
●大学教授ら「里見氏調査会」立ち上げ
…14日から鳥取で学術調査
.
戦国武将里見氏の調査を行なっている研究者が「里見氏調査会」を立ち上げた。12月14日から里見氏終焉の地となった鳥取県倉吉市で、学術調査を実施する。現地の行政や、団体の協力を得て、江戸初期に改易され、現在の鳥取県倉吉市に移封された里見氏最後の当主、忠義を中心に調査を行なうことにしており、「調査は双方の交流推進に大きな意義がある」としている。
メンバーは、千葉経済大学名誉教授で代表の川名登氏、千葉大学教授で千葉県史中世史部会長を務める佐藤博信氏、東京大学史料編纂所国内研究員で千葉県史専門の滝川恒昭氏、法政大学非常勤講師の和気俊行氏、それにNPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長の愛沢伸雄氏の5人。一行は14日に発ち、16日まで現地の博物館、ゆかりの寺院、史跡などを調査。この間、倉吉市内で講演も予定されている。
忠義は、江戸初期に伯耆国(鳥取県)に移封され、およそ8年後に亡くなったとされる。これまでは、個々の調査が行われるなどして、房州では忠義に関する通説はあったが、総合的な調査が行われておらず未解明の部分もあるという。倉吉でも、里見に関する研究者がいないため、里見に関する文献が少ないのが実情。今回初めて実施する調査では、現地の関係者の案内で調査地を訪問し、結果を報告書にまとめることにしている。
.
●「伯耆倉吉里見忠義関係史料調査報告書」はこちら。

たてやま・まちなか探検隊
地震や津波についてしらべてみよう!
(自然体験活動〜トム・ソーヤースクール企画)
.
■日時=2007年11月18日(日)
■会場=館山市立富崎小学校
(千葉県「学校と地域の防災教育モデル事業」指定校)
第一部=元禄・関東大震災と富崎(写真スライド&講話)
・講師=天野努先生
第二部=地震と津波の傷跡をたずねる(まちなか発見ウォーク)
■参加費=無料
.
【元禄大地震】
1703(元禄16)年11月23日(新暦では12月31日)午前2時頃、関東地方南部に大地震と大津波が起こりました。安房地方では地面が隆起して、北条地区の海岸は400mも遠くへ伸びたり、西岬地区では海岸の崖が5mも高くなったりして、地形が変わってしまうほどでした。平砂浦では砂浜が広がり、山の上まで吹き上がる、砂との闘いが始まることになったのです。津波の被害も大きく、富崎地区の相浜では86人が犠牲になりました。流された家は67軒、船は76隻が流されました。相浜の蓮壽院にはその時の犠牲者のための供養塔が建てられています。
【関東大震災】
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方にふたたび大地震が起こりました。町の中はとても大きな被害で、ほとんどの家はつぶれ、大勢の人がけがをしたり亡くなりました。この時も津波が起こりました。洲崎方向からやってきて巴川を逆流し、犬石の巴橋を勢いよく越えていったそうです。富崎地区では津波で70軒の家が流されました。漁船も119隻が流されたり、壊れたりしました。しかし、元禄大地震の時の被害の教訓から、海水が引いた後に津波が来る事を予測できたので、みんなが高台に逃げたおかげで、津波の犠牲になった1人のみでした。
先日開催いたしました当組合支部の反戦・平和学習会では、
お忙しい中、私どものために貴重なお時間を割いていただき
大変ありがとうございました。
幸運にも参加できた組合員は非常に有意義な学習会であったと満足しておりました。
また参加できなかった組合員の中にも是非とも次回は参加したいと申す者までおりました。
何れに致しましても今後も引き続きこのような活動を実施する予定ですので、
その折にはよろしくお願いいたします。
最後になりましたが、バスに同行していただきましたガイドの方
(お名前がわからず申し訳ありません)にも何卒よろしくお伝えくださいますよう、
重ね重ねお願いいたします。
以上、まずは取り急ぎ御礼まで。
里見ガイドによる「八犬伝ロマン紀行」モニターツアー
富崎のまちなか探検隊〜地震や津波の痕跡を歩いてみよう
知恵袋講座
・第5回 平本紀久雄さん「イワシ漁業の歩みと文化」
エコウォーク百選〜平砂浦海岸欲物語
ウミホタル合唱団・安房
 
 
報告=映画『赤い鯨と白い蛇』上映会&監督講演会に2,000人が参加!
おかげさまで充実した時間が送れました。はじめて聞くことと見るもので大変興味深かったです。また、単なる戦争遺跡の紹介保存だけでなく、館山の街おこしや市民交流も伺えて、NPO活動の実際も知ることができました。午後から「赤山地下壕」と「かにた婦人の村」は、お二人のガイドの絶妙なコンビネーションで、無理な予定にもかかわらず、テンポよく案内していただけました。誠にありがとうございました。
いままで、館山の日帰りは船橋からはハードになるので、実行したことがありません。高速道については議論のあるところでしょうが、今回は利用させていただきました。まだ47カ所中2カ所しか案内されていないそうです。またの機会によろしくお願いいたします。帰りは予想通りラッシュで5時までつけませんでしたが、皆様納得していました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。
【日時】2007年11月27日(火)13:30〜15:30
【会場】小高記念館
【講師】平本紀久雄さん(NPO会員)
【テーマ】イワシ漁の歩みと食文化

里見ガイドとめぐる南総里見八犬伝ロマン紀行
〜館山市観光まちづくり研修会・モニターツアー〜
.
安房国を治めた実在の戦国大名里見氏をモデルに、曲亭馬琴が28年の歳月をかけて書き上げた日本最長の小説『南総里見八犬伝』。馬琴は生涯一度も安房を訪れなかったというが、なぜか不思議なほど、物語の舞台と思われるゆかりの場所が安房には多い。南房総市には伏姫籠穴や犬掛の里があり、館山城跡には全国唯一の八犬伝博物館(館山市立博物館分館)もある。世界に誇る『八犬伝』のふるさと・安房の魅力を再発見してみよう。
.
【日時】
①2007年11月15日(木)
②2007年11月21日(水)
③2007年11月28日(水)
【集合】10:15館山市体験交流センター(JR館山駅西口)
【行程】
10:30 JR館山駅西口 → 城山公園・八犬伝博物館
→ 道の駅・鄙の里 (※ 自由昼食・弁当持参も可)
→ 犬掛の里 → 伏姫籠穴 → JR館山駅西口 16:30
※ 健脚コースですので、歩きやすい服装でご参加ください。
【参加費】100円(保険料・マップ代)
【主催】館山市観光プロモーション協議会
【共催】NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
.
【八犬伝のあらすじ】
結城の戦いに敗れた里見義実(よしざね)は安房へ落ちのびました。やがて滝田城の城主になりましたが、隣国の館山城主安西景連(かげつら)の攻撃にあっていました。窮地におちいった義実は愛犬八房(やつふさ)に「景連の首をとってきたら娘伏姫(ふせひめ)を嫁にやろう」と戯れの約束をします。八房の働きによって勝利すると、約束どおり、伏姫と八房は富山(とやま)の洞穴にこもって暮らし始めました。
数年後、姫の許婚であった金碗大輔(かなまりだいすけ)が姫を取り戻すために富山へやってきて、八房を撃ち殺しますが、伏姫にも傷を負わせてしまします。八房の気を受けて懐妊していた伏姫は、身の潔白を証明するため、大輔と父義実の目前で自害しました。そのとき、伏姫が幼いころ役行者(えんのきょうじゃ)からお守りとして授かっていた護身の数珠から、8つの輝く珠が天空に飛び散りました。
大輔は出家してゝ大法師(ちゅだいほうし)と名乗り、8つの霊玉を捜し求める旅に出ます。そして、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の珠をもつ8人の若者と出会います。8人は八犬士として安房へ集結して活躍し、里見家の危機を救うという物語です。

戦国大名里見氏最後の城主であった10代忠義が、安房の国から伯耆へ国替えとなった縁で、館山市と鳥取県倉吉市の交流が続いているが、その倉吉の地で育った桜が「里見桜」として安房へ里帰りすることになった。里見氏を偲んで館山市で開催される南総里見まつり前日の20日には、城山公園山頂に関係者が集い、植樹祭が行われる。
改易された忠義が最初に住んだ倉吉の神坂町は打吹山の麓にあり、打吹山は郷土が生んだ横綱「琴桜」の名にも由来する桜の名所。蟄居同然の忠義が、打吹山の桜を眺めながら、遠い故国館山に思いを馳せていたであろうことは容易に想像がつく。
そこで、大山や蒜山山麓から流れくる水と、忠義が土となった伯耆の国の大地で桜を育て、忠義400年の思いを「里見桜」として形を変え、故国館山へ里帰りさせよう、と地元の有志が里見桜実行委員会を組織。企画・検討を重ね、NPO法人たてやま・海辺のまちづくり塾の辰野方哉代表へ桜進呈の打診があり、里見まつりウィークに合わせて植樹祭が実現することになった。
山頂で午後4時から行われる植樹祭には、里見氏誕生の地で、辰野氏らとも交流を深めている群馬県旧榛名町からも関係者が来館。倉吉市の同実行委メンバーと館山市からは市長や教育長、観光協会長ら関係者が顔をそろえ、忠義を供養しながら植樹する。
先日のモニターツアーでは大変お世話になりました。
貴重な場所をご案内いただき、感謝するとともに、何を残しどう伝えていくか、
また今我々はどう生きていくことが求められるのであろうか考えさせられたツアーでした。
 
 
85歳になる親戚(現存、祖母同士が姉妹関係で、その息子のため、父同士が親戚)が
この館山で訓練を受けておりました。
海軍航空隊の第一飛行隊所属時に陸戦講習に参加の命があり、参加したようです。
訓練後の20年4月には海軍本省軍令部2部3課に配属されていました。
本人健在なので、当時の様子は聞いてみようと思います。
 
 
といったことで少し身近な場所でした。
池田さんをはじめ、皆様の活動は心から応援しております。
また館山に訪問する際にはご連絡いたします。

ふるさと探検隊〜海とともに生きるまち
(自然体験活動〜トム・ソーヤースクール企画)
日本地図を逆さまに見てみると、館山は「へ」の字型の頂点にあたります。館山は、海上交通の要所として、重要な歴史や文化がたくさん詰まった「地域まるごと博物館」です。この夏、館山の歴史・文化をたずねてみよう。
 
 
■日時=2007年10月9日(火)9:30〜16:00
 
 
【A】まちなかエリア
テーマ:産業振興と震災復興
転地療養と医療伝道
まちなかの路地に残るサイカチという大木は、元禄津波で登った人の命が助かったといういわれがあるばかりでなく、いざというときに食用・薬用に役立つ。98%壊滅した関東大震災の後、力を合わせてまちを復興し、商店を興した人びとはどんな苦労があったのだろう。
東京・霊岸島と海路で結ばれ、観光や保養の地として人気があった。一方、不治の病であった結核に有効な大気安静療法、海水浴療法などの適地として、山村暮鳥や石川啄木夫人など多くの療養者も訪れていた。その陰には、酪農・果樹など栄養価の高い食物のほか、キリスト教医師らの医療伝道があったことを忘れてはならない。
 
 
【B】城山エリア
テーマ:房総里見氏の城とまちづくり
『南総里見八犬伝』の世界
館山城は、房総半島南部(安房国)を170年間統治した里見氏の最後の居城。堀切・切岸・曲輪・土塁・御殿跡など、当時の城を物語る遺構が今も残るが、アジア太平洋戦争では頂上を8m削られ、砲台とされた歴史もある。
海路を通じて東日本の玄関口だった館山は、支配者にとってその湊が重要だった。里見氏は対岸の後北条氏と海の支配権をめぐって40年争った後、交易の和平策に転換したが、1614年、江戸湾口部の外様大名として排除され、伯耆国に国替となった。館山から里見氏がいなくなってから200年後、江戸深川に生まれた曲亭馬琴が日本最長の小説『南総里見八犬伝』を書いたのである。
@。
【C】赤山エリア
テーマ:赤山地下壕(戦争遺跡)
米軍上陸地と平和学習
東京湾要塞の拠点として館山湾を埋め立ててつくられた館山海軍航空隊は、戦闘機の開発とパイロットの養成を担い、通称「陸の空母」と呼ばれていた。近くの赤山に掘られた巨大迷路のような地下壕は、誰が、何の目的でつくったのだろうか。
第二の沖縄戦が想定され、戦争末期には7万の軍隊が配備され、空・海からの特攻基地が造成された。終戦直後には、アメリカ占領軍3,500名が上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれたことは世界史的な出来事といえる。
戦時下、農民は花づくりを禁止され、子どもたちは軍事利用のためのウミホタル採取を命じられていた。人びとはどんな思いで生きてきたのだろう。
 
 
【D】北下台エリア
D.北下台(ぼっけだい)エリア
テーマ:近代水産業発祥の地
海洋民の交流の歴史
館山湾(鏡ヶ浦)の浜は、地引網漁と交易の湊として江戸期より栄え、明治期以降は遠洋漁業や捕鯨漁の基地として栄えた。その中央に位置する北下台は古くは北下崎と呼ばれ、海に突き出た小岬だったが、繰り返し起きる地震の隆起によって陸続きの高台となった。
北下台には、近代水産業と発展と水産教育に貢献した関澤明清の顕彰碑や正木燈台の痕跡、遭難船の供養碑のほか、古代の海食洞穴や、中世に武士や僧侶の墓として作られた「やぐら」など、海とともに生きた人びとの遺跡が多く残る。
安房水産高校のハワイ・マグロ実習船「千潮丸」の体験乗船と、ロープワークを実践してみよう。