…⇒ 房日210430
*房総アワビ移民研究所(3年目)
「房総アワビ漁師移民の古文書研究と漁村文化のまちづくり」
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*房総アワビ移民研究所(3年目)
「房総アワビ漁師移民の古文書研究と漁村文化のまちづくり」
熊谷俊人知事は27日、おととしの台風15号で大きな被害を受けた館山市、南房総市、鋸南町の被災地を訪れ、復興状況を視察した。知事就任後、安房地域を訪れるのは初めて。各市町の首長の説明を聞きながら、住宅修繕や農家の現状を把握した熊谷知事は、「市町村と一緒に、安房地域の被災地にもう一度人が戻ってくるようなまちづくりをしていくことが重要だと実感した」と語った。
熊谷知事は午前、館山市内で最も被害が大きく、約8割の住宅が被災した富崎地区を視察。神輿蔵が倒壊し、神輿が大破する被害のあった布良崎神社や、周辺の住宅の復旧の様子を見て回った。
午後は、出荷の最盛期を迎えている南房総市富浦町青木のビワやカーネーションの農業用ハウスに足を運んだ。熊谷知事がビワを試食し、「おいしい」と笑みをこぼす場面も。ビワ農家の岡本正さん(71)は「出荷量は被災前の1割にも満たない。元の状態に戻るには10年ぐらいはかかる」と説明。被災後、安房地域のビワ園の約2割が栽培を諦めたといった深刻な状況を聞き、熊谷知事は「ぜひ生産を続けて、おいしいビワを全国に出荷していってください。しっかりバックアップします」とエールを送った。
その後、約7割の住宅が被災した鋸南町では、特に甚大な被害を受けた岩井袋地区を訪問。町の担当者から、「岩井袋では、被災後に地区外へ移り住むなど、被災前と比べ世帯数が2割減少している」などと説明を受けていた。
視察後、記者団の取材に応じた熊谷知事は「8~9割、復旧復興が進んできている」と話し、被災により加速した人口減少を食い止めるために、雇用の重要性を強調。「農業も含めた経済の活性化、雇用の確立に力を入れていきたい」と抱負を語った。
さらに、熊谷知事が目指す「防災県」の確立について、「2市1町の市長町長からも話があったのは、情報の部分。被災地の実情を県庁がすぐに把握して、機動的に動けるような体制を普段から構築しておくことが重要」と述べた。
(房日新聞2021.4.27付)
NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は、5月1日と15日に、館山市宮城の豊津ホールで、ガイドの後進指導と拡張のための戦跡ガイド講座・基本コースを開く。
ガイド経験者・未経験に問わず、実際にガイドとして語ることを目的に、座学で赤山地下壕と掩体壕を学ぶ。サポートスタッフとして運営補助に当たりたいという人も参加ができる。
時間は午前9時から正午まで。両日とも講座の内容は同じで、参加は無料だが、同NPOへの入会(正会員1万円、準会員2000円)が必要。定員は15人まで。
申し込み、詳しい問い合わせは、NPO法人安房文化遺産フォーラム(0470-22-8271)へ。
・エコレポ「館山まるごと博物館」
・ピースツーリズム①「赤山地下壕」
・ピースツーリズム②「本土決戦」
(房日新聞2021.4.4)‥⇒印刷用PDF
先月21日に投開票された県知事選挙で、史上最多の140万票を獲得し初当選した元千葉市長の熊谷俊人氏(43)。あす5日付で新知事に就任するのを前に、房日新聞の単独インタビューに応じた。インタビューでは、プライベートでも毎年のように足を運んでいるという安房地域への思いや、安房地域の現状を踏まえた今後のビジョンを語ってくれた。
これだけの票を頂くのは当初想定していなかったので、それだけ県民の皆さんの期待が大きいということ。特に、おととしの災害とコロナがあって、知事という職種に対する県民の危機感、期待感がこういう形になったと思っている。
知事選の立候補を決意した理由の一つが、あの災害からの復旧復興。そして、安房や銚子といった地域を活性化させたいという思いが立候補の原動力なので、決意した時点で第一声は安房で行うと決めていた。
空き家が増えている状況で台風があり、今もブルーシートが残っている。ブルーシートをどう解消するか、弘次事業者待ち、お金の問題、空き家といったそれぞれの状況に応じて、各市長たちと意見交換をして、復旧復興につなげていきたい。
まず一つ目は、雇用と産業をどうつくっていくか。県として、安房地域の土地の状況を見て、可能性のある土地があるか、そこにどういう産業を呼び込むのか検討していく。
二つ目は、観光業として日帰りではない「宿泊型」をどう増やしていくか。観光面にもっと力を入れて、滞在日数を増やし、落ちるお金を多くするために、県としても支援していきたい。
三つ目は、もっと富裕層に来てもらい、お金を落としてもらうような展開をしていったら方がいい。1週間のうち2,3日安房で暮らすスタイルを含め、そういう人たちを取り込んでいかなければならない。
私自身、毎年旅行に行くほど安房地域のファンなので、その魅力にふさわしい評価を受けるようにしたい。
かなりの頻度で言っている。家族で宿に泊まって、のんびり海を見て過ごす。妻にプロポーズしたのも、館山の北条海岸。妻も私も美術が好きなので、鋸南の菱川師宣記念館、布良の青木繁「海の幸」記念館に行ったり、勝浦、鴨川から館山、鋸南までを回ったり。
本来持っている土地の魅力は一級品。館山は三方が生みに囲まれて、日本のダイヤモンドヘッドのよう。観光地として成功しているところは、仕掛ける人が外の人なので、外の意見が一定量入るようになれば、自然とあか抜けていくと思う。
首長で大事なことは「ハブ」になること。その地域のためにいろんな人の力を結集する。東京、日本、世界の人など、安房のためになんとかできる人をどんどん連れてくる。地元の人たちももっと立ち上がって、エネルギーが一つになるよう、私自身現地に何回も行って、可能性を探っていきたい。単に安房地域のためだけではなく、この地域の魅力が上がることで、千葉県全体の魅力が上がると思っている。
【期間】2021年4月3日(土)~4月11日(日)
【会場】
・会員展=館山市コミュニティセンター
・特別展=南総文化ホールギャラリー
※愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)が版画3点出品しています。
【房日】210325*「福田たね」の懐想画」語る(安房歴史文化研究会)
(房日新聞2021.3.25) ‥⇒印刷用PDF
安房歴史文化研究会の今年度第3階の公開講座(通算65回)が、28日午後2時から、館山市北条の市コミュニティセンター第1集会室で開かれる。同会の天野努会長が「青木繁《海の幸》と福田たね-福田たねの懐想画を中心にして」のテーマで語る。資料代として200円。
1月開催予定の例会が3月に延期された。万全の感染対策、検温、マスク着用、換気、密を避けることを守り、参加者を募る。
近代洋画部門でわが国最初の重要文化財に指定された青木繁の「海の幸」は、明治37年の夏、房州布良の小谷家に滞在中に描かれた。
天野会長は3年前、この公開講座で青木がこの作品に込めた思いやその背景について私見を述べた。布良に同行した福田たねが後年描いた懐想画などの資料からうかがえる、布良での様子や青木への思いについて、ほとんど触れることがなかったという。
今回は資料として、たねが後年、布良での出来事を懐想して描いた水彩画と前回も使用した「回想の記録」を取り上げる。たねが当時見聞きした布良の様子などについて検討した結果、半世紀ほどたっても、たねの脳裏には布良での出来事が深く刻まれていたことが明らかとなった。青木やたねが布良でどのようなことを見聞きしていたか、その一端を知ることができたという。
「布良の思出 たね子」のサインのある水彩画は、赤ん坊を背負った母親が海岸で夜の海に向けて提灯(ちょうちん)を掲げている絵で、その脇に「幸やいかに 未だわが背は かえる来ぬ 沖や大島 波の音しぬ」の歌が記されている。
福田たねと青木繁は、8月末ごろ帰京し、たねが翌年8月に愛児「幸彦」を生む。2人にとっては布良での滞在は1か月半ほどであったとはいえ、互いの心を強く結び付ける日々となったことが間違いないとし、たねが残した「回想の記録」と「懐想画」が、2人の関係とともに「海の幸」誕生に関わる貴重な資料となるものとして、天野会長が語る。
問い合わせは、事務局の石崎和夫さん(0470-23-6677)へ。
(ジパング倶楽部 2021年4月号) ‥⇒印刷用PDF
名作の舞台へ
いつか、あの作品の舞台へ行ってみたい――。
小説、映画、絵画、音楽・・・・・・名作にはそんな、人を引きつける力があります。ずっと凍路に残る、名作の舞台を紹介します。
青木繁《海の幸》
1904年 油彩・カンヴァス 70.2×182.0センチ
重要文化財 石橋財団アーティゾン美術館蔵
漁師たちが獲物を背負い意気揚々と更新していく――。荒々しくも生(せい)のエネルギーにあふれた絵画が、青木繁の《海の幸》です。
1882(明治15)年、今の福岡県久留米市に生まれた青木は、高等小学校で坂本繁(はん)二郎(じろう)に出会います。青木は坂本が通う画塾に入り、絵画の道へ。二人は生涯、画家として切磋琢磨することになります。
17歳で上京した翌年、青木は東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。在学中『古事記』などの神話や文学など書物を読みふけった経験は、白馬会第8回展での《黄泉(よもつ)比良坂(ひらさか)》など十数点の受賞、さらにのちの《日本武尊(やまとたけるのみこと)》など、神話をモチーフにした一連の作品に大きな影響を与えます。
1904年に学校を卒業した青木は、坂本、森田恒(つね)友(とも)、恋人・福田たねと房州の布(め)良(ら)で夏を過ごします。天富命(あめのとみのみこと)が忌部(いんべ)一族を率いて上陸したという開拓神話が伝わる地で、太陽と海、恋人の愛を受けた青木は、次々と作品を制作。そして生涯の最高傑作ともいわれる《海の幸》――。坂本が見た漁の様子や布良崎(めらさき)神社の神輿(みこし)から着想を得たという作品は、古代神話を彷彿させる勇壮さで見る者を圧倒し、大変な評判を巻き起こします。
今も布良には、青木たちが滞在した小谷家(こたにけ)住宅が「青木繁『海の幸』記念館」として残されています。その後、青木は貧困や作品の評価に苦しみ、病を患ってわずか28歳で生涯を閉じます。しかし、近代日本絵画の代表作ともなった《海の幸》を目の当たりにすれば、確かにあの輝かしい夏はあったのだ、と思えてなりません。
文/綿谷朗子
アーティゾン美術館/2020年に開館。前身はブリヂストン美術館。「STEPS AHEAD(ステップス アヘッド)新収蔵作品展示。(~5月9日)で《海の幸》を展示中。
●入館はウェブでの日時指定予約制。10時から17時30分。上記展示は月曜休(5月3日は開館)。ウェブ予約チケット1200円、当日チケット(窓口販売)1500円。東京駅八重洲(やえす)中央口から徒歩約5分。問い合わせは、ハローダイヤル☏050・5541・8600
青木たちが滞在した布良の集落。写真左に青木が「僕等の海水浴場」と呼んだ「阿由戸(あゆど)の浜」があります。●内房線館山駅から安房(あわ)白浜行ジェイアールバス関東約22分阿波自然村下車。青木繁「海の幸」記念館・小谷家住宅は徒歩3分(現在休館中)
●観光の問い合わせ/館山市観光協会☏0470・22・2000
‥⇒リンクはこちら
EICネット「エコナビ」一般財団法人環境イノベーション情報機構
・はじめに
・台風災害から古文書レスキュー
・古文書調査の再開
・古文書から見えるネットワーク
‥⇒シリーズ一覧【館山まるごと博物館】
001「24年にわたるウガンダと安房の友情の絆」
002「ピースツーリズム(1)-巨大な戦争遺跡・赤山地下壕-」
003「『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏」
004「海とアートの学校まるごと美術館」
005「ピースツーリズム(2)-本土決戦と「平和の文化」-」
006「令和元年房総半島台風の災禍」
007「女学校の魅力的な木造校舎を未来に」 -旧安房南高校の文化財建築-
008「百年前の東京湾台風とパンデミック」
009「明治期に渡米した房総アワビ漁師の古文書調査」
安房出身の小谷源之助・仲治郎兄弟をリーダーとするアワビ漁師(海士)らは、1897(明治30)年から米国カリフォルニアへ渡りました。寒流のモントレー湾域でヘルメット型の器械式潜水具を導入してアワビ漁に成功しました。実業家のA.M.アレンと共同で缶詰会社を興してアワビ事業も展開し、市民権を得ていました。彼らのゲストハウスには、政治家の尾崎行雄や画家の竹久夢二らも滞在し、皇族も立ち寄っています。彼らは単なる漁師移民にとどまらず、日米親善の架け橋として大きな役割を担ったと考えられます。その象徴として、日米の国旗とモントレーUSAと染められた万祝(まいわい)という漁師の着物が今も残っています。
長尾村根本(南房総市白浜町)の海産物問屋「金澤屋」に生まれ、長男の源之助(1867-1930)は慶応義塾幼稚舎を卒業した後、商法や簿記を学び、次男の仲治郎(1872-1943)は水産伝習所(現東京海洋大学)を卒業しています。明治初中期に安房から上京して高等教育を受けていることや、パイオニア移民として成功していることは注目に値します。
弟の仲治郎は、1906(明治39)年に帰国して七浦村千田(南房総市千倉町)に暮らしました。千田漁業組合長や安房水産会長、七浦尋常小学校の学務委員などの要職を歴任しながら、近隣集落より潜水士を養成してアメリカの兄のもとへ送り込んでいます。多様な知識と人脈をもち、水産界のみならず、様々な産業や教育・文化にいたるまで、安房地域の発展に幅広く貢献していました。
兄の源之助はアメリカに留まり、終生モントレーに暮らしました。日米開戦後、日系人たちは強制収容所に移送され、アワビ移民の歴史も幕を閉じています。戦後50年を経て、彼らの功績は米国で認められ、かつて住んでいた土地は「コダニ・ビレッジ」と公式に命名されました。戦後60年には、米国の歴史学者や二世三世を含む市民ら約40名が来日し、館山でアワビ漁師らを顕彰するイベントを開催して以来、日米交流や情報交換を続けています。
近年、仲治郎の旧宅を解体することとなり、遺族の許可を得て屋内を調査したところ、襖8枚の下張りから大量の古文書が見つかりました。旧宅は1914(大正3)年に建てられており、見つかった古文書は、実家の海産物問屋「金澤屋」に関わる勘定書類や契約書類、家族友人らと交わした書簡など多岐にわたり、ほとんどが明治期の資料でした。当時不要となった紙類を襖の下地に再利用したと考えられ、古文書は千切られた断片(断簡文書)になっていますが、貴重な歴史資料の発見となりました。
これまで、水産学者による先行研究や、アメリカ側からの資料で語られてきましたが、地域史からの新たな歴史研究の道が開かれました。
NPO法人安房文化遺産フォーラムでは、房総アワビ移民研究所と協働で、2019年春より本格的な調査研究に取り組み始めました。大量の古文書を紙質や筆跡別に分類し、封筒に仕分けして目録を作成する作業を進めていた矢先、9月9日に強大な台風15号の直撃を受けました。
資料を保管していたNPO第二事務所の古民家建物は屋根が飛び、全壊してしまいました。被災3日目から、散乱し水損した資料を拾い集めました。1枚ずつ分類していた封筒は中身が散失して空になったものもありました。屋根の残っていたスペースに座卓を積み上げて応急棚を作り、降り続く豪雨を一時的に凌ぎましだ。天気の晴れ間をぬって、回収資料を近くの廃校舎へ搬送し、水損の軽微なものは広げて乾かすように並べました。
水損の酷いものはカビの心配もあるので、「千葉歴史・自然資料救済ネットワーク(通称:千葉資料救済ネット)」に連絡をとって相談し、助言をいただきました。2015年の茨城県常総市のような河川氾濫とは異なり、泥まみれというほど酷くはないので、大学の研究室に委託するのではなく、試みることにしました。そこで、水損状況の酷い資料はビニール袋にまとめて入れ、しばらく家庭用冷蔵庫で冷凍保管としました。
その後は、台風被災によるNPO第一事務所の引越や被災者支援活動で多忙となったこともあり、古文書レスキューと調査活動は一時中断となりました。半年を経て2020年3月に、冷凍保管資料の再生作業をおこないました。新型コロナウィルス感染症が国内でも広がりつつある時期で、第1回目の緊急事態宣言前ではありましたが、水損資料の解凍に伴うカビの飛散にも十分留意して作業をおこないました。
まず、前日から自然解凍しておいた水損資料をビニール袋から出し、ヘラを用いて丁寧に剥がした後、新聞紙に挟んで布団圧縮袋に入れて掃除機で吸水し、これを数回繰り返して乾燥させ、原状回復に成功しました
2020年度になり、レスキューした古文書調査はゼロからの再スタートとなりました。研究チームは、市立博物館の古文書講座で学習したメンバーが中心となって、再び紙質や筆跡別に分類・封筒に仕分け・くずし字の判読・データ入力・目録作成と作業を進めました。さらに博物館の学芸員の協力を得て判読の添削を行い、精度を高めています。
台風被災で回収できずに散失したものもあり、さらに別保管していた襖絵4枚からも下張りを新たに取り出し、古文書はあわせて数百枚にのぼります。その中から、書簡を中心に目録作成まで完了したのはおよそ200余枚です。1枚1枚の内容を完璧に解読することは不可能ですが、地名や人名などを精査しながら研究を深めています。
古文書類は、金澤屋の勘定書や貸付に関わるもの、家族や友人らと交わした書簡、水産物仲買人や乾鮑生産者、清国貿易関係者等との商取引に関するものなど多岐にわたります。金澤屋の店主であった小谷清三郎(1845-1910)は、海産物問屋の事業家というだけでなく、1907(明治40)年まで長尾村の議員を務めていました。前述のとおり、明治初中期から子弟に高等教育を与えていることは特筆すべきことです。慶応幼稚舎に就学中の源之助と父清三郎との書簡などはたいへん興味深いものです。
清三郎や渡米前の源之助らは、新潟の佐渡や秋田の能代などに出向いて就漁あるいは乾鮑などの加工技術を指導していたことなどがわかりました。清三郎・たよ夫妻は、留守中の自宅と出張先で頻繁に書簡を交わし、商売の状況や子どもの教育についてなど細かに報告・相談をしています。
根本に隣接する布良にも支店があり、布良郵便局から為替送金したことなども記されています。青木繁『海の幸』誕生の地として知られる布良は、マグロ延縄船発祥の漁村として栄えており、近代水産業の発展において重要な役割を担っていました。また、館山出身で銀座資生堂創業者の福原有信やその縁者などとも親しい関係にあったことも見えてきました。仲治郎の水産伝習所同窓生や水産会、農商務省関係者等とのネットワークなども、明治期の殖産興業を考えるうえで貴重な資料として、研究に期待が寄せられています。