かにた婦人の村に建つ「噫従軍慰安婦」碑

愛沢伸雄:NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表

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千葉県館山市に、売春防止法に基づく長期婦人入所施設「かにた婦人の村」(以下「かにた村」)がある。社会から見捨てられた女性たちの救済に命を賭けて生きた深津文雄牧師によって開かれたコロニーである。「かにた村」の丘から眺望できる海上自衛隊館山航空基地は、戦時中、館山海軍航空隊として全国屈指の実戦訓練部隊であった。東京湾要塞地帯として重要な役割を担っていた館山には、今なお多くの戦争遺跡が残っている。旧海軍の128高地砲台跡であった「かにた村」の中腹にも、本土決戦に備えて作られた地下壕があり、今なお「戦闘指揮所」「作戦室」と彫られた額と天井の龍が残っている。

● 深津文雄牧師の「底点志向」

1909(明治 42)年、深津文雄は福井県の日本基督教会敦賀教会の初代牧師の次男として生まれた。2 歳で兄を、3 歳で母を亡くした後、父の植民地伝道について台湾、満州とわたり、11 歳で父をチフスで亡くした。貧しさのなかで誰にも感謝されずに死んでいく父の思いを忘れまいと強く思った。しかし、牧師の子どもであったことで「ヤソ!シンジン(耶蘇、信心)」と石を投げられ、牧師になることを嫌っていた。

1927(昭和 2)年、旧制一高の受験に失敗した深津は神の声を聞き、即座に父の母校である明治学院神学部へ向かった。すでに入試が終わっていたものの懇願し、受験が許され合格した。1930(昭和 5)年、軍国主義の嵐のなかで明治学院神学部は分離され日本神学校となり、翌年に満州事変が始まった。幼いときから台湾や満州で植民地住民の惨めさを見てきた深津は、日本の帝国主義的な侵略行動をはっきり否定した。両国間に割って入り、平和をつくる反戦義勇軍ができれば、命を賭けてやってみたいと真剣に考えていた。

卒業後、聖書研究を続けるなかで「今の社会がこのように誘惑にみち、強いものが勝ちの社会であるかぎり、かならず独りで生きていけない犠牲者がでる。その人のためには、どうしても広い別天地が要る。それさえあれば、このような悲惨は繰り返さないですむ」と考えた。さらに 1937(昭和 12)年に来日したヘレン・ケラーに出会い、「古い時代には、強い人は弱い人を踏み越えて前進しましたが、新しい時代には、強い人が弱い人の手をとって一緒に進まねばなりません」という言葉に大きな影響を受け、生涯の決意を固くした。

対米英戦争の勃発とアジア太平洋戦争のなか、平和のための有効な方法を見出すことができないまま悩んでいたが、深津の教会には身寄りがなく迫害された朝鮮の人々がよく集まっていた。学生のいない寄宿舎を生活の場に提供したり、お互いの乏しい食糧を分かち合う共同生活をした。深津を支えたのは、ドイツの牧師テオドール・フリートナーのイエス的実践であった。「もっと小さいものにしなければ、私にしたことにならない」という神の言葉に添って、独身・服従・無所有を誓ったディアコニッセ(奉仕女)を従え、社会の底辺の、また下の底点に目をむけたフリートナーの実践を、深津は「底点志向」と表現した。「底辺よりもさらに下の底点にいる売春婦に転落せざるを得なかった女性たち」の更生と救済の事業に、日本初のディアコニッセとなった天羽道子とともに立ち向かっていくことになる。

● 生きる喜びを生み出す「コロニー」の誕生

日本では長い間、公娼制度のもとで売春がおこなわれていた。明治以来の廃娼運動はあったが、売春婦の救済には手を焼いていた。1956(昭和 31)年、売春防止法が成立した。この法律は国家による売春を否定したものだが、根本的な売春婦の更生や救済とはいえなかった。要保護女子とよばれる女性たちのなかには、どうしても社会復帰の難しい者がいる。戦後日本の貧困という現実のなかで、不道徳というだけでは、売買春問題の解決は困難であった。だからこそ、困難な事業に立ち向かっていくディアコニッセ運動の独自な課題になると考え、「コロニー」建設に向けて歩み始めた。

1957(昭和 32)年初秋、城田すず子(仮名)が訪ねてきた。深津は行政の厚い壁をたたきながら、「コロニー」開設の援助を訴え続けていた。翌年、大泉学園町に小さいながらも婦人保護施設「いずみ寮」が完成した。一番喜んだすず子だったが、3 ヵ月後に風呂場で脊椎骨折をし、以来 6年半にわたる入院生活となる。「生きる値打ちがないように思われる人間でも、息をしているかぎり、その生を楽しむ権利がある。…弱者の楽園をつくりださねばならない」と語る深津の言葉に、すず子は深く賛同し「私みたいな境遇の者のために、みんなが力を合わせてパンを生産し、それによって自活する工場とコロニーがほしい」と夢を語った。

それから 4 年間、深津は賛同者を求め、国会や厚生省への陳情に明け暮れた。その間、12 歳の末娘が膠原病となり、長期入院の病床で「雪のない暖かいところがいい」とコロニーの開設を願っていたが、実現を待たずに夭逝した。深津牧師は国有地払い下げの運動を続けた。1962(昭和 37)年、やっと手にしたのは館山市の旧海軍砲台跡というひどい土地であった。しかも資金問題をはじめ、難題が山積していた。総事業費 1 億円のうち、国の補助金はわずか 1,130 万円にすぎなかった。深津は命をすり減らすほど走り廻った。矯風会の久布白女史が募金活動の先頭に立ち支援してくれ、ドイツのベデスダに属する 7,000 人の奉仕女たちが奔走し 3,000 万円近く資金を集めてくれるなど、世界の人々がコロニー建設に向けて手を差しのべてくれた。

こうして 1965(昭和 40)年 4 月、亡き末娘の遺言どおり温暖の地・館山に、社会福祉法人ベデスダ奉仕女母の家「かにた婦人の村」が開かれた。「かにた」とは近くの山間を流れる小川の名前である。

ここには、今までの施設のような高い塀や鍵のかかった門、監視のきく構造、あるいは厳重な罰則はない。一時的な短期保護施設とは異なり、社会から見放された女性たちが終生ここにいることになる。心を癒し人間性を回復するためにも、本人の自主性自発性を待った。編み物、農耕園芸、調理、陶芸、製菓、畜産、洗濯、購買、看護などの仕事が生まれ、そのなかで女性たちは本当の働くことの喜びをつかんでいった。自分で生産したものを自分で消費するなかで、自分が欲しいものは真心をこめて作るようになった。この村では、役に立たないと思われた人が役に立ち、生きている意味を与えられ、新しい人間観が生み出されていったのである。

深津牧師のいう「底点志向」とは、いつまでも底点として存在することではなかった。ひとたび底点に到達したら、それを速やかに底点でないものに変化させることであり、さらに社会全体の変化に波及させることが求められた。「かにた村」の理念と実践は、つねに地域や日本、そして世界にひらかれていた。婦人保護事業では、実績でも日本での先駆的役割を果たし、また地域の福祉運動や平和運動にも積極的に参加している。

● 城田すず子という女性

すず子は、1921(大正 10)年、東京深川の裕福なパン屋で長女として生まれた。母を亡くした後、家業は破産し一家離散となり、借金のかたに 17 歳で神楽坂の芸者屋へ子守奉公に行った。そこで最初に水揚げされた社長から性病を移され、転売された後、戦争とともに従軍慰安婦となっていった。南方の島々では、ジャングルにカーテン 1 枚を隔ててしつらえた慰安所には朝鮮人を含む女性たちが集められていた。すず子は台湾、サイパン島、トラック島、パラオ島を経て、空襲に逃げまどいながら九死に一生を得た。

終戦とともに米兵相手の娼婦になる。自暴自棄なその日暮らしのなかで、自殺や心中を繰り返しながらも死の淵から蘇り、からだを張って戦後を生きてきた。30 歳を超えた頃、夜学を出て看護婦の勉強をしていた妹が自殺したことに衝撃を受け、夜の世界から足を洗いたいと願う気持ちがはじめて芽生えた。

すず子が矯風会婦人福祉施設「慈愛寮」の門をたたいたのは、1955(昭和 30)年秋、売春防止法が成立する前年であった。教会の礼拝にも通いはじめ、祈りのなかで「一人前の人間になろう」と心に誓う。この頃体調を崩したすず子は子宮摘出となる。入院の朝、念願だった洗礼を受けた。しかし生きる道が見つからずふたたび転落しかけた 1957(昭和 32)年初秋、すず子は絶望のなか、東京都板橋区の「ベデスダ奉仕女母の家」を訪ね、深津文雄牧師と出会った。ベデスダは「あわれみ」を意味し、「かにた村」の前身である。

● 石のさけび~「噫従軍慰安婦」の碑

すず子は二度の危篤を乗り越え、手厚い介護を受けていた。車椅子の彼女には作業らしいことはできなかったが、編み物、陶芸、製菓に精をだし、本もよく読み、色々な人々にも手紙を書いた。牧師やディアコニッセたちの献身的な指導は、すず子に心の平安と生きる喜びを与えた。ともに生きるなかで心の奥の襞をもさらけ出すようになり、20 年後の 1984(昭和 59)年、戦時中に従軍慰安婦だったという衝撃的な告白にいたったのである。

深津先生へ。
…軍隊のいるところには慰安所がありました。 看護婦 とみまがう特殊看護婦になると、 将校相手 の慰安婦になるのです。兵卒用の慰安婦は1回の関係で 50 銭、また1円の切符 を 持って列 をつくっています。 私たち慰安婦は、 死の影 とともに横たわっていま した。 からだを洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首を切 ってしまいたいと思った かしれません。 半狂乱でした 。
…戦争が終わって 40 年にもなるというのに、戦死した兵隊さんや民間の人のことは各地で弔われるけれど、戦争で 引っ張られていった 慰安婦 に 対する声はひとつも聞こえてき ません。中国 ・ 東南アジア・南洋諸島・アリューシャン列島で、性的 欲望 のため 体 を提供させられた娘たち は、死ねばジャングルの穴にす てられ、 親元に 知らせるすべもない 有様です 。途中で 足手まとい になった女はほっぽり出され 、 荒野をさまよい 凍てつく山野 で食もなく、 野犬か オオカミのエサになり、骨はさらされ土になり、粉々に砕けた手足は陣地の表示板になりました。 それを 私は見たのです 。 この目で 、女の地獄を 。
戦後40 年 過ぎても健康を 回復できない私ですが 、 今は 幸せです。 …1 年 ほど前から 、 祈っ
ていると、かつての同僚の姿が まざまざ と 浮 か ぶのです 。どうか鎮魂の 塔 を建ててください。
それが言えるのは私だけです。 生きていても 、そんな恥ずかしい 過去 を話す人はだれもいない
でしょうから… 。

世界で初めて、日本人としてただ一人、このような体験を語った城田すず子(仮名)の願いにこたえ、深津牧師はヒノキの鎮魂碑を建てた。翌年 166 人の浄財により、「噫従軍慰安婦」と刻まれ、天を突き刺すような石碑が建てられた。「噫(ああ)」というのは「苦しみのあまり、声にならない」という意味をもつ。奇しくも、旧海軍司令部壕の真上に建っているのである。

韓国で従軍慰安婦問題に取り組んでいた梨花女子大学のユン・ジョンオク教授がこの石碑を訪れた。日本国内やアジアでの調査結果を発表したハンギョレ新聞の記事は韓国内に反響を呼び起こし、韓国 KBS テレビのドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』制作につながった。番組は、すず子の衝撃的な証言から始まり、従軍慰安婦の歴史的事実にふれ、日本各地の慰安所跡を丹念に追った。最後に「噫従軍慰安婦」の碑の前で、深津牧師が石碑建立の経緯と謝罪の意を述べ、従軍慰安婦であった人が名乗り出ることを強く願い、番組をしめくくった。元従軍慰安婦としての勇気ある証言は「かにた村」からアジア世界へ発信され、日本国内や世界の良心的な人々の共感を呼び起こし、大きな運動になっていった。

「もし生まれ変われるなら、普通のお嬢さん、普通のお嫁さん、普通のおばあちゃんになって、孫に囲まれて生きてみたい」と笑顔で語ったすず子は、1993(平成 5)年、71 歳の人生を閉じた。内臓はぼろぼろに病んでいたが、安らかな死に顔であったという。2000(平成 12)年に逝去した深津牧師とともに、村内の会堂の地下にある納骨堂に眠っている。

● 平和学習から始まった高校生のウガンダ支援活動

地域教材として従軍慰安婦問題を通して平和学習の授業を受けた千葉県立安房南高校の生徒たちは、世界的視野を養い、自分たちには何ができるのかを模索しはじめた。「かにた村」の深津牧師より、アフリカ・ウガンダ共和国のNGO ウガンダ意識向上協会(CUFI)のスチュアート・センパラ氏を紹介された。ウガンダは、少年兵が銃を持つという内戦が終結したばかりで、エイズが蔓延し孤児があふれていた。センパラ氏は傷ついた子どもたちが自立できることをめざし、米山財団の助成により日本のアジア学院で農業を学び、ウガンダで自給自足を伴う教育を実践していた。

同校生徒会ではウガンダへの支援を決定し、1994(平成 6)年の文化祭よりウガンダ支援バザーや募金活動をおこない、約 1,000 ドルの支援金を送りはじめた。安房南高校のウガンダ支援は、生徒たち自身が身近な問題として関心をもち、平和的な国際貢献として取り組んだボランティア活動であり、「子ども権利条約」の理念を活かした生徒会活動の実践である。同校の家政科廃止に伴って廃棄予定だったミシンを送ったことが契機となって、2000(平成 12)年には若者の自立をめざした職業技術訓練施設が現地に建設され、同校と同じ「AWA-MINAMI(安房南)洋裁学校」と名づけられた。

安房南高校は、1907(明治 40)年に県下で2番目の女学校として安房郡立女子技芸学校が開校。安房高等女学校を経て、100 年にわたり地域の女子教育に大きな貢献を果たしてきたが、2008(平成 20)年春、統廃合により安房南高校の歴史は幕を閉じ、地球の裏側にだけその名が残った。

ウガンダ支援活動は、統合先の安房高校のJRC(青少年赤十字)部を経て、2013(平成 25)年より私立安房西高校JRC部へと引き継がれた。地域の若者からまかれた平和の種子は3校にバトンが手渡され、NPO法人安房文化遺産フォーラムや安房・平和のための美術展などの市民活動団体とともに 20 年を迎えた。2014(平成 26)年には活動に関わった卒業生や市民が一堂に会し、支援交流のあゆみをまとめた記念誌を英日語版で発行するとともに、元安房南高校美術教師の船田正廣氏が制作した同校生徒(セーラー服)銅像を友情の証としてウガンダへ寄贈した。