「16・17世紀の安房からみた日本・朝鮮」〜朝鮮侵略から善隣友好へ
調査研究=安房・日本・東アジア
16・17世紀の安房からみた朝鮮…「ハングル」四面石塔は何を訴えるか〜朝鮮侵略から善隣友好へ
(1993年度・歴教協関東ブロック茨城集会報告レポート
「大巌院四面石塔の『ハングル』の謎〜善隣友好と平和の碑」)
≪ねらい≫
① 16・17世紀の日本・東アジアから「雄誉上人」の生涯を考察する
・家康の帰依した「浄土宗」は宗教政策上でどんな役割をはたしたか
・東アジアの仏教世界の交流と国家理念としての儒教とのかかわり
・仏教と民衆(日蓮宗不受不施派など)、キリシタン禁教と信者の拡大での幕府の対策(宗教弾圧)でのかかわり
②東アジア・日本・地域にとっての秀吉「朝鮮侵略」の意味を考察する
・雄誉上人にとってどんな意味があったか(布教活動と朝鮮人)
・朝鮮人仏教徒やキリシタンたちの行方(家康と朝鮮人ジュリヤおたあ)
・拉致した人々を奴隷売買にする南蛮貿易や高級技術者としての朝鮮人陶工
③16・17世紀の地域・日本・東アジア世界を描くための視点を探る
・東アジア世界の人々の交流(朝鮮の仏教布教僧と倭冦による貿易)
・朝鮮人陶工たちと仏教(雄誉上人)のかかわりや朝鮮の刷還活動
・拉致された朝鮮人や日本の民衆は朝鮮通信使にどんな思いをもったか
≪資料≫ 雄誉(霊巌松風)上人と大巌院
「雄誉上人伝記」4巻・「霊巌和尚略伝」3巻・「浄土宗高僧伝」・「浄土総系譜 鎮流祖伝」・「日本仏家人名辞典」・雄誉上人 著書「精義集」「傳法指南」
(1) ハングルと仏教
韓国内では「ハングル」の四面石塔は発見されていないという。李氏朝鮮でも僧侶たちは仏典をハングルに翻訳し民衆に布教活動している。だが儒教中心のなかで、仏教弾圧がしばしばおこなわれ、とくに16世紀にはハングルの使用も禁止され、仏典仏塔にたいする破棄破壊が繰り返されたといわれている。ただ李氏朝鮮後期に「浮屠塔」として僧侶の墓地にこの種の石塔が建てられたともいう。
まずハングルの歴史をたどってみよう。1418年に李氏朝鮮の第4代国王世宗(1397-1450)が即位すると、学ぶ機会のない民衆・農民が自分たちの意志を十分にあらわせないので、「無実の罪をきせられても、文字を知らない民百姓は、それに抗弁し、釈明する手段がなくてかわいそうだ」という理由で国字創制の指示が出された。1438ー39年に創字のために中国の音韻学を参考にアルタイ語系に属する韓国語の音韻表記の研究が開始された。また新羅時代から「吏読(イド)」という漢字の音や訓で朝鮮語を表記する方法も参考にされた。1442年12月に基本的骨組みが作られ、ハングルの「字形」がほぼ完成されたと思われる。1443年12月正式に国家事業になり、正音庁が発足した。しかし国王の側近の漢学者(中国を宗主国とする事大主義)が根強い反対をしていたためか、公表されなかった。そして1446年9月29日国字は完成し、「訓民正音(28字)」と命名され、世宗により公布された。
1450年に世宗没し、文宗が即位する。このころ事大主義の勢力が拡大し、端宗が即位すると文宗の弟の首陽大君が王位を纂奪し、1455年に世祖(1417-68)が即位した。このときハングル創制の参加学者は政変に巻き込まれ、新旧の勢力が争った。ところで仏教界をみると1461年に法華経・金剛経・円覚経・永嘉経などの仏典がハングルで書かれている。しかし1504年10代国王の燕山君がハングル関係書籍を焼却する事件をおこしたのも、民衆による反国王のハングル落書きや投書行動がきっかけであった。そしてハングルの教授や学習は禁止され、さらに学問の府であった成均館は遊技場になってしまった。12月には吏読も使用禁止された。1506年燕山君の廃位運動とクーデタがおき、中宗が即位することになった。再びハングルの研究が活発化し、崔世珍の「四声通解」や「訓蒙字会」が発行された。だが、その後世宗の開いた諺文庁は廃止され、宮廷でのハングルを支援していた民族派は後退し、事大主義派が復活してきた。こうしてハングルは表舞台から消えていったが、宮廷や両班の婦女子に浸透し、ハングル文学がはじまっていった。
このような状況のなかで1527年に「訓蒙字会」(ハングルの漢字学習書)、1585年には「七書諺解」(ハングル訳の中国経書)が発行された。そして、1592-96年に壬辰倭乱がおこると、大量の仏典や金属活字が日本軍によって略奪された。その際ハングル訳仏書が日本へ流入している。
(2) 朝鮮の仏教と日本
朝鮮の仏教史をみると、372年中国前秦の順道がはじめて朝鮮の高句麗に仏像・仏典をもたらしたという。その後384年中国東晋の摩羅難陀が百済に仏教を伝えた。また、5世紀前半の阿道は迫害されるが、梁の元表が新羅王室に仏教を紹介した。この朝鮮のいわゆる「三国時代」の宗派は戒律宗・涅槃宗であった。 そして統一新羅では教理中心の5宗(戒律宗・涅槃宗・法性宗・華厳宗・法相宗)となり、義湘は唐留学し華厳思想を学び、円融の思想は支配階級の支持をえた。また彗超のようにインドに巡礼(著書『往五天竺国伝』)するものもいた。なかでも新羅の元暁(617-686年)は、奈良以降の日本仏教界にも影響を与えた人物である。645年唐の玄奘が16年ぶりにインドから帰ったことで、
中国では「新訳仏教」の時代はじまったといわれている。650年元暁と義湘は入唐を計画し実行したが、元暁は途中で気が変わり引き返したという。この出来事はのち僧衣を俗服にし、寺の外で在家の民衆に仏号を知らしめ、「南無」を唱える、新しい仏教運動(民衆仏教)のきっかけになったという。
元暁の運動が朝鮮のいわゆる浄土教として民衆に流行したのは、専制政治の社会的矛盾の進行のなかで、民衆の厭世的傾向を反映していた。つまり遊行僧として伝道していた元暁の「凡夫往生の信仰」が社会に浸透していくことになった。彼の著書「金剛三昧論」・「遊心安楽道」は日本の浄土宗開祖の法然に大きな影響をあたえたといわれている。
つぎの高麗では何といっても「高麗大蔵経」の製作である。仏力をもって国難を打開しょうとする護国仏教思想の産物であった。数多くの内乱と外民族の侵略に苦しんだ高麗では、仏教がいっそう定着した。とくに教宗(特に華厳宗)と禅宗(曹渓宗)が流行し、各地に多くの寺院が建立されるとともに、貴族の願塔・浮屠(禅師の遺骨を安置する墓塔)や塔碑がつくられた。
ところが李氏朝鮮になると儒教が国の中心となったことで、仏教は衰退していく。太祖のとき、度牒制で僧侶を増加することを防止したり、仏教寺院の乱立を禁止しただけでなく、太宗は1406年に全国の242寺のみ残して他を廃止するという仏教弾圧をおこなった。ただ世宗のように個人的信仰のために、儒臣の反対を押し切って宮内に内仏堂をつくったり、世祖が円覚寺(パゴダ公園)を創建したり、仏典の諺解のために刊経都監を設置した国王もいた。
成宗は度牒制をも廃止し、僧侶となるための出家を禁止するという仏教抑圧政策をとった。さらに中宗は1507年僧科を廃止し、仏教と国家の公的な関係たち切っているが、その後1552年には僧科が再設置され、奉恩寺は禅宗の本山として、また奉先寺が教宗の本山に指定された。当時室町幕府の統制下で日本朝鮮間の貿易がおこなわれていたが、ハングルで書かれた仏典や版木などが日本に輸入され、朝鮮仏教の影響をうけていた。
(3) 雄誉上人の生涯とその時代
雄誉霊巌松風上人は1554年4月8日、今川家一族の沼津土佐守氏勝の三男として駿河国沼津出生した。この5年前ザビエルが鹿児島に渡来し「二つの悪魔であるこの釈迦と阿弥陀とを始め、その他の多数の悪魔に対して、勝利を得なければならない」(ザビエル書翰抄)と伝道をはじめている。
雄誉が11才のとき、沼津浄運寺増誉長円上人について出家、得度し肇叡と命名した。その後15才で下総国生実の竜沢山玄忠院「大巌寺」道誉貞把上人の門に入り、霊巌と改名し、21才のとき道誉上人より宗脈を相承した。道誉が死去し、大巌寺2世には安誉虎角上人がつき徳川家康の帰依へ寺領100石を与えられた。
ところで1579年にイエズス会巡察師ヴァリニャーノが来日し、日本人聖職者の養成を図るためにセミナリヨ(神学予備校)・コレジオ(司祭養成神学校)・ノビシャード(修練院)を創設(豊後・臼杵・京都・安土の巡見)したといわれる。1581年の「ヤソ会日本年報」では、日本駐在の宣教師は75名、聖堂200余が建立され、信者も畿内に2万5千名をはじめ、豊後1万名、肥前・後、筑前・後11万5千名を数えキリシタンが激増していた。1582年1月には天正遣欧使節として4名の少年がローマへ出発している。1584年3月から5月にかけ秀吉は九州の平定をはじめる。6月19日には秀吉が「伴天連(宣教師)追放令」を発令し、長崎のイエズス会領を没収(鍋島直茂代官・直轄領)している。
1585年秀吉は関白に任官され、この年秀吉は腹心の一人である一柳末安に「日本国は言うまでもなく、唐国(明)まで征伐する」と大陸征服の意図を明かしている。1587年に入ると毛利輝元に九州平定をまかせ、つぎの朝鮮渡海の準備を告げ、対馬の宗義智に朝鮮国王の来日交渉を命じている。
この年に雄誉は34才で「大巌寺」3世の住職となった。しかし3年後の1590年雄誉は増上寺報謝法門席後、突然生実大巌寺住職やめ、東海道へ旅立ち大和にむかった。このとき近江国の福寿寺や円通寺を再興している。この年の3月9日秀吉は大坂城で家康らの賛同をえて「朝鮮侵略」決定している。5月23日は家康が大巌寺の安誉上人に書状を送っている。7月には北条氏政・氏直の小田原城が陥落したが、里見義康は北小田原攻めに遅参したため、家康が代わって秀吉に謝罪したことで義康は家康の配下にはいった。7月23日家康は大巌寺寺領安堵状と大巌寺保護のため禁制を指示している。これは家康が関東転封「江戸御打入り」(8月1日)後における寺社領の安堵策であり、新しい領国経営に宗教政策を重視していた。江戸において家康は増上寺源誉存応上人と師檀の約を結び帰依したという。
1591年雄誉上人はまず奈良に永亀山肇叡院霊巌寺を創建し、弟子の念誉廓無を第一座にし、ここに3年在住し浄土宗の布教に努めた。このころのちの儒学者藤原惺窩は関白秀次主催の相国寺での京都五山の僧らによる歌会を欠席し、仏教を捨て、儒教に道を求めたと思われる。1592年に雄誉は山城国宇治専修院「称故寺」、滝鼻村に「西光寺」を創建している。
この年朝鮮侵略(文禄の役)がはじまった。「文禄の役は日本国内のみならず、マカオ、マニラ、印度、交趾、、支那等にまで朝鮮俘虜を氾濫せしめた」(「朝鮮殉教史」))状況を雄誉上人はみていたであろうか。2月4日に生実大巌寺の安誉虎角上人が死去している。この年家康は雄誉上人の畿内での活躍を聞いてか伏見で雄誉(39才)と引見し、関東に下ることを命じた。翌年奈良から関東に戻り、大巌寺住職として寺の改築にあたった。8月15日に字を「松風」と定めている。このころ浄土宗内で煩悩と罪障をひとつとみるか、あるいは二つに分けて考えるのかの争論がはじまった(煩悩の「滅罪と不滅罪」)。1595年雄誉上人が42才のときに肖像画(厄除けの寿像)が完成している。(現在東京雄松院 霊巌寺塔頭別院・開山堂)
ところでこの年日蓮宗京都妙覚寺の日奥が、秀吉の千僧会で王法に勝る仏法を訴えて出席を拒否している。この日奥に感化された日蓮宗日経(38歳)は日什の再来とうたわれた「不受不施」派の僧侶であった。上総国二宮領南谷木村(茂原?)出生した日経は、上総国富田村(大網白里)で布教を開始している。
「不受不施」派とは天台宗日什(日泰によって七里法華開祖)が、日蓮の「法華経こそ唯一最高の正法であり、これを帰伏せざるは謗法の罪を犯すものであり、この謗法者に対しては施し(供養)を止めるとともに、いかなる布施もうけない」という信条に強くひかれたことからはじまった。当時仏教の諸潮流は権力者に媚びる者が多く、腐敗の度を濃くしつつあったが、その中にあって信仰の純粋性を説く日蓮の教義が大きな魅力となって人心をとらえていた。また、朝鮮侵略のなかで民衆の生活は困窮していたこともあり、日蓮宗不受不施派が民衆に浸透していた。
1596年8月28日土佐にスペイン船サン・フェリーペ号が漂着し、12月19日には長崎でキリシタン弾圧として二十六聖人の殉教事件がおこっている。そして1597年再び朝鮮侵略(慶長の役)がおこされた。カン・ハン(16才郷試・22才進士合格、李退渓学派)が藤堂高虎に捕らえられ、伊予大洲に、翌年には高虎は帰国しカン・ハン(32才)らを京都伏見に連行した。このとき妙寿院の僧で舜首座つまり藤原惺窩38才(赤松広通37才の師)とカン・ハンの出会いがあった。1599年2月二人によって「四書五経」の和訳が完成した。
ところでイエズス会士会議、ポルトガル商人の奴隷貿易にたいして破門の罰宣告がだされ、キリシタン大名は応じたものの、ポルトガル商人は非キリシタン大名渡結託し、奴隷貿易は続く。拉致された朝鮮人のなかで少なからぬものが、日本で受洗しキリシタンになったといわれる。
1598年8月18日京都伏見城で秀吉が死去(62才)した。豊臣秀頼はまだ6才であり、伏見の家康、大坂の前田利家が補佐役に命ぜられたが、五大老たちの最大の懸案は朝鮮侵略の後始末であり、日本軍のスムーズな撤退にあった。10月家康らは朝鮮の日本軍に秀吉の死と撤退の指示をあたえた。1600年2月家康の指示で小西行長ら朝鮮に講和を求めるため捕虜を160名送還しているが、4月には角倉了以の子である吉田素安の協力もあり、カン・ハンらが刷還されることになり、伏見を出発している。
9月15日の関ヶ原の戦いでは安房の里見義康は、徳川秀忠の従い宇都宮に陣をしき、上杉景勝にあたった。会津を制圧後に東北を鎮定した功績で常陸鹿島3万石加封されている。1601年家康、宣教師の京都・長崎居住を許可する。1602年12月家康は宗義智に命じて朝鮮との修交を計画していた。
このころ家康は増上寺源誉存応に命じて関東の檀林を18カ所に定め、鎌倉光明寺を浄土宗関東総本山とした。1603年増上寺源誉存応上人は滅罪論(念仏を唱えれば煩悩も罪障ともに消える)をとる。雄誉、不滅罪論主張するが、存応は政治的に不罪滅論者を押さえつけ、9名の追放を知恩院に命ずる。(「増上寺史料集」によると、増上寺報謝法門の席で論争するが、法門での狼藉の罪で伊豆国大島に左遷。大巌寺から追放の身になり、その後安房国大網に蟄居し草庵を結ぶとある)
1603年2月12日徳川家康は征夷大将軍に就任した。9月に雄誉上人が安房の「金台寺」を旅宿としたという。それは金台寺の4世は里見義康の伯父「豪誉」九把住持であったと伝えられている。1615年4月9日72才で死去したと「増上寺史料集」にはあるが、「房総里見氏の研究」によると里見の系図には該当する僧はいない。忠義の伯父の「忠勝」は後に出家して雄誉上人の弟子「随天」となると記録されている。
この年、50才になった雄誉上人は安房国山下郡館野大網村にあったもと禅宗の寺院を浄土宗に改めるとともに、9代里見義康が寺領を寄進したことで「大巌院」創建された。浄土知恩院末(本尊阿弥陀仏)正式名仏法山大網寺大巌院といい、檀林所化寮もあった。また偏額「大巌院」を納め、鎌倉より仏工をよび等身の寿像を作製した。10月には家康により京都知恩院が菩提寺に指定し703石を寄進している。その際堂宇の拡張や造営が始められ1619年に完成している。
11月16日里見義康が31才で死去(慈恩院墓)して、梅鶴丸(第10代忠義)が10才で家督を相続することになる。
1605年3月5日に家康は朝鮮使節僧惟政(松雲大師)や孫らと伏見城で本多正信や僧侶の西笑承兌を接待役として引見している。4月16日は第二代将軍に秀忠が襲職し、家康は「大御所」と称されるようになる。1606年里見梅鶴丸は秀忠の前で元服秀忠の「忠」をうけ「忠」義と命名された。
1607年雄誉は松平紀伊守家信亡母里安禅定尼のために五井守永寺を創建し、1615年からは佐貫善昌寺・湊湊済寺・小糸三経寺・姉ヶ崎最頂寺・下湯江法巌寺・生実大覚寺をあいついで創建している。4月には江戸城を修築し、天守台を里見氏らに築造させている。5月6日に第1回の慶長度朝鮮(通信使)回答兼刷還使が467名修好のため江戸に来ている。このとき1418名の朝鮮人捕虜が刷還している。
ところで儒学者の李真栄は大坂に移され、物乞いをしていたが重病になり、和歌山海善寺岸松庵の「西誉」(朝鮮人僧)のところに身を寄せ、衣食の給与をうけながら療養している。「深川霊巌寺志」にあらわれる「西誉」は城州醍醐人霊巌上人弟子とあり、慶長十四1609年宇治五鈷山善法寺を中興し、慶安四1651年に死去している。さらに「増上寺史料集第6巻」にも「天羽郡百首村 壽榮山無量寺開山西誉、於小金東漸寺留学、天正元1573年起立、慶長八1603年春三月三日寂」と「西誉」名がでてくる。
このころ日蓮宗不受不施派の日経は関東各地で「念仏堕獄の説」を唱え、浄土宗門布教に影響を与えていた。1608年11月15日日経は江戸城で浄土宗と法論することになったが、家康の謀略にかかり僧籍剥奪のうえ罪人にされたという。駿府の家康は民衆統治のための宗教対策を管理するため、板倉勝重と南禅寺金地院崇伝に寺社係りを命じた。
1609年には10代里見忠義(16才)は雄誉上人に帰依し、円頓の妙戒を授与されている。その際、永世に42石の朱印(大網村19石・真倉村13石・高井村10石)を大巌院に与えている。この年4月に朝鮮と貿易条約(「己酉約条」)が結ばれ、朝鮮との友好善隣外交がスタートした。
1609年上総国佐貫城主内藤政長(1600-22年)から雄誉は佐貫善昌寺の住職にと懇願された。また所化寮を造営するで壇林のように僧侶養成をはかってほしいと要請されたこともあり、大巌院を弟子霊誉にまかせ安房を離れることになった。
1611年には里見忠義(18才)が家康の側近大久保忠隣の長子忠常の娘を妻にしている。この忠隣である子の忠常の妻は、家康の長女亀姫のひとり娘の於仙というように徳川家と大久保は深くつながっていた。里見も8代里見義頼の娘である光性院が、亀姫の子松平忠政の妻というだけでなく、里見義頼の妻の親である正木時茂の弟時忠の長男正木邦時(頼忠)の娘「お万」は家康の側室として徳川頼宣や頼房の生母であったというように徳川と里見もつながっていた。
1612年2月に岡本大八事件がおきている。家康の重臣筆頭本多正純の与力でキリシタンであった、岡本大八とキリシタン大名の有馬晴信は贈収賄疑獄事件をおこした。岡本大八は朱印状を偽造したことや有馬が長崎奉行の暗殺を計画したことであった。関東代官大久保長安が岡本大八の取り調べにあたり、3月には火刑に処している。
この件で駿府の旗本や侍女の間にキリシタンの存在が発覚することになる。そのなかで「ジュリア・おたあ」のことをあげる。おたあはキリシタン大名の小西行長によって朝鮮から日本に送られてきた戦争孤児であった。九州宇土城の行長夫人ジェスタのもとで養女として育てられたうえ、受洗しキリシタンになった。関ヶ原後に行長が処刑されたことで、ジュリアは伏見に送られ家康の大奥にはいり、その後駿府に移った。その他にルシアやクララがいた。家康はあらゆる手段をもってジュリアを改宗させよと命じたが、その棄教の強要を拒否し、家康の怒りを呼び、伊豆諸島(神津島)に流刑になった。神津島の流人塚のなかに朝鮮式の塚が発見されたが、周りには日連宗不受不施派の流人墓がある。
大久保長安は三河以来の家康の譜代で、秀忠の重臣大久保忠隣と懇意であった。大八事件を境に幕閣の頂点の大久保忠隣と本多正信・正純父子との対立が激化するとともに、キリシタンが側近にもいたことで、3月11日に家康は「キリシタン禁止」を宣言した。そして駿府の家臣団にキリシタンがいないかを探索し、その結果原主水など14名を見つけ彼らを改易追放にした。8月6日には「キリシタン禁令」を諸大名に公布している。
1613年4月25日大久保長安が65才で死去している。長安の遺産をめぐる争いになり、本多正純による裁判になった。ここで長安の不正蓄財が発覚したので、幕府は遺領を没収するとともに一族の切腹を命じた。これを機に本多正純は大久保忠隣の排斥を画策した。7月家康は江戸や京都のキリシタン勢力の内偵と実態の把握しながら、とくに江戸で活動する中心的なキリシタンを処刑し、本格的な弾圧を開始する。
この年10月1日里見忠義の叔父里見讃岐守義高(上州板橋1万石)が突然改易された。12月には「伴天連(宣教師)追放令」が発布され、京都・大坂の宣教師追放の総奉行に大久保忠隣が起用されることになった。1614年1月5日大久保忠隣は京都の教会堂を破壊し、徹底したキリシタンの検挙と拷問によって禅宗か浄土宗に転宗させることに全力をあげた。寺請のはじまりはこのような畿内での転宗者、つまり「ころび者」から寺手形を取ったところにあった。
1614年1月9日から15日にかけて家康は千葉上総の東金で鷹がりを楽しんで18日江戸に着いている。このとき大多喜城主の本多忠朝や佐倉城主の土井利勝は安房の富浦岡本村庄屋彦兵衛から毎日家康のために生魚を東金まで配送させている。この状況のなかで1月19日、大久保忠隣は養女を無届けで嫁に出したという理由で改易を受けた。これは家康が幕閣内の政争の処理のために伴天連追放問題を取りあげることで、政権分裂の危機さけながら忠隣の改易問題で乗り切ろうとしたかもしれない。1月30日に忠隣は彦根の井伊家で蟄居を命じられ、
9月9日には大久保忠隣に連座して里見忠義も改易されたのであった。
1622年6月29才の里見忠義は安房9万2千石を没収され、鹿島領の替え地は伯耆国倉吉になり、のち久米・河村二郡倉吉堀村で死去した。(大岳院・高野山・三芳延命寺に墓がある)
9月11日に家康は諸大名に命じて幕府に二心なき旨の誓書を提出させた。9月16日里見改易にともなう館山城請け取りを佐貫城主内藤政長や大多喜城主の本多忠朝に命じた。このように関東の外様である里見を排除することで、豊臣対決に向けて関東の憂いをなくしたといえる。10月1日「大坂冬の陣」がはじまった。10月6日に家康は高山右近・内藤如安らと宣教師95名、さらにキリシタン(朝鮮人キリシタンも含む)ら総勢148名をマカオ・マニラに追放した。 1615年4月6日の「大坂夏の陣」(家康本陣は浄土宗の一心寺)、5月8日に豊臣氏が滅亡した。7月17日に禁中並公家諸法度が発布されている。
この年8月に雄誉上人(62歳)祖跡参拝(宗祖霊場)のため佐貫善昌寺を出発した。浦賀に渡る鎌倉光明寺(良忠上人の墓・浄土三世良忠は上総国で布教)
沼津浄運寺・伊勢山田天機院・赤桶心光寺・深野来迎寺を創建した。山田霊巌寺逗留してから大坂に行き、船で美作国(岡山)に渡り誕生寺を参詣している。
1616年4月17日徳川家康が75才で死去している。8月8日にキリシタン禁制が徹底され、外国船は平戸や長崎に集中するようとの法令が発布された。
このころより家並帳が連判帳(宗門改帳)と名称がかわる。1617年8月26日に徳川による豊臣征伐つまり大坂平定を祝賀して第2回の元和度朝鮮(通信使)回答兼刷還使が来ている。
9月雄誉は西国行脚の途中に伯耆国に改易された里見忠義を訪れている。また伯耆国(鳥取)では赤崎専称寺や穴鴨大雲寺を、出雲国(島根)では別願院、松江極楽寺を創建している。さらに石見国(島根)三隅庄では極楽寺を創建しながら、長門国(山口)下関から豊前国(福岡)小倉、筑後国に渡り善導寺で7日間の不眠念仏をおこなっている。その後安芸国(広島)の厳島神社(1539年厳島「大巌寺」尊海、大内義隆の正使として朝鮮の漢陽へ。見聞記「尊海渡海日記」)
備前国(岡山)に霊巌寺を創建した。1618年、雄誉上人は京都知恩院(満誉尊照上人(で7日間参篭
伊勢山田に松風山「霊巌寺」創建
1619年 上総国佐貫到着(旅の4カ年、寺門を興したこと30余寺)
保田琳海山別願院創建(師宣の墓がある)・金谷本覚寺創建
検義谷(岩井)本誓山大勝院創建
8月 京都キリシタン52名火刑
1620年6月 京都知恩院の満誉尊照上人死去、法雲が第30世
8月 長崎で平山常陳事件(ポルトガル船で宣教師の潜入発覚)
1621年 雄誉上人上総国を根拠地にしていたが、江戸よりの招待が多 くなる。江戸・茅場町に草庵をつくり(江戸と上総との中継 地)説法
檀家堀庄兵衛が向井將監忠勝から沼地の埋立を許可もらう((仮堂作る)
江戸 道本山「霊巌寺」創建(1627年霊巌島完成)
・諸国で伊勢踊り流行
1622年 雄誉上人、後水尾上皇への説法
6月19日 里見忠義(29才)伯耆国倉吉堀村死去
8月 長崎で「元和の大殉教」宣教師ら55名処刑 1
幕府、新寺建立と私に寺院号を称することを禁ず
1623年7月19日 雄誉上人(70才)江戸城中にて徳川秀忠・家光のた めに説法
7月27日 家光将軍承襲
10月13日 キリシタンの原主水ら55名江戸芝札の辻で処刑
家光のキリシタン禁制、江戸での弾圧強化される
●1624年(雄誉71歳)南無阿弥陀仏「四面石塔」(元和10年3月14日建立)
施主 山村茂兵夫妻「建誉」逆修(生前に戒名をもらう)
「山村」とは誰か。萩焼の「李勺光」が「山村」姓を名のっ ているのでその関係者か?「逆修」は「山村」が朝鮮に帰国 するので世話になった雄誉上人に供養を依頼したのでは?
(第3回「寛永度」朝鮮通信使(回答兼刷還)が来ることに なっている)
(「四面石塔」梵字・篆字・ハングル・漢字=四海同隣と平和)
2月30日に改元され元和10年は「寛永元年」となる
(「寛永」は朝鮮国王の諱字なので、使用しなかったのか?)
本堂前に2基の石灯篭(この年に雄誉・大巌院に何があったか)
江戸霊巌島 道本山霊巌寺創建とかかわるのか?
石灯篭「霊誉元和十年二月十五日」・「光誉寛永二年」(1625年)
(「増上寺史料集第五巻」大巌院2世霊誉上人)
(「深川霊巌寺志」照蓮社光誉利天・房州長田村人安房国大圓寺開山)
大巌院末寛永元年起立・滝川村三善寺(然誉)・北条村大圓寺(光誉)
柏崎村浄閑寺(心誉)・中村正安寺(照誉)
2月 伊勢踊り禁止
3月 スペイン船の来航禁止
12月19日 第3回 寛永度朝鮮通信使
1627年 雄誉上人、徳川秀忠・家光に法談
知恩院、然誉源正上人第31世
1628年 このころよりキリシタン摘発に「絵踏」はじまる
1629年 江戸霊巌寺 諸堂完成・佐貫勝隆寺から本尊
6月25日 雄誉上人浄土宗総本山知恩院第32世住持(76歳)
8月 佐賀市唐人町鏡円寺「九山道清」一族の墓
道清は1598年朝鮮より鍋島直茂に連行された医者で、 唐人町で製薬業と更紗業をはじめる
「逆修 朝鮮国工政大王之孫金広之」
1632年1月 徳川秀忠没す
1633年1月9日 知恩院大火
2月 第1次「鎖国」令
4月7日 雄誉江戸参府、家光より再興の命
12月 再建工事(大梵鐘鋳造発願ー門末寺院に勧進帳と募財)
1635年5月 このころ「寺請」全国的に実施される
1636年9月15日 大梵鐘完成(雄誉上人83歳)
12月13日 第4回朝鮮通信使
12月17ー21日 通信使 日光参詣 24日江戸着
大巌院に通信使立ち寄り、「大巌院『額』」ほめる
1637年10月 島原天草の乱おこる
1639年5月 知恩院御影堂の立柱
7月 ポルトガル船に断交を通告「かれうた渡海禁止」
1641年1月19日 落慶供養
3月 雄誉、江戸参府
6月14日 家光に「自然法問」講義
9月1日 江戸 霊巌寺で没す(88歳)
1655年 豪商河村瑞軒霊巌島の開発担当
1657年 江戸明暦の大火 霊巌寺焼失
1658年 霊巌寺深川(江東区白川1丁目)に移転再建
(霊巌寺には松平定信の墓あり)
1670(寛文10)年 竹岡「松翁院」(十夜寺ともいう)(浄土宗)にも 「ハングル」四面石塔が建立(尊誉)されている
(「増上寺史料集第6巻」天羽郡百首村壽榮山無量 寺 開山「西誉」、於小金東漸寺留学、天正元 1573年起立、慶長八1603年春三月三日寂)
(4) 秀吉の朝鮮侵略と朝鮮人たち
1592-96年の朝鮮侵略(文禄の役)は壬辰倭乱と呼ばれ、日本軍15万8700人が渡海している。とくに安房の里見義康についてみると徳川家康に従い、九州名護屋に出陣している。「朝鮮国御進発之人数帳」によると肥前国名護屋在陣衆合73620人のうち150人が安房侍従(里見義康)の兵であり、朝鮮国船手之勢合9200人のうち850人が堀内安房守との記録がある。また1597-98年の朝鮮再侵略(慶長の役)は丁酉再乱と呼ばれるが、里見義康は家康に従い京都までの出陣で終わっている。このとき朝鮮からの戦況報告は日本軍の苦戦や窮状を告げるものばかりであった。
この2度にわたる侵略軍によって多数の朝鮮人が拉致されたが、目的は学者文化人や技術者によって藩の教学、財政の立て直しをさせるためであったという。またポルトガル商人との奴隷売買のために人さらいをしていたとの記録もある。「文禄の役は日本国内のみならず、マカオ、マニラ、印度、交趾、支那等にまで朝鮮俘虜を氾濫せしめた」(「朝鮮殉教史」)
ところで秀吉は毛利輝元に命じて朝鮮の有名陶工を招来することを指示している。輝元は李勺光(李敬の兄)を朝鮮から連行し、大坂で秀吉に拝謁させているが、その際李勺光は秀吉より毛利預けとなり、さらに朝鮮より弟の李敬夫婦や一族郎党を呼び寄せたといわれている。
1598年8月18日京都伏見城で秀吉が死去(62才)した。豊臣秀頼はまだ6才であり、伏見の家康、大坂の前田利家が補佐役に命ぜられたが、五大老たちの最大の懸案は朝鮮侵略の後始末であり、日本軍のスムーズな撤退にあった。10月家康らは朝鮮の日本軍に秀吉の死と撤退の指示をあたえた。武将達は引き上げの際、多数の朝鮮陶工を連れ帰った。この中には捕虜として拉致された人も多い。現地で強制的に道案内や武器・食糧の輸送にあたらされ、後難を恐れ、日本への移住を希望した人もいたかもしれない。
当時渡来した朝鮮陶工を先進文明国の技術者として高く評価していた。ほとんどの大名が、彼らに屋敷を与え、武士の資格を授けるなど手厚く待遇し保護した。
関ヶ原後、毛利が山口の萩に入府されたことで、李勺光は城下松本中之倉で窯を設け、松本窯をはじめた。さらに領内に点在していた古い窯を復興し、深川窯などもおこした。李勺光は職名を「御細工人」として藩より氏姓「山村」を賜い、帰化している。山村家「伝書」によると、初代「山村」は妻を娶り男子を一人もうけたらしいが、確かなことは判然としない。2代目は山村新兵衛光政(松庵)といい「焼物所総都合〆」の職についている。李勺光の弟の李敬は坂本助八と名乗り(のちに坂と改姓)「高麗左衛門」の名をもらっている。
ところで1594年土佐長宗部元親が、朴好仁等30余人を浦戸城内の唐人屋敷へ連行してきた。それは土佐の統治上プラスになる人間(朝鮮の豆腐作りを伝えている)を選び、しかるべき約束を交わして連れてきたと思われる。その際、福島正則らが立ち会っていたようだ。1601年藩主山内一豊に替わり、朴好仁たちの生活を保障する旨を約束したが、その後、凶作の年扶持米を渋ったので、朴、浦戸を離れ、伊予の加藤のところにいく。山内藩説得するも怒りを解かず芸州福島正則に身を寄せ、1617年第2回朝鮮通信使(刷還使)の刷還で二人の息子を連れて帰国している。
黒田長政によって連行されてきた朝鮮人陶工八山は、筑前(直方市)の永満寺宅間で高取焼をはじめている。1614年には内ヶ磯に移住し藩命で小堀遠州のもとで茶陶の勉強をさせられたことから、遠州高取焼がおこった。1624年に第3回朝鮮通信使が来たとき、八山は2代藩主に帰国を願い出るが、勘気にふれ山田村に蟄居を命ぜられ、帰国できなかった。
拉致されてきた朝鮮人文化人として、儒学者であった李真栄・李梅渓父子をとりあげたい。1593年の壬辰倭乱(文禄の役)のとき23才の李真栄は、浅野長政の軍兵によって拉致され九州名護屋へ連行されていた。1604年朝鮮より「探賊使」僧惟政(松雲大師)やソンムンイクが来日し家康の意をもって、1390名の捕虜を刷還している。そのことから1606年李真栄は刷還を希望したが受け入れられなかった。
1607年に第1回朝鮮通信使は回答兼刷還使として1418名の捕虜を刷還している。このとき李真栄は大坂へ連行され、物乞いをしながら生きながらえていたが、重病になる。和歌山海善寺岸松庵(浄土宗)の西誉(朝鮮人僧という)に助けられたことで仏門に入るが、なじまなかったので再び大坂へでて易者になったという。しかし1614年の大坂冬の陣で大坂を離れ、再び西誉を頼って和歌山へ来た。和歌山久保町で寺子屋を開き、その後宮崎定直の娘と結婚、全直(梅渓)・立卓の2子が誕生している。真栄は号を一陽斎とした。
1619年家康の十男頼宣は二代将軍秀忠より紀州藩55万石を与えられた。頼宣は1626年紀州藩侍講として李真栄(56歳)を起用した。1633年に真栄が63歳で死去(現海善寺に墓)すると子の李梅渓(17歳)が寺講に起用された。1655年に第6回明暦度朝鮮通信使が来たときは、頼宣に随伴して梅渓も江戸へ行っている。この通信使の記録である南龍翼著「扶桑録」聞見別録人物条には李梅渓の名が記されている。
(5) ハングルの石塔
ではなぜ日本にハングルの石塔があるのか。まず考えられることは、朝鮮人僧侶が布教のため仏教の盛んな日本へ渡ってきたということである。一般に秀吉の朝鮮侵略で拉致されてきた僧侶たちがいたことは事実である。のちに活躍する誕生寺の日延(のち不受不施派として対馬に遠流)や京都黒谷山内の西雲院開基の宗厳、また熊本本妙寺の日遥上人などが指摘されている。壬辰倭乱以前に渡来した朝鮮人僧呂などが関東十八壇林である大巌寺とかかわり、さらに雄誉上人と接触した可能性はある。
仏教弾圧にもかかわらず、朝鮮の民衆に根ずいていたハングル仏典を通じての浄土思想やハングルによる「南無阿弥陀仏」の称名や念仏の意義を唱えていた朝鮮人僧侶たちを、民衆の立場から浄土宗の布教を推進していた雄誉上人が大いに関心をもったとは仮定できないであろうか。
では「四面石塔」施主「山村茂兵」とは誰なのか、この人物と雄誉上人とはどうかかわているか、またあいだに雄誉上人の弟子の朝鮮人僧侶などがかかわっているのかどうか。さらになぜハングルの石塔に日本人姓の「山村」があり、このようなものが当時から本当に大巌院にあったのかなどを考察していきたい。
まず「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修大巌院檀蓮社雄誉干時元和十年三月十四日房州山下大網」の「建誉」号や逆修からいえることは、まず浄土宗では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより極楽浄土に往生できのだが、「五重相伝」(聖冏によりはじまった浄土宗伝授の教育法)をうけて浄土宗の教えを受容したもののなかで、人間のなかでも優れた人という栄誉があるとして戒名に「誉」号が授与される。施主「山村」夫妻はかなりの資産家であり、逆修の儀式や「建誉」号をつけたところをみると、一般の庶民とは思われない。
この石塔は伊豆産の玄武岩とおもわれるが、この規模からいってかなりの高価なものだ。当時安房と伊豆との交流が盛んであったといわれているので、伊豆で加工されて大巌院に運ばれたか、またのちに大巌院に持ち込まれた可能性もある。
ところで「南無阿弥陀仏」の名号を「漢字・サンスクリット・篆字・ハングル」の文字で四面に刻んだのはなぜであったのか。一般に「四海同隣」、つまり阿弥陀仏の力であまねく浄土世界になることを願った石塔という。そのような思想や理念が当時の仏教界にあったとしても、なぜ朝鮮のハングル文字が選ばれたのか。朝鮮の正字は儒教理念から「漢字」である。ただ朝鮮人僧が浄土宗門にいたと考えれば、ハングルは仏教ではごく普通である。
また「山村」が朝鮮人であるかどうかである。「山村」姓では前述した李勺光が、藩より氏姓「山村」をもらい帰化している。1604年毛利輝元は萩に入府した際、李勺光に城下松本中之倉で窯を設けさせ、さらに領内に点在していた深川窯などの古い窯を復興させている。この初代「山村」は山村家「伝書」によると、妻を娶り男子を一人もうけたらしいが、確かなことはわからない。渡来前に朝鮮に妻がいた可能性もあり、家族で来たかもしれない。
仮説を立てるならば、李勺光の子に「山村茂兵」なる人物がいたとする。推測されることは、李が帰国できないので、雄誉上人に子どもの「茂兵」夫婦だけでも帰国できるように依頼する。その際雄誉上人から幕府への働きかけにより、藩は1624年第3回朝鮮通信使の刷還が許された。帰国できるお礼に逆修をして、水向けが付いた四面石塔を寄進し、朝鮮との友好交隣と平和を願ったということか。とするならば雄誉上人と李勺光はどこで出会っているのか。
陶磁器生産と里見一族との関係をみてみる。安房での窯業をみると素焼きの「蛸壷」生産が富浦を中心におこなわれていた。現在わかりえるのは、江戸後期であるが、蛸壷による蛸漁は江戸初期からの可能性がある。粘土は田土や赤土である。また凝灰岩ガラス質火山灰である「白土」がとれ、釉薬につかえた。この白土は江戸期より生産、明治大正期より日本各地に研磨剤(クレンザ)・ガラス原料として販売されていた(今も生産されている)。
やや飛躍するかもしれないが、里見が陶磁器生産のために朝鮮人陶工をかかえていたと仮定しよう。1592-96年の壬辰倭乱では、里見義康は家康に従い、九州名護屋に出陣し、「朝鮮国御進発之人数帳」によると「肥前国名護屋在陣衆合73620人のうち150人が安房侍従の兵」であり、「朝鮮国船手之勢合9200人のうち850人」という。1597-98年の丁酉再乱は里見義康は家康とともに京都の出陣で終わっているが、何らかの形で朝鮮人陶工を手にいれることは可能であったろう。
≪課題≫
雄誉上人の弟子に朝鮮人僧侶がいたか。和歌山・海善寺「西誉」はどんな人物か。雄誉の弟子「西誉」と松翁院「西誉」はどうかかわっているか
「朝鮮通信使」の歴史をみると、1607年第1回慶長度 朝鮮通信使(修好・回答兼刷還)1617年第2回元和度 朝鮮通信使(大坂平定・回答兼刷還)1624年第3回寛永元年度 朝鮮通信使(家光襲職・回答兼刷還)1636年第4回寛永13年度 朝鮮通信使(泰平之賀)日光山遊覧「雄誉上人伝記」4巻((天保4年版1833年・大巌院蔵)「寛永十三年丙子朝鮮人来朝し、日光山拝参の序房総の旧跡見物の砌上々官上官の輩満で、当院に入額筆を嘆美し、上人の行跡を聞き謹んで影像に拝せり南無」「霊巌和尚略伝」3巻((天和3年1683年・館山市立博物館蔵)「唐人数多日本へ来たり 天下の御目見し江戸より日光え参詣しそれより直に下総上総安房三ヶ国次第に至り名所旧跡見物せしめ房州に至りぬれは国中第一の大寺なれは案内者の指図にて大巌院へ誘引す唐人上官の人々本堂えあがり先つ正面の額を暫く詠め此の額はなんと伝ふ人の書たると尋ぬ寺僧指出是れは当寺の開山名をは霊巌和尚と申す人の筆跡なりと答ふ」
【参考論文】愛沢伸雄著
・江戸時代ハングル「四面石塔」のなぞ〜安房から見た日本と韓国(朝鮮)の交流
・近世安房にみる朝鮮〜朝鮮通信使と万石騒動
・地域教材で日韓交流を学ぶ〜生徒と学ぶ「四面石塔」の謎
・地域教材「四面石塔」を活かした現代社会の授業実践
・雄譽霊厳の年譜はこちら。
【参考文献】
「雄誉霊巌上人伝」
後藤真雄著「霊巌上人」1979年
総本山知恩院発行1990年
「霊巌上人略伝」浄土宗全書(第20巻)
「深川霊巌寺志」浄土宗全書(第17巻)
「知恩院史」1937年
「法然と浄土宗教団」大橋俊雄 教育社
「雄誉霊巌上人と大巌院」石川龍音
「石が語る不受不施派の足跡」平岩 毅
「千葉県の歴史」小笠原・川村著 山川出版
「江戸時代の朝鮮通信使」李進煕 講談社学術文庫
「玄海灘に架けた歴史」 姜在彦 朝日文庫
「ハングルの世界」 中公新書
「食文化の中の日本と朝鮮」講談社新書
「房総里見氏の研究」大野太平
「キリシタン禁制史」清水紘一 教育社
「日本宗教史・2」笠原一男著 山川出版
「やきもの大百科」3巻 ぎょうせい