怒り、葛藤を抱えた女性の生き方を、単なる同情を越えて、女子高生なりに自分と深く関わる問題として捉えるように変容していった。「何か自分たちにできることはないか」という考えが生まれ、「かにた村」のボランティアを始めた。深津牧師から「ウガンダ意識向上協会(以下、CUFI)」のスチュアート・センパラ氏を紹介され、安房南高校の生徒会は1994年から支援交流に取り組むことになった。

歴教協研究集会でも、「平和学習と地域の掘り起こし〜『かにた婦人の村』と従軍慰安婦問題」として発表した。足もとの地域から世界を見て、世界から自己に戻ってくるような視野を養い、一歩踏み出す行動を促す教育実践として注目された。

友情の証として「AWA-MINAMI洋裁学校」の設立が提案され、愛沢さんは2000年に現地を視察訪問している。愛沢さんの転出後も続いた活動は、2008年の学校統合を経て安房高校JRC部に継承されたが、2012年に同部は廃部となった。「高校生が続けることが大切」と考え、「文化遺産フォーラム」は安房西高校JRC部に声をかけ、部員らはこれを快諾した。20年の節目にあたった2014年は、活動に関わった歴代の各校卒業生や教員、支援した市民らが安房西高校に集い、安房南高校の女生徒のブロンズ像を記念に現地へ寄贈している。

2005年よりNPO活動から派生した「安房・平和のための美術展」が賛同し、17年にわたり作品の売り上げをチャリティ基金として提供されてきた。2018年には、NPO会員でもある館山市内の喫茶店主から「ウガンダコーヒーによる支援」を提案され、自然栽培のウガンダコーヒーのフェアトレードを活用するキャンペーンに取り組み始めた。10月を「ウガンダコーヒー月間」と位置づけ、安房地域の喫茶店やホテルなど約25店舗が協賛し、5年目を迎えた。

このように、足もとの地域から世界を見る愛沢実践は、四半世紀を超えて、授業づくりから地域づくりへ、そして世界へと広がっている。

4.戦争遺跡を活かした平和学習の実践

かにた村」の訪問を契機に、愛沢さんは1989年から戦争遺跡の調査研究に取り組み始めた。東京湾の入口に位置する館山は、幕末から台場が築かれ、明治期には東京湾要塞として重要な役割を担ったものの、近代史の先行研究はほとんどなく調査は困難を極め、交通費や書籍代ばかりでなく、マイクロフィルムのコピー代も高額で、かなりの私費を投じたことからもゆるがない信念と決意がわかる。

数少ない資料の中で「仮説実験授業」の教育方法を調査研究に活かし、常識にとらわれない自由な発想で歴史を組み立て、その裏付け資料を探していったという。たとえば、ハワイ真珠湾内のフォード島と館山湾内の館空基地や、沖縄県と千葉県、本土侵攻計画「コロネット」作戦と大本営の本土決戦などの地図をそれぞれ比較しながら仮説をたて、重要な近代史を明らかにしていった。

旧安房中学の教務日誌では、1945年9月3日から生徒全員が出校していないことに気づき、次に「米国軍による館山湾地区の占領」という資料を発見した。ミズーリ号降伏文書調印式の翌日から4日間、本土唯一の直接軍政が館山で敷かれていたということが判明した。一方、明治期に渡米した房総アワビ漁師の移民らが、日米開戦後に強制収容所へ移送されている。房総の情報収集に協力させられ、「コロネット作戦」や直接軍政時の行動に繋がっていた可能性も考えられる。

愛沢教育実践は、軍事的な歴史だけではなく、住民目線の調査にも重点を置いていた。本土決戦が想定された安房では、7万の兵の食糧供給のために花作り禁止令が出されたが、命がけで花の種苗を守った農民のおかげで、戦後の安房地域に花栽培が再び始まったという。実際に花農家の生徒もおり、房総では当たり前だと思っていた花作りが、戦争によって禁じられたという歴史に、生徒たちは心を痛めた。また、中学生がウミホタルを採取して供出し、軍部は照明弾などの研究を進めていたという史実も掘りおこした。生物の教師と協力し、平和学習の授業で生きたウミホタルの発光を見せる実験をおこなった。

こうした授業実践で、生徒たちはローカルからグローバルな視野を養っていく。これがまちづくりに広がり、ウガンダ支援や日米交流にもつながっていったのであろう。現在「文化遺産フォーラム」の活動を支えている会員には、愛沢さんの教え子が多い。高校時代に体験した授業の面白さが今なおその人達を惹きつけているのかもしれない。

5.戦争遺跡の保存・活用

1995年には市民とともに実行委員会を立ち上げて、「戦後50年・平和を考える集い」を開催し、聞き取り調査や調査報告の展示などをおこなった。さらに歴教協安房集会や全国大会での報告、報道をとおして、館山の戦争遺跡は地域内外から注目され、多くの平和学習が訪れるようになった。公民館講座やフィールドワークで市民の関心が深まり、戦争遺跡調査保存サークルが発足し、市民ガイドも誕生した。

2002年には、館山市と地方自治研究機構が共同で「館山市における戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」を実施した。その報告書によると、別表のとおり評価の高い戦争遺跡跡が多く、生涯学習資源としての活用と観光・交流面における活用の方向が示された。平和・学習拠点整備構想(マスタープラン)が検討され、「戦争遺跡を本市の固有性の一つとして、市民の歴史学習をはじめ平和学習や交流に活かした都市づくり、まちづくりを目指す」と記され、戦争遺跡活用を位置づけた館山市の目標像として「地域まるごとオープンエアーミュージアム館山歴史公園都市」を掲げている。

これは拠点をネットワークで構成し、さらに戦争遺跡が集中する3つのエリアをネットワークし、来訪者を滞在型に導く観光都市づくりの手法でもある。この報告書にもとづいて、「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」の公開が決定し、整備を経て、2004年に一般公開が始まった。

同年、愛沢さんはNPO法人を設立し平和学習ガイドなどを始めるとともに、第8回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会を開催した。翌2005年に赤山地下壕跡は館山市指定史跡となった。

6.「館山まるごと博物館」~エコミュージアムまちづくり

館山の大巌院には、江戸期建立のハングル「四面石塔」(県指定有形文化財)があり、秀吉の朝鮮侵略後の戦没者供養と平和祈念で建てられたと推察される。愛沢さんはこれを活用し、図書館の調べ学習を含む19時間の授業づくりを実践した。2002年には官民協働で日韓歴史交流シンポジウム、日韓歴史教育交流などを開催している。
2024年「ハングル四面石塔400年記念事業」

文化遺産フォーラム」では、このような地域遺産を活用する取り組みを「館山まるごと博物館」と呼んでいる。市民が主役となって、有形無形のあらゆる地域資源に対して調査研究、保全、展示・教育等の博物館活動をおこなうエコミュージアムまちづくりの手法である。「館山まるごと博物館」では市民が誇りを育 むとともに、地域課題の解決に向けて自ら活動の一歩を踏み出していることに特長がある。

エコミュージアムを施策として取り組んでいる韓国京畿道(キョンギド)では、「館山まるごと博物館」に注目し、市民団体の視察やメディアの取材が来日したり、愛沢さんが訪韓してシンポジウムに登壇したりしている。国際的にも評価された「館山まるごと博物館」の市民活動を4例紹介したい。

(1)里見氏稲村城跡を保存する会
1996年、房総里見氏の城跡群のひとつ、稲村城跡が市道建設で破壊されるという計画が起きた。「500年前の城跡が守れなければ、50年前の戦跡を守ることは困難」だと感じた愛沢さんが代表となり、史跡化を目ざして発足した。千葉県城郭研究会や文化財保存全国協議会などの助言を得ながら、城跡めぐりや古道ウォーキング、講演会などの文化活動を通じて、市民への啓蒙活動を進めた。メディア報道も追い風となって、署名は全国から1万筆以上集まった。世論が高まり、2000年に市道計画が中止となった。里見氏ゆかりの群馬県榛名町長や鳥取県倉吉市長・関金町長を招聘し、千葉県知事、館山市長とともに「里見サミット」を開催し、全国にも稲村城跡を周知していった。17年にわたる苦労と努力が実り、2012年に南房総市の岡本城跡とともに稲村城跡は里見氏城跡群として国指定史跡を実現した。「文化遺産フォーラム」の前身の一つでもあり、2012年に発展的解散となった。

(2)青木繁『海の幸』誕生の家と記念碑を保存する会
江戸期よりマグロはえ縄漁で栄えた布良という漁村は、近年では水産業衰退に伴い少子高齢化が深刻となっていた。小学校の統廃合問題を機に、「文化遺産フォーラム」が事務局を担って発足した。画家の青木繁が滞在し重要文化財『海の幸』を製作した「小谷家住宅」の保存を目ざし、市指定有形文化財とした。全国の美術家と連携を図って修復基金4,000万円を集め、2016年に青木繁「海の幸」記念館を開館した。2012年には同地区で歴教協安房集会を開催している。

(3)安房高等女学校木造校舎を愛する会
コンクリート校舎に建て替えられた1980年、安房南高校では1930年建築の第一校舎を保存することを決定した。後に県指定有形文化財となったが、2008年に安房高校と統合になり、日常的に使用されなくなった。文化財校舎の劣化を危惧した愛沢さんら元教員は、卒業生や市民に広く呼びかけて2017年に発足し、草刈りや掃除などの環境整備や、残された資料整理と歴史の調査研究を進めている。翌年には、県教委主催の見学会を「文化遺産フォーラム」が委託され、「愛する会」の協力で実施している。この3年間は、台風やコロナ禍で公開中止となったが、動画制作やオンライン講演会・写真パネル展などを通じて木造校舎の魅力を伝えている。

(4)房総アワビ移民研究所
明治期に渡米したアワビ漁師らの歴史調査を進めるため、「文化遺産フォーラム」から派生し発足。2005年に米国市民40名が来日し、米国歴史学者と堂本暁子知事の英語対談を含む日米シンポジウムを開催した。2017年に、アワビ漁師リーダーの旧宅(大正期建築・南房総市千倉町)の解体にあたり、襖の下貼りから数百枚の古文書を発見した。紙質や筆跡別に仕分け整理を進めていた2019年の台風15号により保管していた建物は全壊したが、水損資料を1枚ずつ回収して再生し、明治期の書簡を中心に500枚を超える解読調査が完了した。今月末には、米国側と日米オンライン会議を開き、調査研究の一部を報告する予定である。

7.人びとと地域社会の変容

授業づくりから地域づくりへ、多様な人びとが繋がって「館山まるごと博物館」は発展していった。今まで自分の地域には魅力的なものがないと思っていた人びとも、地域の魅力ある歴史文化を知り、誇りを持てるように変わっていった。

ここに至るまでの活動は、未知なるものを切り開く挑戦の連続であった。保守的な風潮が強かった安房地域では、愛沢さんの斬新なアイデアは異端なものとして批判を受けることもあった。「行政にたてつく教員」などと、謂れのない噂や、レッテルを貼られることもあり、苦悩は絶えなかったと思われる。しかし教え子の生徒たちをはじめ、愛沢さんの挑戦を理解し賛同してくれる人の輪が広がっていった。

愛沢さんは、「まちづくりはクラスづくりと同じ」だという。たとえば、文化祭で何かを企画するとき、多数決ではなく、「やりたい人がやり、やりたくない人はやらなくてもいいから邪魔をしない」とする。それが楽しそうなら、だんだんやる人が増えていく。この方式で、市民の興味をひくような仕掛けをおこない、興味を持った人びとを巻き込んでいくことで、文化財の保存・活用を成功させていった。

ガイドとして活躍するメンバー数人にヒアリングをしてみた。ある方は、釣りが好きで東京から館山に移住したが、戦争遺跡の講座に参加して以来、愛沢ワールドに巻き込まれていって生きがいとなり、人生の優先順位が変わったという。高校時代に教わったという方は、ウォーキングイベントに参加して再会し、地域史研究の面白さにはまったという。私と同じように、高校時代からウガンダ支援に関わっていて、今も働きながら活動に参加するという方もいる。タクシー業界の責任者の方は、ドライバーの観光研修を愛沢さんにお願いしたところ、参加者の意識が変わり、お客様への態度が改善されたという。

このように、愛沢さんがおこなってきた授業づくりや牽引してきた市民活動は、関わった人の興味を引き、巻き込み、それは個人の価値観や考え、行動を変容させることになった。そして一人ひとりの小さな変容が地域社会を変えていくことにも繋がっていった。地域社会の変容と言っても、一朝一夕に達成するものではない。市民一人ひとりが自ら暮らす地域社会を学んで、誇りを育み愛情を抱き、小さな一歩の行動を踏み出すということの積み重ねが、地域社会を変容させていく力になったといえよう。

かつて、館山は花と海の観光地に戦争のイメージは合わないといって、戦争遺跡の保存活用に反対していた地域だった。しかし館山は今、地域の個性の一つとして戦争遺跡を大切にするようになっている。市内の小中学校も、それぞれ赤山地下壕跡を初めとする戦争遺跡を見学したり、体験者の話を聞いたり、平和学習をおこなっている。ほとんどの市民に知られていなかった房総里見氏や青木繁の「海の幸」のことなど、今では当たり前に市民に知られ、自治体の「基本計画」にも、まちづくりの基本として謳われるようになった。愛沢さんの苦労は報われ、地域社会は変容している。

8.これからの課題

愛沢さんに今の課題を尋ねてみたところ、次の3つが挙げられた。

(1)赤山地下壕の公開が決定されたときの戦争遺跡保存調査委員会では、私有地にある掩体壕の保存も検討したはずなのに、いまだ実現していないことに行政の姿勢が問われる。例えば土地所有者から行政が借り上げれば、固定資産税の減免や草刈りなどの負担が軽減される可能性も考えられる。

(2)赤山地下壕跡の建設時期について、教育委員会は1944年以降を定説としているが、「文化遺産フォーラム」が独自に入手した米国の資料や元教育長の証言などで、日米開戦以前から掘り始めていた可能性が高い。教育委員会がこうした歴史的な事実を理解し、見直す立場で再検討する姿勢がない。

(3)若者が残りたくなるような地域づくりを目指してきたけれど、雇用の創出にはほど遠い。台風被災から続くコロナ禍でますます法人運営や財政は厳しい。

前の2つは、何度か教育委員会に話し合いを申し入れているものの、はっきりとした回答は得られないといい、理由は不明のままである。3つ目については、文化財保存や地域史の調査・まちづくり活動などは、本来行政が担ってきた分野であるが、授業づくりから始まった愛沢さんの活動は私費を投じて調査研究し、ボランティアでやってきたという経緯がある。「文化遺産フォーラム」設立後も多くの活動をおこない、地域の内外で評価され、地域に根ざした活動を展開するが、愛沢さんやスタッフの自己犠牲という側面があったことは否めない。多様な団体との協働により、財政安定のチャンスは何度かあったが、東日本大震災、台風被害、新型コロナウイルスによる災禍に見舞われるたびにピンチを迎え、現在にいたるという。今後の世代が愛沢さんらの活動をどう引き継ぎいでいくか、持続的な活動をどう成り立たせていくかは「文化遺産フォーラム」と次世代を担う私達のような若者の大きな課題である。

愛沢さんの挑戦は今もなお続き、現在は闘病生活をしながらでも、決して諦めることはなく、在宅療養をしながら調査研究をおこなっている。
本論文では、私のような若い世代の人間が、これからどのようにまちづくりをしていくべきかについて、洞察を深めることができなかった。人口減少や過疎化が進む中で、次世代の若者がどれだけ地域に関心を持ち、まちづくりに参加していくのかが、重要な課題であることには違いない。

しかし今回、愛沢さんと「文化遺産フォーラム」の挑戦を追ってきた中で、多くの人の関心を呼び、巻き込んでいく手法を明らかにし、人びとと地域社会の変容を学ぶことができた。同時に私自身もこの論文執筆を通して、生まれ育った地域を見つめ直し、自己を再発見し、新たな一歩を踏み出すスタート地点に立つことができたと思う。「市民が主役」という意図を汲み取り、「自分に出来ることはなにか」を問い続け、少しでも地域に貢献したいと願っている。そして、本論文を通して「館山まるごと博物館」の理念に触れ、まちづくりの手掛かりを得る人が一人でも増えれば、その波及効果こそ重要であり、この論文の意義であると言えるのではないかと思う。

そして、広島・長崎・沖縄などへ行く千葉県内の各学校は、ぜひ「文化遺産フォーラム」の講義やガイドを事前学習の一つとして取り上げていただけることを切に願っている。