平安をお祈りいたします。
以前に教会の研修で館山に行った時、かにた婦人の村に地下壕があることを知りました。教会員で、かにた婦人の村に実習で学生を送っている大学教師の秋山胖(あきやまゆたか)さんが教えてくれました。
ていねいにご案内と学びの時を準備してくださってありがとうございました。集まった青年たちも働いている人が多く、事前学習会などを持てませんでした。その意味でも、座学は参加した一人一人にいろいろなことを思い出させ、これからの歩みの方向によき指針となったのではないかと思います。そして、実際に戦争をし、その備え(本土防衛、地上戦)の跡を見て、教えられ、考えることが、私にも、そして参加者にも多い時でした。
深津文雄牧師の志したことが今も生きていること、それが今もなくならないことの罪深さなどに思い至りました。
慰安婦の碑では、深津先生のご長女が仕事を中断して、後方のゲストハウスを案内してくださいました。ゲストハウスができたいきさつ、キリシタン禁制の札等々。
私個人としては、沖縄、松代、今回の館山と、地下壕は三回目になります。沖縄の人たちがなぜ地下壕に逃げなければならなかったのか、この3つの地下壕を見て、体験する時、よく分かってくるように思います。ガイドしてくださった方々にも、よろしくお伝えください。
なお、座学の時にベンポスタのお話がありましたが、私が見たビデオは「ベンポスタ共和国」—青池憲司監督、恒松龍兵さん(市川市国分在住)がカメラ撮影をした作品です。龍兵さんのお父様、恭助さんは「ちろりん村とくるみの木」の原作者で、館山の兵役につかれた方です。「礼拝と音楽」というキリスト教の小さな冊子(1995年)には、恒松龍兵さんがベンポスタについて書いています。コピーを同封しますので、参考にしてください。
長々と書いてしまいました。これからもお働きが地域のよき発信となり、一人一人が今生きていることの意味と、生きる方向性を示すことができていきますよう、祝福を祈ります。感謝まで。敬具
先日は大変お世話になりました。勉強交流会も食事時間を忘れるほどに、
熱意あふれるお話や豊富な経験を聞かせていただき有難うございました。
皆さんの情熱にはとても及びませんが、行政との交渉、運動へ巻き込み方など、
原則はしっかり持ちながら柔軟に対応されている様子など、
私たちはとかく行政追求型の運動になりがちですので、とても参考になりました。
また翌日には三平さんにはさまざまなご説明や、お世話になり、足の悪いものがおりましたので、
山の上まで車でいってもらうなどのご配慮や、赤山地下壕はもとより、
射撃練習場、掩体壕、米軍上陸地点、従軍慰安婦の碑、128高地の地下壕、四面石塔まで案内いただき、
多面的な戦争遺跡、世界につながる歴史的な遺跡を見せていただき、十分に満足して帰ってきました。
「ウミホタル」CDも早速拝聴し、ちいさな命さえ無意味に殺してしまう戦争の悲惨さを見事に表現され、
コンサートにまで積み上げひろげておられる運動に感動しました。
愛沢理事長の労作論文集も読ませていただきとても素晴らしい運動への指針を与えられた思いです。
まずは散り急ぎ御礼までにて、皆様の更なるご活躍をお祈りします。
これを機会に、またいろいろとご教授ご交流をお願いいたします。
本日は、大変お世話になりました。代表してお礼を申し上げます。
小学生の頃から住んでいる千葉県で、館山にも何度も行ったことがありましたが、
千倉のお花畑の印象が強く、そのお花栽培の禁止があったとは本当に驚きました。
これから、ゆっくりといただいた資料を読み返し、お話を思い出しつつ
理解を深めて行きたいと思っております。
機会がありましたら是非教会の中高生等にも学びをさせたいと一同話しました。
暑い中、熱心にガイドしてくださった君塚様にもよろしくお伝え下さい。
有意義な1日を、ありがとうございました。
この度は大変お世話になりました。
短い時間でしたが、内容の濃いフィールドワークになりました。
とりわけ赤山地下壕での紫金草合唱団の歌には心を動かされ、
「かにた婦人の村」の従軍慰安婦の碑をめぐる話には悲しみに
胸がいっぱいになりました。
昼食後のワークショップもとっても良かったです。
解かりやすく、そしてNPOの意図が明確に伝わる説明でした。
平和がいかに大切なものかを実感しました。
館山で学んだことをこれからの運動に生かしていきます。
ありがとうございました。
素晴らしいツアーでした
微妙なリアルさの狭間を歩み
奥行きの深い中に
さまざまな手法を持ち
愛沢さんと池田さんの名コンビが
市を動かし
観光ホテルまでを味方につけての
したたかさ
それでいて自分を売っている風もなく
自らを最大限活かし
生き生きと活動している様は
見ていて気持良く
元気を頂く事が出来ました
しかも小沢さんたち
あわがいどさんの誇りは
NPOによって町の人の魂が揺れ動かされはじめている
なによりのごちそうでした
そして地下壕で聞く
♪うみほたる
時空を超え圧巻
どうもありがとうございました!!!
違う仲間を連れてお伺いいたします
♪合唱
◎緊急報告!
海辺のまちかど博物館〜小高資料館を
私たちのたまり場としてオープンすることになりました!
◎今秋、法人名が変わります。
NPO法人安房文化遺産フォーラム
戦跡フィールドワーク〜大房岬・岩井海岸・鋸南方面
赤山地下壕無料ガイド
◆安房平和フェスティバル2006〜子どもたちに平和を手渡そう!
◆「たてやま地域まるごと博物館」構想
ようやく夏の陽ざしが照りつけるようになりました。
先日は、貴重な一日を過ごさせていただき、ありがとうございました。参加者の殆どが、初めて経験させていただき、大きな感銘を受けました。
そして、保存活用の為に、多くの方はお力を注いでいらっしゃることも、改めて知ることができました。
私どもも平和な社会をねがい、足もとの家庭を良くすることから…と活動をしている団体ですが、今回学ばせていただいた「共生・交流・平和」のメッセージを、家族や友人や地域に伝えてゆきたいと思っています。
遅くなりましたが、皆様の活動に、私たちの気持ちをお伝えできたらと話し合いました。ささやかですが、私たちの気持ちを贈らせていただきます。これからも、皆様、お体にお気をつけてご活躍下さいませ。
本日は、大変お世話になりました。
一同無事に帰宅しました。皆が行ったことを喜んでいてうれしく思います。
お聞きしたお話や見たことを私たちの生活にどう生かしていくか、これからの課題です。
とりあえず木更津の人たちは30日に控えた子育てお母さんの料理教室でがんばります。
ガイドの皆様へもくれぐれも宜しくお伝えください。(バスが出るまで送ってくださいました)
愛沢先生はじめ事務局の皆様もがんばってください。
いつかお目にかかる日を楽しみにしています。
……まち・くらしづくり部門……
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■審査講評■
千葉県南房総地域に残る戦国大名里見氏の城跡や、戦争遺跡などの歴史・文化遺産が、時代とともに忘れ去られ、破壊されていく状況にあったところを、多面的に保存・活用活動に取り組み、多くの情報を発信(フォーラムやシンポジウム、遺跡ウォーキング、講演会、講習会等を開催)することによって、地域に自信と誇りを呼び戻し、この地を訪れる人びとにも波及し、新たな交流文化によるコミュニティ・ネットワークを広げようと活躍している。
地域資源を活用し、参加と連携に多様な方法と工夫を用い、また、積極的な情報発信と幅広い人材活用・育成を行なっており、また、地域の活性化につながる「新しい公共」活動の実践事例およびNPO活動のモデルとして今後一層の発展が期待される。
=公益財団法人あしたの日本を創る協会=
■内閣官房長官賞**受賞レポート■
「足もとの地域から世界を見る〜授業づくりから地域づくりへ」
‥⇒印刷用レポートPDF
はじめに
私たちの活動の原点は、地域に残る戦国大名里見氏の城跡や、戦争遺跡(以下、戦跡)などの歴史・文化遺産を活用した学校教育の授業実践と、市民による保存運動にある。これらの調査研究やガイド活動を中心に、南房総・安房の自然や歴史・文化を活用した生涯学習による地域づくりを目的として、2004年にNPO法人を設立した。
この活動は、地域に生きる誇りや喜びを蘇らせてくれたばかりではなく、この地を訪れる人びとにも波及し、新たな交流文化によるコミュニティ・ネットワークが広がりつつある。
⇒⇒たてやま・地域まるごと博物館
房総里見氏の歴史・文化を継承する
曲亭馬琴の描いた戯作『南総里見八犬伝』は全国的に有名であるが、そのモデルとなった実在の戦国大名里見氏が170年にわたって南房総・安房の地を治めていたことはあまり知られていない。
1996年、里見氏の居城であった稲村城跡(館山市稲)は、公共道路計画により壊される寸前となった。『八犬伝』の舞台としても登場する稲村城跡は、その遺構の状態がよく、文化遺産としても価値が高い。私たち市民は、保存と国指定史跡化を目ざして「里見氏稲村城跡を保存する会」を結成し、署名運動や議会への働きかけをおこなった。
その一方で地域住民への啓蒙活動として、里見氏研究のシンポジウムや講演会、ガイド解説つきの文化財ポイントラリー、里見氏の城郭を結んだ歴史の道を歩くウォーキングなどに取り組んできた。継続した活動の参加者は延べ1万人にのぼり、地域の文化遺産を守ろうという誇りを市民に蘇らせていった。
10年にわたる地道な保存運動が実って道路計画は中止となり、市民の悲願であった国指定史跡に向けての取り組みも市当局から表明された。稲村城跡は、地域のシンボル的な文化遺産として、市民によってまもられたのである。
⇒⇒2012年、里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)は国史跡に指定。
戦争遺跡を平和学習の教材に活かす
古代より政治や軍事、交易において極めて重要な戦略的な拠点とされてきた館山は、先の大戦においては東京湾要塞として軍備強化された地である。飛行技術の開発や訓練地としても重要な役割を担い、戦争末期には本土決戦に備えて約7万人の兵士が投入され、花き栽培農家は花作りが禁止されるなど、戦時下の住民は厳しい監視下に置かれた。
終戦直後の館山には米占領軍3500名が上陸し、本土で唯一「4日間」ではあるが直接軍政が敷かれた。しかし、戦後の長きにわたってこのことは誰にも語り継がれることなく、地域では忘れ去られた歴史として埋もれてきた。
1989年、戦跡に光を当て調査研究を始めたのは、高校の世界史教師であった当NPO代表である。戦跡を教材とした授業の実践は、歴史教育者協議会を通じて全国に報告され、高く評価された。その一方で、公民館の郷土史講座などで戦跡フィールドワークを実施し、その後熱心な市民らによって「戦跡調査保存サークル」が結成された。メディアの報道も追い風となって、全国から平和研修の団体が訪れるようになり、市民有志らのガイドによる戦跡見学者は10年で約6000名にのぼった。
この実績により、2004年には館山海軍航空隊「赤山地下壕」が平和学習の拠点として、自治体によって整備・一般公開された。同年夏に開催した「第8回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会」が弾みとなり、「赤山地下壕」は年間約1万5000名の入壕者を迎え、翌年には館山市指定史跡となった。とくに子どもたちの体験学習では、効果的な役割を果たしている。
また戦時中、青く美しい光を発する小さなウミホタルを軍事研究に利用する目的で、地域の子どもたちは採取を命じられていた。このエピソードを掘り起こし、語り継ぐ活動のなかから、合唱組曲『ウミホタル〜コスモブルーは平和の色』が誕生した。「戦後60年」という節目に、市民160名による初演が行なわれた。館山発祥の平和の音楽は、日韓交流・日米交流でも演奏され、広く国内外に歌われはじめている。
⇒⇒平和学習スタディツアーガイドについて。
⇒⇒館山市「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」報告書。
「平和・交流・共生」の精神を学ぶ
日本地図を逆さに見てみると、館山は太平洋に突き出た日本列島の頂点にあたることがわかる。海路の拠点であった館山は、古代から繰り返し支配権力に狙われたばかりでなく、海洋民の共生地として多様な文化が育まれてきた地でもあった。
国際交流の痕跡は、館山市大網の大厳院にある「四面石塔」(千葉県指定文化財)に見ることができる。1624年に建立されたこの石塔には、東西南北の各面に和風漢字・中国篆字・朝鮮ハングル・インド梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。秀吉の朝鮮侵略や家康の朝鮮通信使修交という時代背景のなか、建立の年が壬辰倭乱(文禄の役)から33回忌にあたることから、戦没者の供養や平和祈願の思いがこめられているのではないか、と推察される。
この授業実践の報告は、日韓双方の歴史教育者たちから注目され、2002年の「日韓国民交流年」には日韓共同研究シンポジウムが館山で開催された。
2005年の「日韓友情年」には「たてやま日韓子ども交流」を開催し、「四面石塔」や戦跡などを学習する歴史交流のほか、音楽や茶道などの文化体験交流、無人島探検の自然体験交流を行なった。両国の子どもたちは、「昔の人びとが、戦争を乗り越えて仲のいい国同士にしたいと願ったことを学んだ。ぼくたちもそういう国同士にしたい」という感想を述べている。
歴史認識問題において緊張関係にあるアジア諸国から多くの人びとを館山に招き、この石塔の前で先人たちが願った「平和・交流・共生」の精神に思いを馳せ、真の国際親善と友情を育みたいと望んでやまない。
⇒⇒2010年、第9回日中韓青少年歴史体験キャンプin南房総開催。
▼安房南高校生徒会のウガンダ支援活動
このような地域教材を活用した平和・人権学習のなかで、千葉県立安房南高校の女生徒たちは、今なお多くの子どもや女性たちが戦禍に苦しんでいる世界の現状に心を痛め、自分たちにできることを模索しはじめた。
1994年、同高生徒会では、内戦やエイズの蔓延で孤児の多いアフリカのウガンダを支援するためのバザーを開催した。その後も12年にわたり、バザー収益による援助金10数万円のほか、使わなくなった文具や衣料、足踏みミシンなどを送り、支援活動をすすめてきた。若者から生まれた国際協力は実を結び、ウガンダに小さな職業訓練校が誕生した。名前を「AWA—MINAMI(安房南)洋裁学校」という。これは、地域の誇りであり、日本の誇りであるといえるだろう。
ところが館山の安房南高校は、統廃合によりあと2年で姿を消すこととなった。高校生が地域から世界に目を向けてはじまった草の根国際協力の火種を消すことのないよう、地域社会が一丸となって支援を続けていきたいと切に願っている。
⇒⇒ウガンダAWA-MINAMI支援交流ブログ
▼青木繁『海の幸』の記念碑をまもる
明治の鬼才と呼ばれる青木繁が、後に国の重要文化財となった『海の幸』を館山で描いたのは、1904年である。小谷家では無名の貧乏画学生4名を快く滞在させ、この絵の誕生を支えたのは、布良という小さな漁村の漁師たちであった。布良(めら)は、マグロ延縄漁の発祥の地でもあり、かつては全国に名を轟かせていた漁業基地である。
青木の没後50年を期し、布良に『海の幸』記念碑が建立されることになった。当時の館山市長とともに、青木の盟友であった坂本繁次郎画伯や日展初代理事長の辻永画伯、青木を世に紹介した美術評論家の河北倫明氏など驚くべき著名人が発起人に名を連ね、資金調達に奔走している。まだ重文指定になる以前ではあったが、石橋財団からも記念碑建立の助成金を受け、1962年に記念碑は建立された。記念碑は、隣接して建てられた館山ユースホステルを設計した生田勉東大教授によって、美術振興の道標として設計されているが、当時生田氏は海外の現代建築を翻訳し日本に紹介していた第一人者であった。
1996年、館山ユースホステルが廃業し解体されることになった際に、記念碑が建立されている土地が国有地であり、記念碑を壊して現状の復帰が求められたという。しかし、かつて青木が逗留した小谷家当主をはじめとする地域住民らの陳情によって、記念碑の破壊は免れた。
現在、漁業の衰退に伴って、布良は急速な過疎化に見舞われ幼稚園が廃園となった。少子高齢化のすすんだ地域を案じた連合区長会長ら古老から地域活性化の相談があり、当NPOでは地域の文化遺産をまもり活かす地域づくりとして協働事業を計画した。
2005年秋、東京のブリヂストン美術館では特集展示「青木繁『海の幸』100年」が開催された。それを受けて私たちは、同年12月、「“青木繁『海の幸』100年”から布良・相浜を見つめる集い」を開催した。午前は布良地区のフィールドワークをおこない、青木ゆかりの地や漁業にまつわる記念碑や神社仏閣などをめぐった。午後は、東京文化財研究所の研究員による講演と、地元小学生による調べ学習の発表、地元関係者らによる座談会を行なった。とくに小谷家当主からは「青木が逗留した築100年になる自宅と記念碑を保存していきたい」という声明が発表され、今後、文化財指定を目ざして正式に保存会が組織されることとなった。また、「おじいちゃんと孫が地域を案内できるように、ガイド講習会をやりたい」という希望も生まれた。
⇒⇒後年、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会設立
⇒⇒2008年、「小谷家住宅」は館山市有形文化財に指定。
⇒⇒『まちむら」誌134号(2016.6)レポート
▼市民が主役の地域づくり
現在、当NPOでは年間約150団体のスタディツアーを迎え、延べ5000人近い来訪者に対して講演やガイド活動を提供している。その中心を担うのは、定年後の生きがいを見出したシニア層である。彼らを生涯現役で創造し続ける世代と位置づけて、高齢者や老人という呼称の代わりに「創年」と定義し、当地を訪れる人びととともに、学び知ることの喜びを分かち合う世代間交流を推進している。新たな交流文化の醸成が、地域に対する誇りや愛着を育み、少子高齢化社会のなかで豊かなコミュニティを創造し、雇用創出の一助になればと願っている。
⇒⇒持続可能なまちづくり
1624年、館山の寺にハングルの石塔建立
朝鮮出兵で連行偉大な石工刻む?
(東京新聞 2006.06.23)
ハングル石塔が立つ大巌院の境内
千葉県館山市の古寺「浄土宗仏法山大巌院(だいがんいん)」に珍しい石塔がある。建立は江戸初期の一六二四(元和十)年で、四つの面を刻んでいるのは、日本の漢字、インドの梵字(ぼんじ)、中国の篆字(てんじ)、朝鮮半島のハングル。それぞれ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と名号(仏の名、尊号)を記しているが、韓国でこの時期に建てられた石塔や碑に、ハングルを刻んだ例はないというのだ。房総半島の突端の町に残る「ハングルの謎」とは…。
■韓国にも例ない
「寺を訪れた韓国の大学の先生に『これは国宝に値する』と言われたことがあります。私は詳しい歴史はよく知らないのですが」。石川龍雄住職の妻順子さんは笑う。
JR館山駅から南東に約1.8キロ。古くからの住宅や水田に囲まれた大巌院の境内にある「四面石塔」は、玄武岩質で一辺約50センチ、高さ約2.2メートルの重厚な姿だ。周囲には、水を張っておく石造りの「水向け」が四つある。石塔の南面は漢字、北面は梵字、西面は篆字、東面はハングルが刻まれている。
特定非営利活動法人(NPO法人)南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長で元県立高校教諭の愛沢伸雄さん(54)によると、こうした石塔は日本全国でも例はなく、これを模したとみられる石碑が同県富津市の松翁院に一つあるだけだ。
朝鮮半島では、石碑などには漢字を使う場合がほとんど。主に女性や子どもに使われた歴史のあるハングルを刻むことがあっても、「碑に触れるな」などの注意書きに限られるという。
国内外のどちらにしてもユニークな存在の石塔は、北面に漢字も添え書きされている。読み取れるのは「山村茂兵が生前供養の儀式をし、水向けを寄進した。元和十年三月十四日雄誉」との内容だ。
「水向けを寄進」とは石塔全体と解釈されており、「雄誉」は浄土宗の総本山・知恩院(京都)のトップに上り詰めた雄誉霊巌(おうよれいがん)上人(1554-1641年)を指す。大巌院も1603(慶長8)年に霊巌が創建した。石塔については、漢字の筆跡の特徴や添え書きの花押から、「山村茂兵」のために霊巌が筆を執ったとみて間違いなさそうだ。
では、石塔のハングルは何に由来するのか。そして、「山村茂兵」とはいったい何者-。
「石塔のハングルは、今とは違っています。『東国正韻』式という十五世紀半ばの表記にのっとっていて、中でも『仏説阿弥陀経諺解』という仏教本の書体に似ているのです」。『千葉のなかの朝鮮』(明石書店、千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会編著)の編集にかかわった県立千葉女子高教諭の石和田秀幸さん(49)が説明する。
豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-93年、1597-98年)は、朝鮮半島から連行された陶工や儒学者、印刷技術者らが、後の江戸文化の開花に大きな役割を果たしたとされる。石塔が建てられた1624年には、こうした人材も日本に溶け込んでいただろう。石和田さんは「日本に持ち込まれたハングルの仏教本を、石塔の見本にしたのかもしれない」という見方を示す。
また、「山村茂兵」についても、半島から連れてこられた石工だったというのが愛沢さんの考えだ。
石塔は「伊豆石」と呼ばれる貴重な石材で、江戸城の築城や江戸幕府が許可した建築事業以外には使用されなかった。2メートルを超える高さと水向けを持つこと、高僧の霊巌から生前供養の儀式を受けたことなども併せて考えると、山村茂兵が高い技術を日本に伝えた石工として尊敬されていたと推理できるという。「山村茂兵が日本人であれば、あえてハングルを刻む必要はないのではないか」と愛沢さんは話す。
館山市立博物館に残る「霊巌和尚伝記」には、朝鮮通信使が日光参詣の後、大巌院を訪れたとの記述はあっても、石塔や山村茂兵に触れた部分はなく、石塔の謎を解明するのは難しい。
1970年、韓国の大学院生が大巌院を訪れ、石塔のそばに現代ハングルで「南無阿弥陀仏」と記した碑を建てた。朝鮮出兵や終戦までの植民地支配など、日本と朝鮮半島は断絶の歴史を持つが、今では石塔のハングルが日韓両国の交流のシンボルになっている。
@(文と写真・出来田敬司)