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【日時】2021年8月6日(金)9:00~15:00
【会場】館山市コミュニティセンター
・展示ホール=パネル展示「原爆と人間」
・第1集会室=「原爆の絵」35点ほかDVD4種
※広島市立基町高校の生徒と被爆者の共同制作による「原爆の絵」をスライドで紹介します。
※NPO法人安房文化遺産フォーラムの「館山の戦争遺跡と平和学習」パネルも展示します。
…⇒ 印刷用チラシPDF
…⇒ 房日新聞記事
(月刊『教育旅行』2021年8月号_~戦争遺跡で考える「戦争と平和」)
⇒ 印刷用PDF
南北逆さに地図を見ると、房総半島南端の館山は、弧を描く日本列島の頂点に位置している。太平洋に突き出て、東京湾の入口にあたるため、古くから海路を通じて海洋世界の人びとと交流し、共生してきた地である。その地の利は支配権力にとっての要衝でもあり、中世には水軍をもつ里見氏が170年にわたり安房国を治め、明治期以降は東京湾要塞の重要拠点となった。
狭い半島先端部に、中世城跡群と近代の戦跡群は重層的に存在している。たとえば館山城跡は、戦時下に頂上が削られて砲台が築かれており、現在、八犬伝博物館のある城山公園は城郭遺構と戦跡の両方を見ることができる。多彩で魅力的な自然・歴史文化遺産を「館山まるごと博物館」と呼び、スタディツアーガイドをおこなっている。
なかでも戦跡は館山市内に47確認されており、Aランク18(近代史を理解するうえで欠くことができない史跡)、Bランク13(特に重要な遺跡)と高い評価が多い。とりわけ「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」(館山市指定史跡)は平和学習拠点として一般公開され、多くの来訪者を迎えている。
NPOのスタディツアーガイドは10人以上の団体で引き受けている。館山の平和学習は、加害と被害の両面から戦争を俯瞰できることも特徴のひとつである。しかし、沖縄・広島・長崎とは異なり、ただ見学しただけではその歴史背景を理解することがむずかしい。
そこで平和学習プログラムとして、約1時間の座学をテキスト付きで提供している。見学は20人程度のグループ毎にガイドがつき、参加費は一人あたり2,000円である。
(※ ガイド料金は2023年6月改定)
基本コースの赤山地下壕は所1時間弱。ほかにも、徒歩10分のところにある掩体壕をはじめ、団体の希望に応じて多様なオプショナルコースを組んでいる。
座学では、真珠湾と館山湾、沖縄県と千葉県、米軍の本土侵攻計画「コロネット作戦」と大本営の本土決戦防衛計画などの地図をそれぞれ比較しながら、世界戦略上に位置づけられた館山の役割を地政学的に紹介している。
「館山まるごと博物館」の総合学習は、歩いて渡れる無人島「沖ノ島」の環境学習や貝磨きアクセサリー作り体験、木造文化財校舎の見学、海岸段丘や200万年前の海底地滑り地層などを組み合わせることもできる。
沖合で3つのプレートがぶつかり合う影響から、館山は日本で一番隆起しているといわれる。関東大震災では湾岸部の市街地が99%壊滅し、2つの離れ小島までの間が干潟になった。
そこを埋め立てて、震災7年後の1930年に館山海軍航空隊が開かれた。1✕2kmの狭い航空隊は通称「陸の空母」と呼ばれ、艦上攻撃機のパイロットや落下傘部隊の養成がおこなわれた。
その南側に位置する標高60mの赤山内部には、網の目状に2km近く掘られた巨大な地下壕がある。ほとんど資料がなく、作られた時期は不明である。市教委の文化財看板には「終戦が差し迫った1944年より後に建設されたのではないか」と書かれているが、昭和一桁生まれの周辺住民は「日米開戦前から掘り始められていた」と証言している。
壕内の壁面は凝灰岩質砂岩で、鮮やかな地層や断層が美しい模様を描いている。平和学習だけでなく、総合学習の教材としても人気が高い。大部分が素掘りで、均等な力加減で掘られたツルハシ痕がくっきりと残っている。発電室の壁や天井は、岩盤の上に金網を張ってコンクリートを塗り、崩落防止が施されている。はたして戦争末期の混乱時期に、こんなに丁寧な作業ができるものだろうか。壊滅した震災後の地質調査をしたうえで場所を選定し、かなり早い段階から専門部隊によって秘密裏に掘られたモデル的な地下壕でないかと推察される。
艦船ミズーリ号での降伏文書調印式の翌日、1945年9月3日。米占領軍3600名が館山に上陸し、本土唯一「4日間」の直接軍政が敷かれた。敗戦後の日本の占領政策を考えるための試金石だった可能性が高い。
赤山地下壕内には「USA」の朱文字が残されている。近年、米国テキサス軍事博物館から入手した資料のなかに、館山に上陸した米占領軍司令官の報告書があった。そこには、「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、そこには完全な信号、電源、ほかの様々な装備が含まれていた」と記され、赤山地下壕が完ぺきな状態で存在していたことがわかる。単なる防空壕ではなく、館山海軍航空隊の管制機能をもつ航空要塞的な地下施設であったことが示唆される。
21世紀を迎えるにあたり、国連はユネスコの提唱を受けて、世界中を「平和の文化」で充満することを宣言している。「平和の文化」とは、対立が起きたとき、あらゆる生命を傷つけることなく、暴力によらず対話によって解決していこうとする価値観や行動様式と定義される。
戦争末期、安房では農民には花作り禁止令が出されたが、「花は心の食べ物」として命がけで花の種苗を守った農民がいたおかげで、戦後の花畑につながっている。
ほかにも、江戸期に建立された平和祈願のハングル「四面石塔」や、清国遭難船を救助した記念の「日中友好」の碑をはじめ、「平和の文化」の教材が多くある。館山の平和学習は、戦争という一面的ではなく、交流・共生という観点から「平和の文化」を多面的に学ぶことができる。
EICネット「エコナビ」一般財団法人環境イノベーション情報機構
001「24年にわたるウガンダと安房の友情の絆」
002「ピースツーリズム(1)-巨大な戦争遺跡・赤山地下壕-」
003「『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏」
004「海とアートの学校まるごと美術館」
005「ピースツーリズム(2)-本土決戦と「平和の文化」-」
006「令和元年房総半島台風の災禍」
007「女学校の魅力的な木造校舎を未来に」 -旧安房南高校の文化財建築-
008「百年前の東京湾台風とパンデミック」
009「明治期に渡米した房総アワビ漁師の古文書調査」
010「青木繁『海の幸』誕生の漁村・布良」
(房日新聞:展望台2021.7.20)…⇒印刷用PDF210720房日展望台(戦跡ガイド)
42年ぶりに故郷の館山にUターンしたが、あまり地元のことを知らない自身を自覚する。NPO法人安房文化遺産フォーラムが主催する戦跡ガイド講座があると聞き、早速参加した。参加者は15人。市外から3人、館山への移住者が4人、高校生2人の他、小学生2人も。
座学から始まる。館山市内には47もの戦跡があるという。うち公開されているのは赤山地下壕だけだそうだ。ここだけが市の所有地。昭和30年代から約40年の間キノコ研究者が住み、利用していたため、保存状態が良好だった。
講義は戦跡に限ることなく地形の成り立ち、戦争に至るまでの歴史など多岐にわたる。とても覚えきれない。2度目の参加者もいる。
1時間半の講義の後、地下壕に入る。この日気温は30度近く、湿度は52%。壕の中に入るとひんやりする。ガイドが身に着けている寒暖計を見ると19度を指している。湿度は72%。内部は非常にきれいで想像していたより広い。すぐにでも住めそうだ。資料が残っていないため、この壕がつくられた年代についてさまざまな説がある。館山市教育委員会の看板によると、終戦が差し迫った1944年以降だとされている。壕内は、金網を張った上にモルタルが塗られている箇所があり、大部分は丁寧な素掘りである。果たして終戦間際の混乱時期に、こんなに丁寧な作業ができるものなのだろうか。「赤山は真珠湾攻撃前から掘り始められた」。赤山の近くで生まれ育った元館山市教育長の高橋博夫氏の証言も残る。
壕の壁にはうねるような地層とともに、断層もいくつか確認できる。地学的な見どころもふんだんにある。
館山市およびその周辺に多く残る城跡。遺産群として保存し、歴史から学ぶ「平和・交流・共生」のまちづくりを進められたら、と講師は語る。「移住してきて6年。館山のことをまだまだ知らない中で非常にためになる経験をした」と参加者は話す。
赤山は標高が60メートル。城山同様、赤山も整備して歴史を感じる散策コースにしたらどうだろう。頂上からの眺めはさぞかし良いことだろう。「しろ」と「あか」。面白そうだ。
青木繁≪海の幸≫誕生の家と 記念碑を保存する会
副会長の 島田𠮷廣さんが、
病気療養中のところ 71歳で
令和3年6月27日午後2時38分永眠されました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
・通夜=7月2日(金)18:00~ ヤマト本社斎場
・告別式=7月3日(土)8:30~ ヤマト本社斎場
・火葬=7月3日(土)10:30~ 安房聖苑
(房日新聞2021.5.7付)
館山市の赤山地下壕など地域の戦跡を案内するガイドの養成をする講座が5月1日、同市宮城の豊津ホールなどであり、7人が座学とフィールドワークで戦跡について学んだ。
地域の歴史、文化遺産の調査研究やガイド事業などを展開するNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が、戦跡ガイドを増やしていこうと開催。
今回は赤山地下壕、掩体壕をメインに、ガイドやサポートができるようにすることを目標に設定した。
参加者らは、座学で歴史背景などを学んだ後、実際に赤山地下壕、掩体壕へ。同NPOメンバーからガイドのポイントを聞きながら巡り、「ガイドする相手が子どもなのか、知識のある大人なのか、それに応じてガイド内容を考えるように」と、ガイドとしての心構えも学んだ。
参加した南房総市の鈴木るみ子さんは「ガイドするにはまだ自信は無いが、サポートすることはできそう。情報量が多く、さまざまな歴史背景の話がつながって興味深かった」と感想を話していた。
講座は5月15日にも開催される。定員は15人で、3日前までに申し込みが必要。参加費は会員無料、非会員500円となっている。問い合わせはNPO法人安房文化遺産フォーラム(0470-22-8271)へ。
●テキスト『館山まるごと博物館』を使用
(房日新聞2021.5.6付)
…⇒ 房日210430
*房総アワビ移民研究所(3年目)
「房総アワビ漁師移民の古文書研究と漁村文化のまちづくり」
熊谷俊人知事は27日、おととしの台風15号で大きな被害を受けた館山市、南房総市、鋸南町の被災地を訪れ、復興状況を視察した。知事就任後、安房地域を訪れるのは初めて。各市町の首長の説明を聞きながら、住宅修繕や農家の現状を把握した熊谷知事は、「市町村と一緒に、安房地域の被災地にもう一度人が戻ってくるようなまちづくりをしていくことが重要だと実感した」と語った。
熊谷知事は午前、館山市内で最も被害が大きく、約8割の住宅が被災した富崎地区を視察。神輿蔵が倒壊し、神輿が大破する被害のあった布良崎神社や、周辺の住宅の復旧の様子を見て回った。
午後は、出荷の最盛期を迎えている南房総市富浦町青木のビワやカーネーションの農業用ハウスに足を運んだ。熊谷知事がビワを試食し、「おいしい」と笑みをこぼす場面も。ビワ農家の岡本正さん(71)は「出荷量は被災前の1割にも満たない。元の状態に戻るには10年ぐらいはかかる」と説明。被災後、安房地域のビワ園の約2割が栽培を諦めたといった深刻な状況を聞き、熊谷知事は「ぜひ生産を続けて、おいしいビワを全国に出荷していってください。しっかりバックアップします」とエールを送った。
その後、約7割の住宅が被災した鋸南町では、特に甚大な被害を受けた岩井袋地区を訪問。町の担当者から、「岩井袋では、被災後に地区外へ移り住むなど、被災前と比べ世帯数が2割減少している」などと説明を受けていた。
視察後、記者団の取材に応じた熊谷知事は「8~9割、復旧復興が進んできている」と話し、被災により加速した人口減少を食い止めるために、雇用の重要性を強調。「農業も含めた経済の活性化、雇用の確立に力を入れていきたい」と抱負を語った。
さらに、熊谷知事が目指す「防災県」の確立について、「2市1町の市長町長からも話があったのは、情報の部分。被災地の実情を県庁がすぐに把握して、機動的に動けるような体制を普段から構築しておくことが重要」と述べた。