江戸時代ハングル「四面石塔」のなぞ〜安房から見た日本と韓国(朝鮮)の交流

 

●江戸時代ハングル「四面石塔」のなぞ〜安房から見た日本と韓国(朝鮮)の交流● …….執筆:愛沢伸雄

・・*房日新聞掲載(2002年3月19日付)

・・*『足もとの地域から世界を見る〜授業づくりから地域づくりへ』収録



【1】 東アジア交流の地・館山

館山市大網にある大巌院は、1603年里見義康が雄誉霊巌上人に寺領を寄進したことで創建された浄土宗寺院である。この大巌院には、江戸時代初期「元和十年」(1624年)と年号が刻まれ、四面には梵字(サンスクリット)・篆字・和風漢字・ハングルの各文字によって「南無阿弥陀仏」と刻字された「四面石塔」という県指定文化財の名号石塔がある。

ハングルとは、15世紀に李氏朝鮮の世宗によって創制された文字であるが、この四面石塔には創制当時のいわゆる「初期」ハングルの字形が刻字されているのである。現在のところ韓国にも存在しないという極めて貴重な初期ハングル字形が刻字された石造物であるが、なぜ房総半島南端の館山の地にあるのか。この石塔は16、7世紀の安房と東アジア世界、なかでも韓国・朝鮮との間において文化交流があったことを感じさせる興味深い文化財である。

 

【2】日韓交流の架け橋に

本2002年はワールドカップ・サッカー日韓共催を記念し、両国で「日韓国民交流年」と位置づけ、さまざまな分野での文化交流を求めている。この度、在日韓国大使館・千葉県・館山市などのご後援をはじめ、関係各方面のご協力をいただき、3月23、24日「たてやま夕日海岸ホテル」において、大巌院「四面石塔」建立の謎を解明する日韓文化交流基金助成事業「日韓歴史交流シンポジウム」を開催することとなった。

私は実行委員会を呼びかけた一人として、地域にある四面石塔の調査研究を通じて、安房地域と東アジア世界、なかでも韓国・朝鮮の人々との歴史的な関係や文化交流を学びながら、未来にむけた文化交流の機会になることを願っている。

 

【3】雄誉霊巌上人の生涯

四面石塔に名前が刻まれている雄誉霊巌上人は、徳川家康や秀忠、家光と直接接触をもち、幕府の宗教政策上で重要な役割を果たした人物である。晩年は京都知恩院の住職のなかでも中興の祖と位置づけられ、一説に3千人の弟子がいたといわれる隠れた高僧である。当時、民衆の多くは雄誉そのものを信仰の対象としていたと思われ、今でも上人直筆の名号や一枚起請文が数多く残されている。

雄誉霊巌上人を簡単に紹介する。1544年、今川氏一族である沼津氏勝の三男として駿河国沼津に出生したという。若くして千葉大巌寺の住職となり、その後、房総を中心に江戸湾沿岸から関西への海上交易ルートに関わる地域で、海上交易や漁業に従事する民衆などに布教活動をすすめ、数多くの寺院を建立したといわれている。

ところで雄誉上人は、雄誉霊巌と呼ばれているが、1624年に江戸日本橋近くの葦原を埋め立てて霊巌島を造成し、その地に霊巌寺という大規模な檀林(僧侶養成機関)を創建している。今も霊巌島(霊岸島)は東京都中央区新川にあり、当時の江戸の町づくりのなかでも極めて重要な位置にあった。後にこの周辺が江戸と房総を結ぶ窓口になっただけでなく、江戸の商人の海上交易の玄関口となっていったのは、雄誉上人が布教活動の中心地にしていったからであった。

里見氏との関わりでは、寺領を寄進した義康だけでなく、1609年には義康の子忠義も雄誉上人に帰依し、大巌院には42石の朱印を与えている。しかし、1614年に忠義は突如国替えを命じられ、その後伯耆国(鳥取県)倉吉に改易されているが、この年に雄誉上人は法然の足跡を参拝する西国行脚に旅立ち、途中伯耆国の忠義を訪ねたといわれる。民衆に人気のあった雄誉上人は、晩年幕府の宗教政策のもとで浄土宗本山の京都知恩院の第32世住職に命ぜられ、1641年に88歳で亡くなっている。

 

【4】家康の政治と雄誉上人

秀吉の「朝鮮侵略」は16、7世紀の東アジア世界に大混乱を与え、民衆のなかにキリシタンや日連宗不授不施派の信仰を激増させる要因となった。家康は宗教政策などに力を入れていたが、なかでも浄土宗に帰依していたので、民衆に人気のあった雄誉上人の存在を利用し、平和を求めている民衆の動きを押さえることに腐心している。

また、朝鮮との安定した外交や貿易を確保するために、秀吉の「朝鮮侵略」によって、拉致してきた朝鮮人たちを慎重に扱っている。その対応には雄誉上人など民衆のなかにいた僧侶たちが担った可能性が高い。

民衆や拉致されてきた朝鮮の人々は平和を強く求め、なかでも仏教の力で平和を望んだ人物は、「四面石塔」を寄進することで苦しんでいる霊魂たちを平和な浄土で成仏させたいと願ったのではないか。私はそこに「四面石塔」建立の秘密があると推察している。

 

【5】石塔建立の意味

石塔の四面のひとつに初期ハングルが刻字されている。その理由は秀吉の「朝鮮侵略」に関わっているからと推察している。石塔建立の1624年は、文禄の役から「三十三回忌」にあたる年にあることをまず指摘したい。また、この年には「寛永元年度朝鮮回答兼刷還使」が来日している。幕府は雄誉上人に刷還(外交団が朝鮮国に連れ戻す)の調査を依頼し、帰国を希望している朝鮮人と接触させている可能性が大きい。

四面の刻字を糸口に建立の経緯を考察してみたい。南面には中国唐時代の善導大師撰の讃偈(経文)「門門不同八万四 為滅無明果業因 利剣即時弥陀号 一声称念罪皆除」が、また北面には「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修」や「干時元和十年三月十四日房州山下大網村大巖院檀蓮社雄誉(花押)」が刻まれている。この讃偈の意味は「いかに法門が多いとしても人間の果業を明らかにさせることが難しいので、それを克服しようとすれば、ただちに『南無阿弥陀仏』を一声唱えれば罪みな除かれる」と解釈されている。僧侶が檀家や信者におこなう伝法『伝授抄』「亡魂往来之大事」の項では、前述した経文を唱えると、霊魂がくるという人や死んだ人の姿が見えるという人の苦しみを和らげるという。

石塔にその讃偈を刻んだ意図は、今でも救われない霊魂があるので、供養して鎮魂しようと思ったのではないか。つまり、秀吉の「朝鮮侵略」で亡くなった人々や、拉致されて日本で亡くなった朝鮮人たちの霊魂が、今だに鎮魂されていないと憂えた人こそ、「山村茂兵」夫妻であった。雄誉上人に相談した夫妻は、自分たちの「逆修」(生前に戒名を得る儀式)とともに、鎮魂のために「三十三回忌」の法要をすることになったと想像した。

 

【6】「山村茂兵」と雄誉の平和の思い

石塔の寄進者「山村茂兵」とは何者か。安山岩質の伊豆石は大変貴重なもので、江戸城の築城や幕府の許可以外は一般的に使用できなかった。高さ2メートルと超える伊豆石を使い、当時著名な僧侶である雄誉上人の名と花押を刻ませた「山村茂兵」は、武士ではない。しかし、伊豆石を扱える人物となると、武士扱いを受けた高級技術者であったかもしれない。

石塔建立の1624年は、雄誉上人が江戸日本橋近くに霊巌島を造成し、江戸霊巌寺を創建したと前述した。この江戸の町づくりの始まりといわれる霊巌島の埋め立て造成と大寺院建設という大規模事業は、幕府の全面的な協力と財政的支援のもとでおこなわれたはずである。「山村茂兵」なる高級技術者は、その事業に大きく貢献した朝鮮人であったのではないのか。雄誉上人の口利きによって、帰国許可をうけた朝鮮人の「山村茂兵」夫妻は、雄誉上人に「逆修」の儀式と「三十三回忌」の法要をお願いし、そのお礼に本来なら使われない、伊豆石製の水向付き「四面石塔」を寄進したのだった。

そして、石塔の四面のなかに雄誉上人の仏教的な平和思想を刻むことで、日本と朝鮮の間の「善隣友好と平和」を願う石塔になっていったのである。

 

【7】大巌院に「朝鮮通信使」

雄誉上人の伝記に記述された大巌院と朝鮮通信使との関係を紹介する。「雄誉上人伝記」四巻(天保四年版・大巌院蔵)には、1636年の第4回寛永13年度朝鮮通信使のときに「朝鮮人来朝し、日光山拝参の序房総の旧跡見物の砌上々官上官の輩満で、当院に入額筆を嘆美し、上人の行跡を聞き謹んで影像に拝せり南無」とある。この伝記は、実際に雄誉上人に仕えていた源誉霊碩が後に記録した「霊巌和尚伝記」3巻(天和3年・館山市立博物館蔵)を底本にした可能性がある。

1683年に書かれた「霊巌和尚伝記」には「天下の御目見し江戸より日光え参詣しそれより直に下総上総安房三ヶ国次第に至り名所旧跡見物せしめ房州に至りぬれは国中第一の大寺なれは案内者の指図にて大巌院へ誘引す唐人上官の人々本堂えあがり先つ正面の額を暫く詠め此の額はなんと伝ふ人の書たると尋ぬ寺僧指出是れは当寺の開山名をは霊巌和尚と申す人の筆跡なりと答ふ」と記載されている。もし今後の調査研究によって、他の史料から館山大巌院に朝鮮通信使が来たことが実証された場合、近世外交史上において貴重な発見となる。

今回のシンポジウムでは地域の文化財である「四面石塔」を各方面に紹介する機会にし、将来の歴史研究の第一歩となっていくことを期待している。来る2002年3月24日9時30分より「たてやま夕日海岸ホテル」において、「日韓歴史交流シンポジウム」(参加費資料代2,500円)を開催する。是非、多くの皆様方のご来場を願っている。



【参考論文】愛沢伸雄

16・17世紀の安房からみた日本と朝鮮〜朝鮮侵略から善隣友好へ
近世安房にみる朝鮮〜朝鮮通信使と万石騒動
地域教材で日韓交流を学ぶ〜生徒と学ぶ「四面石塔」の謎
地域教材「四面石塔」を活かした現代社会の授業実践
雄譽霊厳の年譜はこちら。