共生と交流を育んだ房総アワビ移民史

共生と交流を育んだ房総アワビ移民史

池田 恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム共同代表

『歴史地理教育』2026.7.増刊号 ⇒ 印刷用PDF

はじめに

房州根本(千葉県南房総市)の海産物問屋「金澤屋」の小谷源之助・仲治郎兄弟をリーダーとする男海士(潜水士)らは、明治期より米国カリフォルニアへ渡り活躍した。在米日本人の職業斡旋などに携わっていた佐賀県出身の野田音三郎が、モントレー海域にはアメリカ人が食さないアワビが大量に生息していることに気づき、乾鮑(干しアワビ)製造の専門家を調査派遣するよう農商務省に要請したことで、小谷兄弟に白羽の矢が立ったと伝えられている。

1897年9月、兄の源之助は渡航目的に水産業調査と記された旅券を手に単身渡米した。3か月後、弟の仲治郎は漁業製造監督、三人の男海士は漁業と目的が記された旅券をもち渡航した。しかし寒流のため素潜りは厳しく、故郷からヘルメット型の潜水器とともに、潜水士を呼び寄せた。モントレー半島から少し南下したポイント・ロボスを拠点に、潜水器アワビ漁と乾鮑製造の事業を始めたのである。

その後、実業家のA・M・アーレンと共同で缶詰会社を興した。苦楽をともにし、生涯にわたるパートナーとして強固な信頼関係を築いていった。

1.激化する排日運動のなかで

彼らが渡米してまもなく、中国人に続き日本人の排斥が高まっていく。水産分野で最初に漁獲規制が強化されたのはアワビ漁であった。移民政策が厳しくなると、潜水士の渡米も困難となったが、様々な議会対策や学術的な対抗策で粘り強く取り組み、房総アワビ移民らは異例の特別待遇を勝ち得たのである。地域社会においても市民との交流を大切にし、共生を育みながら、事業を継続していった。

アワビは缶詰や乾鮑にして中国と日本に輸出していたが、1915年にアワビ加工品はカルフォルニア州外への持出しが禁止され、事業は危機に陥った。そのころ、ドイツ人のポップ・アーネストというレストラン経営者が現れ、アワビステーキなどの調理法を開発した。サンフランシスコ万博で紹介されて人気を博し、アワビはアメリカ食文化に革命をもたらした。カリフォルニアのアワビ産業は100万ドルの収益を挙げ、そのうちの75%は小谷らの缶詰会社が占めたという。

事業に成功した小谷源之助は日本人会会長などの要職を歴任し、モントレー市民の信頼も得て、1930年に亡くなった。妻ふくは、「夫の在米34年間は、常に公共という精神で地域社会に貢献した人であった」と述べている。源之助の没後も、ゲストハウスには竹久夢二ら多くの芸術家や政治家の尾崎行雄なども滞在しており、その精神は子孫らに引き継がれていた。

やがて開戦に伴う日系人強制収容により、房州移民のアワビ事業は終焉を迎えた。終戦で収容所の閉鎖に伴い各地では反日運動が盛んになったが、モントレーでは解放された日系人らを迎え入れるための嘆願書が提出されたという。地元新聞には「民主的な暮らしをすべての人に」という見出しで報道され、作家のスタイン・ベックら多くの著名人も賛同し、400名以上が署名している。アメリカ人による組織的な親日運動としては例をみないほど大規模であった。日系人と地元住民らが築いた共生や交流は、現代まで続いている。

1994年、モントレー半島の日本人移住100周年記念式典において、小谷源之助の米国への貢献が顕彰され、ポイント・ロボスの州立自然保護区内の居住地跡は「コダニ・ビレッジ」と命名された。

2026年には、日系アメリカ人市民連盟(JACL)モントレー会館が百周年を迎えた。1925年にこの地を訪れた朝香宮夫妻が日本人の活躍に感銘して授けた下賜金と、アワビ事業の収益などを原資として、翌年に建てられた日本人会の集会所である。今なお日系人コミュニティの中心であり、館内にはヘリテージセンターもある。潜水器や様々な史料とともに、日米の国旗が染められた「万祝」という漁師の着物が展示されている。これは、南房総市の渡米子孫宅に保存されていたものを、友情の証として2007年に寄贈した。同じものは2点の現存が確認できており、もう1枚は館山市「渚の博物館」に所蔵されている。

一方、小谷仲治郎は9年滞米の後に帰国して房州千田(南房総市)に暮らした。潜水士を養成して米国へ送り込みながら、安房地域の教育や文化、水産振興に尽力した。共同経営者であったアーレンと妻サティの逝去時には、それぞれ千田の長性寺で仏式の法要を営んだ写真が残っており、絆の深さを知ることができる。

近年、仲治郎の旧宅を解体するにあたり、襖を丁寧に剥がしたところ、大量の古文書を発見した。おもに明治期の書簡や勘定書などの断簡文書であった。台風で水没した被災資料を原状回復し、コロナ禍に約530枚の崩し字を解読して分析調査を進めた。今まで知られていなかった渡米前の背景や人脈が明らかになってきた。生活のために様々な職業を求めた出稼ぎ移民とは異なり、政府とも繋がる専門家集団であった。

2.アワビをめぐる水産界ネットワーク

1878年、根本の森清吉郎は、器械潜水の始祖である増田萬吉を横浜から招聘して、潜水器を利用したアワビ漁法の試験操業を成功させた。一族の森惣右衛門も資金援助しており、村をあげての大事業となった。この漁法はまたたく間に全国各地へ広がっていった。

惣右衛門の弟・森大吉は、根本の金澤屋に婿入りし、4代目の小谷清三郎を襲名していた。実家の森家と協力しながら、潜水器アワビ漁業や安房の特産品である乾鮑の製造販売事業を進めていった。

清国貿易の需要が高い乾鮑は高品質が求められ、農商務省は1883年に第一回水産博覧会を開催した。清三郎は褒状を授与され、「製法宜キヲ得て品位佳良ナルニ由リ清国人ノ嗜好ニ適ス」と講評を得ている。さらに、1886年の大日本水産会主催の共進会で一等賞、1890年の内国勧業博覧会でも入賞し、乾鮑製造の第一人者として知られていった。古文書調査でも、「南京人に見せ‥塩かげんと云いかたちと云い申分なし‥と申され」たと記された書簡が見つかっている。

海外の最先端技術にも精通し、英語が堪能な増田萬吉との出会いは、清三郎が海外に視野を向ける契機になったと思われる。長男の源之助を慶應義塾幼稚舎と商法学校に、二男の仲治郎を大日本水産会水産伝習所に進学させ、8人の子女すべてに高等教育を与えている。先進的な学問や経営の実務技能を身につけた源之助、水産の最高学府で専門知識を得た仲治郎。2人とも学生時代から十分な英語力を習得し、後々まで役立つ人脈を培っていた。

卒業後の源之助は、家業の手伝いで新潟県佐渡や秋田県能代などに赴き、潜水器アワビ漁や乾鮑製造の事業を拡大して成功を収めるとともに、さらなるネットワークを築いていった。また、仲治郎の在学中より、金澤屋は水産伝習所や農商務省と深い繋がりがあったことも古文書調査から明らかになってきた。

1888年に創設された水産伝習所は、初年度より安房で実習をおこなっており、根本では金澤屋の小谷清三郎が乾鮑製造を指導している。伝習所の初代所長を務めた関沢明清は、農商務省事務官としてウィーンやフィラデルフィアの万博に参加し、米式捕鯨銃や缶詰製造、鮭鱒の人工ふ化など欧米の水産技術を日本に導入した近代水産業のパイオニアである。1889年に官を辞して館山へ居を移し、関沢水産会社を設立して自ら遠洋漁業や捕鯨事業などを展開した。中央と安房を結ぶ水産界ネットワークの中心にいたといえる。

さらに、仲治郎が水産伝習所で師事した海藻学者の岡村金太郎や動物発生学者の岸上鎌吉は、研究のための調査を根本で実施し、金澤屋の協力を得ている。特に岸上はアワビ研究の第一人者であり、農商務省水産調査所の主任技師として、論文「外国ニ於ケルあはび漁業」を発表している。これには、魚類学者でスタンフォード大学初代学長のデービッド・S・ジョーダン博士がモントレー周辺で調査した論文を引用している。

1896年に米国海洋調査船アルバトロス号の調査員らが来日し、水産伝習所において講演会、東京芝の紅葉館で懇親会が開かれた。通訳を務めた大瀧圭之助は、農商務省水産調査所技手の魚類学者であり、米留学時にはジョーダン博士に師事していた。こうしたアメリカの情報は、大日本水産会会報にも頻繁に紹介されており、小谷兄弟は渡米前からモントレーのアワビ情報に熟知していたと考えられる。

また、懇親会場となった紅葉館主の野辺地尚義は、日本の「英学教育の始祖」といわれる英学者である。しかも、小谷兄弟の渡米を導いた野田音三郎の岳父であった。渡航前年に、日米の水産界ネットワークがここに集結していたことは偶然ではないかもしれない。

3.地域コミュニティの共生と交流

仲治郎の没後、女婿の大島四郎は岳父の生涯を私家本『安房の潮左為』にまとめた。それには、「あるとき、加州海岸で大学生たちが魚介類の調査研究を行なっていた。たまたまその海岸にいあわせた仲治郎はその様子をながめていたのであるが、採集された貝の名や分類がわからず学生たちがしきりに議論しているのをみて、彼は明快に解明して学生たちを驚かせた‥」とある。これは、先述のジョーダン博士がモントレーに開設したスタンフォード大学のホプキンス臨海実験所の研修会だったと推察される。

渡米後まもなく排日の気運が高まるなかで、アワビ資源の枯渇を危惧する住民の訴えが起き、漁獲規制問題に発展していった。小谷兄弟は岸上のアワビ研究論文を科学的根拠として裁判で反論するとともに、白人342名の署名を郡議会に提出したり、在サンフランシスコ日本国総領事に陳情書を送ったりしている。

1940年の『在米日本人史』に「排日と小谷の苦闘」という章がある。「小谷兄弟の白人と提携した調査と研究を重ね‥」と記され、海上ピクニックを催して新聞記者や郡参事員などに潜水器アワビ漁の実況を見せて無害を訴えるなどの運動も紹介されている。

渡米前から培った専門的な学びや水産学権威らとの人脈、アーレンとのパートナーシップにより、厳しい移民政策下でも特別の事業継続が認められていった。

農商務省から海外実業練習生として派遣された椎原廣男は、「米国における本邦採鮑業者の状態幷びに経営法に就いて」という公式報告書を、1908年の『農商務省商工彙報 臨時増刊第十號』に発表している。アワビの餌である海藻の植生研究を専門としていた椎原は、水産講習所で指導を受けた海藻学者の岡村金太郎から小谷兄弟の話を聞いていたであろう。

椎原が調査でポイント・ロボスを訪れたのは、まさに排日運動が激化した時期であった。極めて困難な状況での移民問題は重要と考え、アワビ事業の分析をテーマに選んだと推察される。

この報告書は、「1.採鮑業の沿革/2.小谷採鮑製造所/3.加州沿岸に於ける鮑の分布/4.採鮑の方法/5.製法の一般/6.労銀/7.販路の状況/8.製造売上高/9.本邦仲買業者の不徳/10.採鮑業の将来に就て」という章立てで、米国の水産調査委員ウィルコックスの報告書も引用している。

渡米初期は裸体潜水であり、1898年より潜水器の使用をはじめ、1台あたり8人を要することや、米国製潜水器は品質が悪くゴム部に亀裂を生じたが、日本製を取り寄せると品質良好で長期間の使用に耐えた、などの記載もある。

事業経営については、「アーレン氏を支配人トナシ小谷両氏ハ単ニ使用人ノ名義ヲ仮用」しており、「之レ実ニ当北米合衆国ニ於ケル邦人経営法ノ最良手段」と述べている。在米日本人経営者の多くは白人と没交渉で融和する者は少なかったが、排日の妨害を避ける手段として彼らの日米共同経営のあり方を高く評価し、本国政府に報告していた。困難な苦労話ばかりでなく、アーレン夫妻と家族ぐるみで築いた共同経営の理念や深い信頼関係、地域コミュニティとの共生や交流を直に見聞きし、椎原は感銘を受けたのではないだろうか。

4.和歌山歴教協との教育交流

2025年度、「和歌山移民研究を軸とした国際交流事業実行委員会」に参画し、文化庁事業に取り組んだ。移民史・美術史・水産史をめぐる日米共同調査やシンポジウム・展覧会を協働でおこなってきた。

その一環として、アメリカ研修に参加した和歌山県歴教協の教員らとともに、「和歌山と千葉安房のオンライン教育交流会」を開催した。共生社会のあり方について考えるとともに、広域連携・国際的な視点へ広がる地域史教育について協議することができた。ユーチューブで公開配信しているので、QRコードより視聴していただけたら幸いである。