南房総の戦争遺跡に「平和・交流・共生」を学ぶ

南房総の戦争遺跡に「平和・交流・共生」を学ぶ

「戦争遺跡から地域に生きる人びとの姿を」

愛沢伸雄・『歴史地理教育』 歴史教育者協議会編(2005年増刊号)

 

先人の「平和・交流・共生」の姿を学ぶ

房総半島南端の南房総・安房は、日本列島のほぼ中心部にあって、関東地方を背後に太平洋世界(黒潮)の海洋文化や人びとの交流が育まれていた地域である。東京湾を意識して中央政権が樹立すると、その湾口部は支配の戦略的な拠点とされてきた。

古代より中央政権や地域支配者が南房総・安房を拠点とする漁撈や海上交易に関心をもっていたことは、源頼朝から北条氏や足利氏の領地支配、中世に百数十年支配した里見氏の領国支配や、その後の秀吉や家康の支配から見て取ることができる。

なかでも幕末から日中戦争・アジア太平洋戦争までの対外政策や軍事戦略では、東京湾口部であったことが深く政権や軍部に直結し、幕末の砲台・台場や明治期よりの東京湾要塞砲台群、また館山海軍航空隊などの軍事施設、さらには本土決戦陣地関係やアメリカ占領軍の上陸地などの痕跡として色濃く刻まれている。

この地域の人びとはどうであったか。時代の節目にあった戦争や戦乱、あるいは100〜200年の周期でやてきた地震や津波の大災害に対して、地域ではコミュニティを大切に、お互いに励まし合い助け合って困難な状況を乗り越えていった。戦乱に巻き込まれたり、大災害の地であったことは、「平和」や助け合いの心を育み、人々の「交流」の地となり、漁民や商人たちの寄留や交易の地になり、漂着してきた太平洋世界の人々には平安の地、「共生」の地となっていった。先人たちの「平和・交流・共生」の理念は、数々の神社や仏閣の創建や再建となり、知恵を伝える場が地域教育の姿になっていった。そして人々の思いや願いは、祭りや民俗伝承という形をとって今日に受け継がれているのである。

地域の戦争遺跡をどう見るか

「戦後60年」にあたって、この地の戦争遺跡を地域に生きる人びとの視点から加害・被害などの歴史的事実を受けとめ、戦争のもつ無意味さを認識し、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」というユネスコ憲章の精神を平和学習の核心に置きたい。

その際に戦争遺跡の実物としてもつ生々しさを心にどう刻むだけではなく、地域に生きる人びとの思いや願いをこめて、地域にある「平和・交流・共生」の理念に共感するような平和認識の形成を現地見学を通して平和学習に織り込んでいきたい。

房総半島南端の千葉県館山市には、軍事施設跡を中心に、近現代日本の歩みをさぐるうえでの貴重な戦争遺跡が多く残っている。なかでも日中戦争やアジア太平洋戦争の始まりから、航空戦略を担うモデル的な海軍航空基地であったばかりでなく、アジア侵略への出撃拠点として、国内では最前線基地としての役割を担った加害の歴史に関わった地域であった。

このことは沖縄や松代、そして広島・長崎に至っていく歴史的事実をより鮮明にしていくためにも、近現代史において、南房総・安房がどんな役割を担ってアジア侵略に突き進んでいったかを地域の戦争遺跡を通じて学んでいきたい。

まず、この地の軍事的な役割をみると、19世紀以降、房総半島南端部や江戸湾岸は海防政策上大きな関心が払われ、お台場などが建設された。明治に入っても「富国強兵」のスローガンのもと国土防衛策として沿岸要塞建設が積極的にすすめられ、なかでも日清・日露戦争前後から房総半島・三浦半島などの東京湾口部は、帝都東京や横須賀軍港防衛の最前線として、特別な役割を担ったのである。1880(明治13)年、東京湾に侵入する敵艦船の航行を阻止するために、当時最高の建設と軍事技術により東京湾口部に要塞建設が開始され、半世紀にわたって莫大な軍事費を注ぎ込んで、1932(昭和7)年に第一級要塞である「東京湾要塞」(写真①)が完成した。

要塞周辺は「要塞地帯」と呼ばれ、そこに住む人びとは特別な法律のもとに置かれていたが、戦前・戦中に東京湾要塞地帯に暮らした安房地域の人びとは、どんな思いをもって生きていたか。あるいは東京湾要塞の姿や、アジア太平洋戦争に関わっていた軍事施設に触っていた地域の人びとにとって、戦争とはどうのようなことであり、どのように加担していたか、しかし人間として願っていた平和の思いがどのようなものであったかなど、国家政策のもと戦争がもっている意味を地域にある戦争遺跡を通じて感じ取ってみたい。

戦争遺跡が語る近現代史

20世紀前半をみると、安房の歴史は日中戦争やアジア太平洋戦争の軍事拠点として、館山海軍航空隊や館山海軍砲術学校、そして洲ノ埼海軍航空隊など、さまざまな軍事施設が設置され、なかでも「陸の空母」と呼ばれた館山航空基地は日中戦争より最前線航空基地として特別な役割を担った。

今も中国の人々に深く戦争の傷跡を残している重慶や南京の無差別都市爆撃-いわゆる「渡洋爆撃」という加害の歴史的事実からも、現代史にとってこの地域にある戦争遺跡は貴重なものが多い。なかでも館山海軍航空隊赤山地下壕の建設開始時期とその用途については、資料的な裏付けがなく不明なままであるが、当時の海軍の機動部隊構想のもとでの航空戦略に基づく地下壕施設ではないかと推測されている。

戦争末期の沖縄戦、南房総・安房は「国体護持」帝都防衛(「松代大本営」建設)のかけ声のもと、本土決戦体制が敷かれ、赤山地下壕をさらに拡張したり、陸海軍ではさまざまな特攻基地などを建設し、アメリカ軍上陸を想定して、七万人近い部隊配備がおこなわれた。 この地の人びとも「一億総玉砕」のかけ声のなかで軍隊の盾になるように仕向けられたニセ陣地づくりに動員されて、敗戦をむかえたのであった。

南房総・安房では戦時中地域の人びとが「花作り禁止」を命じられたり、子どもたちが極秘に軍事物資「ウミホタル」を採集させられたことも、いわゆる「無形の戦争遺跡」として、地域に生きる人びとの暮らしや思いから戦争の時代を振り返ることが、この地から「平和・交流・共生」の理念を育み、地域から平和活動を生みだしていくと思う。

間宮七郎平と安房の花作り

房総半島南端の千葉県安房地域の海辺では、ほとんどが半農半漁で生計をたて、その日暮らしの貧しい生活を送っていた。安房の農業を憂えた一人の青年が、この地で花作りをはじめた。1893(明治26)年、千葉県安房郡和田町に間宮仙松の次男として出生した間宮七郎平は、和田小学校高等科を卒業後、家の農業を手伝っていたが、薬剤師を志すことになり、19歳のとき念願かなって明治薬学校へ入学した。しかし、不幸にも家が火災に遭い、中途退学を余儀なくされ、帰郷後も町の医院で調剤を手伝いながら、薬剤師をめざして独学を続けることになる。努力が実り薬剤師試験に合格したのが24歳であった。

ところで薬学の勉強中から、七郎平は花の魅力に取りつかれ、花栽培と深い関わりをもつことになる。そして、1918(大正7)年から19年にかけて、花のなかでもケシ栽培技術やアヘン採取の仕事を学ぶために、3度朝鮮に出かけた。27歳のときに菊苗を多数手にいれたので、商品にする栽培を試みた。翌年生産した菊をもって東京に出向き飛び込み販売をしたものの、苦労の割には売上げも旅費に満たなかった。母や妻からは花作りをやめてほしいと懇願されるが、それでも花作りをやめなかった。

その後、苦労の末ようやく損をせずに販売できるめどがたち、次第に周囲の反対もなくなってきたので、じっくり花栽培に取り組むことになる。近所の青年たちに対して、花栽培経営が将来性のある農業であると説き、栽培仲間に誘うことをはじめた。こうして、23(大正12)年には31名によって生花組合を設立させ、七郎平が初代の組合長になった。25年に東京に生花市場が開設されると、さっそく生花組合では売買契約を結び、まとめて取引できる販路を開いていった。七郎平は新種の花卉種があると知ると、安房地域の気候風土に合うかどうかを取り寄せて試作した。そして、成功すると決して独占しないで、組合員や他地域の同業者にも分けたり伝授して、花作りを広げていった。

温暖な気候と土壌条件を活かした花栽培は安房に広がり、南房総は兵庫県の淡路島と並ぶ花の特産地になっていった。各地に生花組合が設立されたこともあり、26(昭和元)年には房州花卉連合会第1回総会が開催され、七郎平は財政担当に選ばれた。33(昭和8)年には鉄道省と花の特定運賃を契約したことで、全国向けに生花の出荷が可能になり、花栽培農家の経営が安定していった。南房総の花が商品として日本中に広まっていったのも、この頃であった。

戦争と「花禁止令」

安房の花栽培農家は、41(昭和16)年戦争の勃発とその後の戦勝で、花の需要が増え大変景気はよく、作付けは450ha、出荷は40万俵、組合数も20組合になっていった。この頃、金せん花やストック、寒菊などが多く作付けされていた。

しかし、戦況が変わる中で食糧物資が乏しくなり、食糧生産が農政の第一目標と定められていった。農家には農産物の作付け割当てが強制され、なかでも千葉県と長野県では、花卉が禁止作物に指定されたため、花栽培農家は壊滅的な打撃をうけることになる。

ところで、38年の「国家総動員法」の第1条「戦時に際し、国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及び物的資源を統制する」を受けて、まず41年の「臨時農地管理令」によって、地方長官の必要なとき「農作物の種類その他の事項を指定して作付けを命ずることができる」と、花栽培を制約した。そして、42年の「農業生産統制令」では、「地区内に於いて生産されるべき農作物の種類、数量または作付面積・・・・に関して生産計画をたて、地方長官に届けよ」とし、結局花栽培を禁止していった。いわゆる「花禁止令」は、食糧管理統制令の一環として発令され、軍需物資と食糧増産が政策の第一とされたことで、花は不用の作物として作付けが禁止されていったのである。他府県では種苗程度のものは残させたものの、とくに千葉県や長野県では、徹底的に抜き取りが強制され、畑の隅などに種苗用に少しでも残すと「国賊」扱いにされたと伝えられる。

こうしてアジア太平洋戦争の激化のなかで、食糧増産のかけ声のもと花栽培農家に圧力をかけ、一切の花作りを消し去っていったのである。「食べる物がない時代に花をつくっているとは何事か。畑には麦を植えろ」と食糧管理統制令が強要され、ほんの少しだけ庭に花をと思っても、そんな気持ち以上に「非国民」というレッテルを恐れた。取り締まりは厳しく、花の苗や種は焼却するだけでなく、作っている花も当然、全部抜き取ることが命ぜられた。花作りは「国賊」との意識を農民に徹底するためにも、隣保制度のもとで青年団が中心となり畑や納屋を見回って監視した。農民たちは、丹精こめた花畑が薩摩芋畑や麦畑になることには耐えられなかった。

「花禁止令」に抵抗した人びと

戦争というなかで、軍や行政の命令に逆らうことは大変勇気のいることであった。そんな中で種や苗の焼却命令に従わなかった農民たちがいた。家にある鍋や蔵などに種や苗を隠したり、とくに球根は年に一度は土に植えないとダメになるということから、人が踏み入ることが難しい山中に隠し植えたという。また、当時花卉組合長であった人が「種や苗を隠すのも、皆で分担したこともある」と証言している。これが本当であれば、地域によっては組合ぐるみで抵抗を組織化していたことになる。「花禁止令」が広範囲に徹底され、軍国主義のもとで表面だった抵抗はできなかったが、ごく当たり前に花を愛する人間として、花を残すことで抵抗の姿勢を示したのであった。

東京湾口海域を囲んでいる房総半島南端は、戦前より東京湾要塞として首都や横須賀軍港防衛の砲台を配備している最重要地域であった。要塞地帯には、海軍関係の航空基地や航空隊、砲術学校などの施設があったので、憲兵隊や特別高等警察が目を光らせ住民を厳しく監視していた。農村においても農民が農民を監視する隣保体制が徹底していたが、監視の目をかいくぐって農民たちは、貴重な種苗を隠していたのである。

絶対国防圏が崩れ、本土決戦が叫ばれるようになると、東京湾要塞地帯としての重要性だけではなく、南房総全域が本土決戦場のひとつとして想定され、様々な防御施設の構築が命ぜられる。戦争末期になると、とくに太平洋沿岸の花栽培地域は、米軍上陸の予想地点として多数の決戦部隊が配置された。軍事上の要衝は、花畑をつぶして作った食糧増産のための畑であっても本土決戦の陣地とした。そして、軍は大量の食糧確保のため、麦や米の供出を農民たちに強制しただけでなく、陣地建設にも動員したのであった。

ところで、建設にあたって軍は防諜上といいながら、農民たちには真陣地と思わせながら、「偽」陣地を建設させていた。これは沖縄戦の教訓から、水際において米軍の艦砲射撃を「偽」陣地に集中させ、決戦部隊を温存させる作戦を考えていたからである。そのために住民を国民義勇戦闘隊に組織し、「偽」陣地の「偽」兵士として投入する計画をもっていたという。

このような中で、45年7月18日深夜に米機動部隊巡洋艦による白浜レーダー基地への大規模な艦砲射撃があった。安房の人々に本土決戦を感じさせるような出来事にもかかわらず、軍当局は潜水艦からの小規模な砲撃であると虚偽の発表をしている。本土決戦を前にして、住民たちの「一億総特攻」意識が弱いことや、浮き足立っている状況を軍当局が察知したからではないか。そこには「花禁止令」に抵抗し、平和をもとめていた多くの農民たちの厭戦意識があったといっていい。安房で花を守ってきた人々の想いを忘れてはならないと、今年も人里離れた山中で、ひっそりと花は咲いている。 (愛沢 伸雄)

 

(参考文献 石渡 進著 「間宮七郎平と和田の花」和田小社会科研究部1983年)