赤山地下壕と戦争遺跡群

◆ 赤山地下壕(館山市指定史跡)

※ 壕内の一部剝落のため、現在休壕中。

現在の海上自衛隊館山基地のすぐ南側に、通称「赤山」と呼ばれる標高60mの小高い山がある。凝灰岩質砂岩などからできた岩山のなかには、総延長2km近い地下壕と、巨大な燃料タンク基地跡などが残っている。そのうち約250mが公開されている。

震災後の基地建設のときに十分な地質調査をして、その後海軍の専門工作部隊によって建設された地下壕と思われるが、赤山地下壕に関わる資料は全くなく、当時の証言も少ない。ただ、戦争末期には再び本土決戦用の地下壕が掘削されたようで、大部分は素掘りのまま使用され、今もツルハシの跡が鮮やかに残っている。

元館山市教育長の高橋博夫氏(昭和2年生まれ)をはじめ近隣住民の証言では、日米開戦前から掘り始められ、土砂はトロッコで運ばれて近くの海岸が埋め立てられていたという。地下壕は随時使用されたようで、「館空」でおこなわれていた軍極秘の航空機開発・実験に関わる格納施設や、航空機用の長距離無線通信などの機密の高い部隊が置かれていたと推察される。

防衛庁防衛研究所所蔵の「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」の赤山地下壕の位置に、「自力発電所」「工作科格納庫」「応急治療所」という文字の記載がある。

「館空」の機能を維持するための格納施設がつくられ、緊急の兵舎や医療施設として使用されていたとの証言があり、地下壕内部の形状から見て、基地の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫などの施設があったと考えられ、全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕であった推定される。

発電所部分のコンクリート壁は全面に、崩落防止の空気層をもたせるため、岩盤との間に金属ネットを挟み込んでいる。近代の建築技術の進歩を考えるうえでも重要な施設である。

壕内には「USA」と書かれた朱文字を見ることができる。これは、1945年9月3日に米占領軍3,500名が館山に上陸し、本土唯一「4日間」の直接軍政が敷かれた際に書かれたものと考えられる。日本の占領政策を考えるためのモデル占領だった可能性が高い。近年、米国テキサス軍事博物館から入手した資料のなかに、館山に上陸した米占領軍司令官の報告書(カニンガム・レポート)があった。そこには、「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、完全な信号や電源、ほかの様々な装備が含まれていた」と記され、赤山地下壕が完ぺきな状態で存在していたことがわかる。単なる防空壕ではなく、館山海軍航空隊の管制機能をもつ航空要塞的な地下施設であったことが示唆される。

戦後、1970年代から赤山地下壕に住み、40年近くキノコ研究を続けた男性がいた。名を向後精義といい、壕の入口には「向後種菌研究所」と看板が掲げられていた。壕内は年間通じて温度や湿度がほぼ一定なため、キノコ類の栽培には適していたという。戦争体験についてなかなか語ることがなかったが、晩年には元「731部隊」であったことを告白した。

 

【参考サイト】
◎ 東京新聞「赤山地下壕 太平洋戦争前に建設か 館山のNPO研究 市の解説と食い違い」2023.8.24付

BSテレビ東京『ミステリアスジャパン』~「巨大地下要塞と謎の4日間」 2018.12.1

◎ エコレポ「ピースツーリズム(1)赤山地下壕」2018.12.25

◎ 月刊「教育旅行」掲載(日本修学旅行協会発行)2021.8
◎ 館山市ホームページ「赤山地下壕」

 

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