【日時】2013年8月31日(土)13:30〜16:00
【会場】鋸南町中央公民館視聴覚室
【講師】高橋博夫(元館山市教育長)・池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム)
【主催】明日の鋸南町を考える会(代表:安藤恵美子)
戦後68年が過ぎました。戦中、戦後のつらかった生活や出来事は、記憶の壁のなかに消えようとしています。今はなしておきたい、聞いておきたい、そんなことが沢山あるはずです。
高橋博夫先生は、終戦の頃に教職に就かれ、館山周辺の様相をつぶさに見てこられました。貴重なお話をお伺いできることと思います。
池田恵美子さんは、安房の文化遺産の発掘、調査、保存等、精力的に活動されています。戦争遺跡や占領軍上陸についても詳しい方です。
厳しい暑さの中ですが、皆さんお誘い合わせおいでください。
⇒案内チラシ
【日時】2013年9月1日(日)14時
【資料代】200円
【主催】NPO法人安房文化遺産フォーラム
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安房北条駅まで鉄道(房総西線)が開通し、新しい時代に向かってまちは変わろうとしていた矢先、1923(大正12)年9月1日午前11時58分、未曾有の関東大震災(M7.9)が起きました。安房郡内の犠牲者は1,206人となり、なかでも館山湾に面した館山町・北条町・那古町・船形町では、全半壊や火災焼失した家屋が98%にのぼりました。
安房郡震災復興会(小原金治会長)が組織され、道路・河川・海岸・港湾などの土木や建築物の復興とともに、農林水産商業などあらゆる産業の復興が急がれました。一方、震災は地形の変化をもたらしました。高の島が干潟で陸続きとなって歩いて渡れるようになり、鏡が浦の海岸線も延びて遠浅の海となりました。海岸沿いの地域では鉱泉が噴出したところもあり、海水浴場としての魅力も増し、「復興活動に努力せられつつある都人士を迎えて慰安を与ふる」という観光事業の推進が大きな役割を果たしたといいます。
館山駅西口近くの中村公園隣りには、慰霊のために建立されたという観音堂があります。大震災から90年という節目にあたり、あわせて東日本大震災の犠牲者を供養し復興を祈念するとともに、館山での震災はどうだったのを学ぶ機会にしたいと思います。
安房歴史文化研究会2013年(第24回)公開講座 2013年7月27日
明治期館山の殖産興業をみる 〜小原金治の経済人ネットワーク
NPO法人安房文化遺産フォーラム代表 愛沢 伸雄
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明治期、千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物である。小原金治の生涯については、資料に乏しく不明な点が多い。最近、館山市南条の生家から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見された。この「草稿」と富崎の小谷家住宅から発見された水産資料を通じて、明治期の館山の姿を知ることができる。
金治は、1859(安政3)年、豪農であった父桂助母かよの長男として旧南条村で出生。12歳で旧館山藩士であった叔父から初めて読み書きを学ぶ。以来、22歳まで農業の傍ら、地域の漢学の師を訪ね、独学で勉強。21歳のときに大きな転機が訪れる。金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし勝訴した。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代、政治を見る眼や法律に強い関心をもち、北条村で何回か開催されていた民権派の演説会に参加した。東京からの弁士小野梓や田口卯吉や、地元の県議小原謹一郎や若手の満井武平らの熱弁を見聞し、政治世界に入る契機になったと思われる。
激動する時代にあって、22歳の金治青年も大きな志をもって上京した。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学ぶ。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷。その頃、北条村で開催された民権派の演説会では弁士の一人として活動するなかで、1884(明治17)年25歳の金治は南条村会議員に選ばれた。
村議の活動では、住民から無法状態にあった房州白土の採掘と土地問題について相談をうけた。金治は県や国に働きかけるとともに、住民との契約関係をもった会社を立ち上げることにした。安房坑業会社と呼ばれたこの白土会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長になり、地元からは金治自らが取締役となった。最近、源慶院からこの会社と契約を結んだ吉田智道住職の証書が見つかっている。
岩谷は松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっている。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと書いている。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎である。小原は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴し、安房汽船会社を創設した人物である。しかし、運賃競争で破産して大きな負債をかかえ三六歳で亡くなっている。また、盟友になる満井武平を通じて彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門とも交流が生まれ、安房の水産業問題も語り合ったであろう。
1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選した。二人は力を合わせて安房の殖産興業に取り組んでいった。当時、関澤明清や神田らは近代的な水産事業を自ら実践していた。満井は大隈重信の立憲改進党に入ったが、金治は党派の政策にこだわらない政治的立場をとっていた。県議三期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介で大隈重信と会見。その後に大隈の理念に共鳴して改進党の一員となったのであった。
衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかで大隈の側近岡山兼吉らの説得があり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立された。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年九月の第四回衆議院議員選挙は改進党の重鎮島田三郎らの応援や安房国改進党の全力をあげた選挙運動によって、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選した。日清戦争のなかで注目されることが「草稿」にある。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介で、金治は勝海舟と会見したという。日清戦争と国政のあり方について懇談し、高い見識に驚いたとの記載がある。
1897(明治30)年までの3年間の議員活動で、安房において重要なものの一つが、神田や満井らの水産業の改革を応援し、関澤明清が館山で取り組んでいる先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっている。二つ目には県議時代より正木貞蔵らの公的な海運事業「安房団体」組織し援助してきた。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要であったが、常に資金的な課題を抱えていた。金治は殖産興業の資金を調達する金融機関設立が急務であると安房郡長の吉田謹爾とも相談していた、吉田の義父は旧館山藩士で金治の叔父とは仲間であったし、8歳年長の吉田は村議や県議の時代から強い結びつきがあった。金融機関設置する方策では、金治は安房出身である大物大蔵官僚である曽根静夫国債局長に相談したであろう。曽根は日清戦争時に戦時国債を発行し戦費調達を成功させた人物として金融界に大きな影響をもっていた。金治と曽根と吉田の三者の連携のもとで、安房ゆかりの企業人福原有信や浅田正文、川崎財閥の総帥川崎八右衛門らを発起人として、1896(明治29)年、千葉銀行の前身である安房銀行がスタートしたのであった。
謹厳実直で実務派の吉田謹爾は郡長を辞め専務取締役として全てを仕切った。この年に金治は病気になったこともあり議員生活を終えている。しかし、自ら先頭に立って本格的な安房の殖産興業に取り組んでいった。1897(明治30)年、館山の地でモデル的な遠洋漁業事業を実践して企業化のきっかけをつくった関澤が志半ばで急逝した。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社創設を呼びかけた。翌年に安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入され、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治が社長となったのである。
近代的な水産業を模索していた盟友満井の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていた。また、資生堂の福原有信は帝国生命保険を創設しているが、1894(明治27)年に社長となり、吉田らが呼びかけて遭難者家族救済のための保険事業に関わった。神田も全国でも先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原の帝国生命保険と連携した取り組みをおこなった。実はこの動きは人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかで地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に貢献していったことを忘れてならないであろう。
その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努めていった。金治は吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年、安房銀行を頭取として引き継いでいる。県内の金融界の重鎮として、千葉銀行創設に一石を投じるなか、1939(昭和14)年79歳で没している。
今回の報告は、小原金治の動きを切り口に明治期の安房での殖産興業の一端を紹介した。
青木繁「海の幸」が描かれた小谷家
南房総・布良を訪れる旅
⇒案内&申込書PDF
【期日】2013年8月10日(土)
【旅行代金】11,000円(往復バス代・昼食代・あわがいどマップ代)
【行程】8:00JR東京駅出発〜19:30JR東京駅解散
【見学地】
・「海の幸」誕生の家・小谷家
・「海の幸」記念碑
・阿由戸の浜
・安房神社祭礼
〜「海の幸」のイメージソースのひとつといわれる神輿出祭〜
【募集人員】43名(最少催行人員30名)
【申込〆切】7月26日(金)
【企画】NPO法人青木繁「海の幸」会
【後援】館山市・館山市教育委員会
【協力】青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会・NPO法人安房文化遺産フォーラム
【旅行主催】株式会社トラベルプラン
⇒案内チラシ
人をつなぎ、暮らしと地域をつむぐ
〜千葉の地で学びの力をたしかめよう〜
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期日=2013年8月3日(土)・4日(日)
主催=第53回社会教育全国集会千葉県実行委員会、社会教育推進協議会
【3日】
第一全大会:リレートーク
・池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム)
「見る・学ぶ・歩く・集う〜館山まるごと博物館」
【4日】
16分科会:学習者に寄り添う地域博物館実践を探る
・池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム)
「市民が主役の文化財保存運動と生涯学習まちづくり」
東京湾をまるごと博物館に
館山と横須賀NPOがシンポ〜観光とは異なるアプローチを
(房日新聞2013.7.30付) ⇒ 開催概要
古くから歴史文化を共有する房総半島と三浦半島の文化遺産を活用し、東京湾一帯をまるごと博物館ととらえて広域連携を考えるシンポジウムが23日、館山市中央公民館で開かれた。
同市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄理事長)と、神奈川県横須賀市で戦争遺跡の保存活動を展開するNPO法人アクションおっぱま(昌子住江理事長)が共催。館山、横須賀両市をはじめ都内などから70人が参加した。
シンポジウムでは、はじめに昌子理事長が、貝山地下壕や第三海堡(かいほう)遺構の保存活動などを報告。活動から生まれた「フィールドミュージアム(屋根のない博物館)」構想を説明した。
続いて安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長が、館山周辺の戦跡や明治期の画家・青木繁が代表作の「海の幸」を描いた足跡など、歴史や文化をまとめた「館山まるごと博物館」の事例を発表した。
最後に土木・産業遺産の利活用を研究する近畿大学の岡田昌彰教授が、イギリスやフィンランドなどを例に、海外の多様な戦跡の利活用、公開方法などを紹介しながら助言。
愛沢理事長が「地域資源を活用したまちづくりという視点は、物見遊山の観光とは異なるアプローチで、人と人との交流を生み、地域を活性化させる。横須賀と館山の共通点、それぞれの特徴を生かした連携で、東京湾まるごと博物館という構想を前進させたい」と締めくくった。
シンポジウム終了後は、海軍航空隊赤山地下壕跡、青木繁のゆかりの地を巡るフィールドワークも行った。それぞれの文化財の維持管理者らともふれあった参加者は、感激した様子だった。
⇒ ヘリテージまちづくり講座(案内チラシ)
横浜国大の森田です。
エコミュージアム系の研究をしております学生の、社会人大学院生の方です。
普段は信州に住み、マナビノタネという会社をやっております。
昨日は大変丁寧なご案内を頂き、有難うございました。
館山まるごと博物館、とても愉しく学ばせていただきました。
誠に僭越ながら昨日を振り返りながら感想を述べさせて頂きます。
到着して最初の池田さんの座学はいくつもの気づきや動機付けがある時間でした。
地下壕などの戦争遺跡があること、南総里見八犬伝のモデルになった稲村城があること、
プレートがぶつかり日本で一番隆起しているジオパーク的な場所であることなど、
その後に現地へ向かうための動機付けがしっかりできる内容で、
この1時間で私の意識も館山に「チェックイン」でき、とてもよかったです。
動機付けばっちりで始まったウォークでは、初っ端から、
忘れ去られて行く石碑のお話しにいきなり共感しました。
私もいま石巻市雄勝という場所で内閣府の復興アドバイザーをしており、
忘れないために石に刻んで石碑にしましょうなどと言うようなこともあります。
でも石碑にしても忘れ去られてしまう事実があるのだということを目の当たりにしました。
やはり「その場所に通う」という慣習や仕掛けも一緒につくらないといけないのでしょうね。
ご近所の方がその場所の当時の写真を持って出て来てくれた出来事、ちょっと愉しかったです。
ご自宅アトリエの小枝アート作品を拝見させて頂き、土地の暮らしを愉しまれている方が
いらっしゃるのがわかりました。現地の暮らしに触れることこそ、最も興味深いことです。
地下壕に入る前にお見せ頂いた「軍事極秘」の文字が入った地図に、中はどうなっているのか
ワクワクさせられました。演出として考えてやられているのでしょうか。あの4文字はすごい効果です。
地下壕の中の環境で、当時の日本軍の様子や諜報部や特攻隊の若者の話など、
愛沢さんのさまざまな仮説を伺い、平和について強く憶う、よい時間になりました。
また、途中で質問させて頂きましたが、どのようにお調べになられているのか、
図書館を活用することもあるのかについては、
図書館や博物館では完結せず、水道局や映画の関係者にまでヒヤリングをされ、
現地と資料探索を行ったり来たりして積み上げてきたというお答えに、
館山まるごと博物館の素晴らしい内容がどうして出来上がったのか非常に納得いたしました。
最後に、2点。
今回のツアーでは「仮説ですが、」「私の説ですが、」というお話し方にとても共感いたしました。
歴史や地質学は、その当時の様子はどうであったかを想像する力次第です。
昨日はこちらの都合で短い時間内でお願いしてしまったからかもしれませんが、
もし諸説があるものがあればそれらも愛沢さんの説と一緒に聞いてみたいなと思いました。
また、私の方で開発しましたECOMU snapというiPhoneアプリをまもなくリリースします。
現地、資料、特産物などの解説データをデータベースに登録し、
それらを組み合わせたガイドブックをベースにした
事前学習・見学体験(地図表示、写真撮影・コメント共有)・振返り学習
ができるものです。
是非どこかでこれを用いた実証実験などをご一緒にできればと思っています。
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。
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森田秀之/株式会社マナビノタネ
生活協同組合ちばコープより、
平和活動分野における地域社会貢献の功績が認められ、
地域かがやき賞を表彰されました。
ご支援いただいた皆様に感謝申し上げます。