お知らせ

【第83回知恵袋講座】房総里見氏の歴史と紙芝居『南総里見八犬伝』(鈴木よし江)

知恵袋講座は、NPOメンバーが講師となって、楽しく学び語り合う茶話会です。>

テーマ:房総里見氏の歴史と紙芝居『南総里見八犬伝』

語り手:鈴木よし江 (NPO会員・房総里見一族会)

日時:2024年6月23日(日)13:30~16:00
菜の花ホール
(館山市北条1735) 

参加費:会員200円・非会員500円(お茶菓子付) 続きを読む »»

第75回歴史教育者協議会 東京大会

第75回歴史教育者協議会東京大会
~地域に根ざし、平和・人権・命をつなぐ~

⇒ 公式サイト ⇒ 案内チラシPDF

【日時】2024年8月3・4日(金土)
【会場】明治大学 和泉キャンパス第一校舎
(オンライン参加可)
【参加費】
・会員/教員:5,500円(当日6,000円)
・学生/市民/U25:1,500円(当日2,000円)
・高校生以下無料 続きを読む »»

NPOだよりNo.111~2024.6.15.

NPOだよりNo.111(印刷用PDF)
No.111-大神宮の森(愛沢挨拶-東京新聞)PDF続きを読む »»

壕シンポジウム~沖縄陸軍病院南風原壕のこれから

シンポジウム1 > 沖縄陸軍病院南風原壕のこれから

沖縄陸軍病院南風原壕の本格的な調査から30年目の今年、南風原町が実践してきた陸軍病院壕のあゆみを振り返り、他の地域の戦争遺跡の保存事例・活用事例を通して現時点での陸軍病院壕の取り組みを見つめ直します。陸軍病院壕が抱える保存や活用に関する課題を洗い出し、今後目指すべき姿を考えます。

⇒ 公式サイト

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【房日寄稿】240612_アワビとハリウッド千倉も忘れないで(鈴木政和)

(房日新聞 2024.6.12.付)

野球で今、全米ファンの心を虜(とりこ)にしている選手がいる。大谷翔平選手である。ダルビッシュ有選手は先発投手として日米通算200勝を達成し、他の日本人選手も輝かしい活躍で、日米の野球ファンを魅了している。大谷選手はドジャースに移籍し、ロサンゼルス市議会から、5月17日は大谷翔平の日と定められた。素晴らしいことである。 続きを読む »»

大巌寺企画展:雄誉霊巌上人

令和6年度 前期ミニ企画展
大巌寺三世
雄誉霊巌上人

400年記念
・大巌院四面石塔建立
・深川霊巌寺開創

宝物殿開館日
5月7日(火)18日(土)
6月11日(火)22日(土)
7月6日(土)23日(火)
10~16時

龍澤山 大巌寺
千葉市

 

 

 

【房日寄稿】240517_教育とは~母親大会からの学び(本明明香)

「教育とは?~母親大会からの学び~」
.. 本明明香(母親大会実行委員/南房総)

(房日 2024.5.17付)

昨年12月に開催された第29回安房地域母親大会では、映画『夢みる小学校』上映会と、世田谷区立桜丘中学校の西郷孝彦前校長のトークセッションを行いました。映画には未来の教育のヒントがたくさんあり、西郷先生のお話では、子どもの気持ちに寄り添う改革に感動しました。桜丘中学校では、合理的配慮の結果、校則、定期テスト、宿題廃止となりました。

昨年度、わが子の不登校を通じてさまざまなご縁があり、学校教育について多角的に考える機会となりました。学校の意義とは何でしょう。教育すべきことは何でしょうか。

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【房日】250502_市部瀬の惨劇 恩人の情報知りたい

市部瀬の惨劇

84歳 記憶は薄れず
恩人の使者「アンドウさんの情報知りたい」

(房日新聞 2024.5.2.付)

鋸南町下佐久間で、米軍戦闘機P51が列車を機銃掃射、死者13人、負傷者46人を出した「市部瀬の惨劇」(1945年5月8日)で、当時、館山に疎開していた男性が、父親の依頼で列車に乗車していて被害に遭った人の情報を探している。惨劇から80年になるが、関係者の記憶は薄れない。

埼玉県朝霞市に住む、早川通夫さん(84)。父・兼通さんは海軍の軍医で中佐。一家は北海道登別に住んでいた。早川さんらきょうだいは戦火が激しくなった43年から、館山の知人宅に身を寄せていた。東京大空襲後、関東地方もいよいよ危険となり、早川さんは父のいる北海道に呼び寄せられる。きょうだい合わせて6人で北海道へ向かうことに。

 

軍人で忙しかった父の使者が「アンドウ」さんという男性。早川さんによると、父の部下ではなく、登別温泉の関係者らしい。複数で列車を乗り継いで館山に向かい、鋸南町で当該列車に乗り合わせ、銃撃に遭ったとみられている。

世はインターネット時代。早川さんは検索するうちに、NPO法人安房文化遺産フォーラムの情報にたどりついた。同NPOの紹介もあり、本紙記者との接触となった。

NPO関係者の身内が、当時の勝山町の助役だった。明確な回顧録が残されており、当時の町役場は、行政として銃撃に遭った人の対応に追われた。回顧録によると、被害者は胸の名札で住所が判明したが、自由にきっぷを買える時代ではなく、死者、負傷者の名簿もつくられなかった。

 

従軍記録のように長年保管される公文書ではなく、あの列車のアンドウさんがどんなふうに亡くなったのかの記録はない。きょうだいは、この使者グループの行動によって、館山から登別に引っ越し、戦後の生活につながった。

市部瀬の恒久平和の祈念碑を訪れた早川さんは、石碑に頭(こうべ)を垂れて、合掌した。現地の石碑には「死者13人」と刻まれているが、14人という説もある。これはアンドウさんが、現地ですぐに火葬されたという事情からだろうと早川さんは推測する。90歳になる早川さんの姉の記憶では、母親が夜に出掛け、遺骨を抱いて帰宅したという。「アンドウさんの『1人』が数字の差ではないか」と、早川さん。戦時中の混乱は記録の数字さえも狂わせる。

亡くなったアンドウさんは、当時5歳の早川さんを迎えに来た命の恩人。父の使者というだけで、どういう人なのかも分からない。名字の漢字も不明だ。「当時の情報はないに等しい。アンドウさんがどんな人物で、どんなふうに亡くなったのか。少しでも当時の情報があれば、知りたい」と早川さん。