スチュアート・センパラ氏

Stuart  Sempala

1957年生まれ。
CUFI(ウガンダ意識向上協会)代表

センパラ氏は幼少期を隣国ケニアで過ごした。そこでは、東アフリカ諸国だけでなく、アジアの人びととの交流があり、異文化に触れる機会があった。その体験は、お互いの文化や人種の違いを認めることの大切さを育むことにつながっていったと いう。そして父親の転勤に伴いウガンダに帰国するが、その直後に軍事クーデターが勃発した。

ウガンダでは、ミルトン・オボテやイディ・アミンによる独裁政治が続き、経済のみならず、病院や学校など 全てのものが崩壊し、機能しなくなった。国中が混乱に陥り、インフレが起こり、生活必需品の不足を招いた。

このような政治情勢のなかで高校生となったセンパラ氏は、1973年に青少年赤十字(JRC :Junior Red Cross)ユースクラブに加入した。そこでは応急処置の習得をはじめ、井戸掃除や、お年寄りが住む家の修理、身体障害者の家を訪問し一緒にキャンプをするなど、ボランティア活動に積極的に取り組むことになった。

ある日、ひとりで暮らす老婦人の家の修理を手伝った時、唯一できる感謝の印として、自らの生活が苦しいにも関わらず、サトウキビと落花生をふるまってくれたという。この体験によって、センパラ氏は、「弱い者や恵まれず貧しい人々を助けること」に人生の目標をおいたとしている。

高校卒業後もウガンダ赤十字の一員として、ボランティア活動を続けていたが、1979年、国内が戦争状態になった。ある時、センパラ氏が働いていた難民キャンプが、アミン政権の兵士たちに襲撃された。これが契機となって、仲間たちとともにウガンダ民族解放軍に合流 して戦った。そして、1か月後にはアミンが失脚して、  再び赤十字での活動に戻って正規の職員になり、  父親とも再会することができた。

しかし、国内の復興を図ろうという状況下の1980年、センパラ氏の故郷であるルウェロ三角地帯で再び内戦が始まった。多くの人びとが殺され、多くの財産が破壊された。そして、内戦やエイズによって100万人とも  いわれる夥しい孤児を生みだし、深刻な貧困問題を 抱えることとなった。この間一時的に赤十字活動ができなくなり、センパラ氏は職を失ってしまった。

社会の再建のため、孤児たちに衣食住を提供して教育を受けさせる活動をしようと立ち上がった。内戦が終結した1986年、町にあふれた孤児たちの支援を  目的に、センパラ氏らはCUFIを設立した。その後、 キリスト教会を通じて日本のアジア学院を知り、農村 指導者としての資質を身に付けるために、1994年日本へ留学した際、研修の一環として「かにた村」を訪問 した。これが縁となって、安房南高校の生徒たちと出会い、支援活動と交流が始まった。

帰国後、センパラ氏はアジア学院で得た知識や技術を活かし、地域住民たちとともに、池を作って魚の養殖するテン・ポンド(ten ponds)事業を始めた。ウガンダでは生きるうえで「食べる」ことは基本であるが、これは 栄養源になるという面だけでなく、魚養殖の技術を身につけ、市場で魚を売って自立を図る現金収入を得る という面もあった。安房南高校の支援により、荒地を 整地した後に建設した養殖池は「Awa-Minami Pond(安房南池)」と呼ばれた。

センパラ氏のこうした地道な地域活動が評価され、2001年に再びアジア学院へ留学する機会を得た。  今回は、実際の家禽・養鶏の技能・技術だけでなく、環境に配慮した循環型有機農業のあり方を学んだという。

帰国後には早速有機農業を実践し、肥料を工夫  して、安全で新鮮な農作物をつくり始めた。子どもたちが自ら食べものをつくり、自分たちの健康を増進させる ことになった。アジア学院の理念である「共に生きる  ために」を心に刻みながら、食べものを一緒につくり、分かち合う中で一つの共同体を築いていった。

センパラ氏らCUFIのスタッフたちは、地域に生きる人びととともに歩み、持続可能な地域社会をつくるために日々奮闘していった。