福原有信と小原金治からみる明治期の館山

福原有信と小原金治からみる明治期の館山

愛沢 伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)

(年金者組合安房支部文集「なの花」2013)⇒ 印刷用PDF

 ■ 没後90年になる福原有信

福原有信は1848(嘉永元)年、安房国松岡村(現館山市竜岡)で父有琳・母伊佐(明石村豊岡家)の四男(長男陵斉・次男栄蔵・三男元栄・四男有信)として出生し、幼名を金太郎といいました。福原家は代々医者(市左衛門・菩提寺正見院)で、有信の父有琳は医者ではなかったが、祖父有斉から長兄陵斉に家業が受け継がれていました。

1863(文久3)年に陵斉が26歳という若さで亡くなり、翌年正月には祖父有斉が亡くなりました。16歳になっていた有信には家業を継ぐことが求められ、1864(元治元)年に上京して、親戚の医者を頼って緒方洪庵の高弟織田研斉の門に入りました。

幕末という動乱の時代にあって織田門下で修業しながら、幕府医学所において西洋薬学を学んでいきました。その後、幕府医学所頭取の松本良順(佐倉藩順天堂総裁佐藤泰然の次男)に認められ、薬学の専門家として頭角を現していきました。

明治に入って海軍病院薬局長を経て、1872(明治5)年には、23歳で東京銀座に「洋風調剤薬局資生堂」を開業することになり、有信は医薬分業の礎を築いていきました。医薬分業を法制化するために「日本薬局方」の制定には大きな精力を傾けるとともに、日本で最初の近代的な製薬工業をおこし、1885(明治18)年に大日本製薬会社の創設に関わっていきました。その間、日本最初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」は好評を博して資生堂の名が高まっていきますが、薬品類だけではなく日常の生活衛生用品や化粧品の製品開発もおこない、今日の資生堂の源流をつくっていきました。1889(明治22)年、不十分ながらも薬剤師制度ができたことで「日本薬剤師会」が結成されました。医薬分業の先駆者として有信は初代会長に推挙されたのでした。

そして、1888(明治21)年には「帝国生命保険会社(現朝日生命保険)」の創設に関わり、1893(明治26)年には社長に就任しています。なかでも安房の漁民の水難救済事業に貢献したことが、小谷家からの水産資料から明らかになっています。また、1896(明治29)年に安房で最初の安房銀行(現千葉銀行)設立の発起人となり、松岡村を通じて安房の殖産興業を支え、ふるさとの発展に力を注ぎました。1898(明治31)年には、有信の長女とりが館山病院初代院長川名博夫に嫁ぎ、松岡村だけでなく館山町においても長女とりを通して深い絆が築かれていきました。後に関東大震災によって館山病院が壊滅的な打撃を被ったとき、有信は全力で地域を支援し館山病院の再建に大きな役割を果たしました。そのようななかで、療養型サナトリウムをもつ病院がある館山は、転地療養の地として全国的に知られるようになり、銀座資生堂が館山病院の東京営業所になっていたのです。

なお、有信は財界の重鎮渋沢栄一との交際がありましたが、有信の四女美枝が渋沢の次男武之助に嫁いだことで姻戚となり、さらに深い関係となっていきました。渋沢栄一が渡米した際には、館山病院二代目院長穂坂与明が侍医となって随行しています。後年、資生堂を託された長男信一は若くして亡くなったものの三男信三に受け継がれ、今日の資生堂繁栄の基礎がつくられました。

有信は明治から大正の激動する時代にあって、帝国生命保険会社経営を安定させながら、生命保険会社協会理事会会長として保険思想の普及のために全力を挙げていたなか、関東大震災に遭遇し大きな被害を受けました。その再建の最中、翌1924(大正13)年に77歳で没しました。生誕の地の松岡八幡神社には「明治四十四年福原有信」と刻まれた鳥居や、1995(平成7)年建立の資生堂ゆかりの記念碑があります。

また金毘羅様を祀る裏山の鳥居には「松岡 福原栄蔵 布良 木高太治郎」と刻まれ、富崎地区布良の漁民たちと深い関係があることがわかります。

さらに遍智院(小塚大師)には「福原之墓(明治四十二年福原栄蔵建立)」があり、有信・徳子夫妻の名が刻字されているとともに、地域での福原家の人脈を読み取ることができます。この碑の横には有信の父有琳・母伊佐の墓石と、若くして亡くなった兄陵斉の墓石があります。

 

明治期・館山の殖産興業と小原金治

明治期に千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物でした。

金治の生涯については資料に乏しく不明な点が多いのですが、最近、館山市南条の生家(現村上宅)から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見され、生涯の一部分が明らかになってきました。この「草稿」の内容と、明治期の天才洋画家青木繁が逗留した富崎の小谷家住宅から近年発見された水産資料を通して、明治期・館山の殖産興業を概観してみます。

小原金治は、1859(安政3)年に旧南条村の豪農であった父桂助と母かよの長男として出生しました。12歳で館山藩士であった叔父小原(大館)義直から初めて読み書きを学んだといいます。後述しますが、館山藩と関わっていたことが地域のさまざまな人脈につながっていきます。

少年期から22歳までを見ると、幕末や維新動乱期に若者たちがどのような思いでいたかの一端がわかります。家族労働での農業の傍ら、実に自ら学びのために動いていることです。記載されている人物は、石橋磯吉や豊前寺住職宥海、根岸久勝、新井大吉、山田桃渓などの館山に住む漢学の師を訪ねて勉強しています。

なかでも根岸久勝は八幡村名主であり、1848(嘉永元)年から1871(明治4)年まで鶴谷八幡神社の近くで私塾「根岸学舎」を開いていた人物でした。また、新井大吉は新井文山(1779〜1851年)の息子と思われ、館山藩校の教授でした。なお、新井文山は館山藩主稲葉正巳の重臣になった儒者で、幕府の昌平坂学問所総長(儒官)佐藤一斎の門弟として全国的なネットワークをもっていました。

金治が21歳のときに大きな転機が訪れました。それは金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし、勝訴した出来事があったからです。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代であり、政治を見る眼や法律に強い関心をもって、北条村において何回か開催されていた民権派の演説会に参加しています。東京からは大隈重信の片腕であった小野梓や経済学者の田口卯吉が来房し、地元からは県議の小原謹一郎や布良村の若手活動家の満井武平らが熱弁をふるっていました。それらを見聞したことが政治の世界に入っていくきっかけになったと思われます。

激動する明治初期に22歳の金治青年は大きな志をもって上京しました。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学んだといいます。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷しています。その頃北条村で開催された民権派演説会において、金治は弁士の一人になっており、それらの活動のなかで1884(明治17)年には南条村会議員に選ばれています。

村会議員の時代、無法状態にあった房州白土採掘とその土地所有について村民から相談を受けました。その経緯のなかで、金治は県や国に働きかけて、村民としっかりとした契約関係をもつ白土会社を立ち上げたのでした。「安房坑業会社」と呼ばれた白土採掘会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長となり、地元からは金治自らが取締役となりました。最近、源慶院(館山市安布里)からこの白土採掘会社と契約を結んだ当時の吉田智道住職との間の契約証書が発見されました。

岩谷は、松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっています。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと記載しています。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎でした。この人物は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴して、安房汽船会社を創設していますが、運賃競争に敗れて大きな負債をかかえて36歳で亡くなっています。また、金治には盟友であった満井武平を通じて、彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門との交流がありました。

1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選し、二人は力を合わせて安房の殖産興業の発展に取り組んでいきました。当時、日本水産界のパイオニア関澤明清や地元水産業の代表的な人物である神田吉右衛門らは、自らの手で近代的な水産事業のあり方を模索していました。満井は大隈重信の立憲改進党に入っていきましたが、金治は党派にこだわらない政治的な立場をとっていました。しかし、県議三期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介により大隈と会見して理念に共鳴し、立憲改進党の一員となっていきました。

衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかでは、大隈の側近岡山兼吉らの説得もあり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立されました。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年の9月におこなわれた第4回衆議院議員選挙に立候補しました。立憲改進党から重鎮の島田三郎らが応援に入るなど安房国改進党は金治の当選のために全力をあげて取り組み、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選しました。

日清戦争の最中で注目される記載が「草稿」に見えます。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介によって、金治が勝海舟と会見したとのことです。そこでは日清戦争と国政のあり方について懇談して、勝海舟の高い見識には驚いたと書いてあります。

1897(明治30)年までの3年間の国会議員の活動で、明治期安房の歴史的な出来事では注目されることが三つあります。その一つが、神田や満井らの水産業改革を応援しながら、関澤明清が館山を中心に取り組んでいた先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっています。

二つ目は、県議時代より正木貞蔵らが取り組んできた公的な海運事業「安房団体」を組織したことです。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要でしたが、常に資金的な課題を抱えていました。

三つ目に、金治は殖産興業の資金を調達していく金融機関設立が安房には急務であると、安房郡長の吉田謹爾に相談していました。吉田の義父は館山藩士で、金治の叔父と仲間でした。8歳年長の吉田とは、金治が村議や県議の時代から強い結びつきがありました。金融機関を設置していく方策では、金治や吉田は安房出身で大物の大蔵官僚であった曽根静夫国債局長に相談したと思われます。曽根は日清戦争期に戦時国債の発行で戦費調達に成功させた人物として金融界では大きな影響をもっていました。金治と吉田と曽根の三者連携のもとで安房ゆかりの企業人であった福原有信や浅田正文らを発起人にして、1896(明治29)年に現千葉銀行の前身でもある安房銀行がスタートしました。

謹厳実直で実務派の吉田謹爾は、郡長を辞めて専務取締役として全てを仕切っていきました。この年に金治は病気になり、回復後も体調に自信がなかったのか3年間で議員生活を終えています。しかし、地元では先頭に立って本格的な安房の殖産興業に取り組んでいきました。1897(明治30)年、館山においてモデル的な遠洋漁業事業を実践し、企業化のきっかけをつくった関澤明清が志半ばで急逝しました。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社の創設を呼びかけました。翌年には安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入されて、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治は社長に就任しました。

近代的な水産業を模索していた盟友満井武平の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていました。

また、「資生堂」創業者の福原有信は帝国生命保険会社の設立にも関わっており、1894(明治27)年には社長となっています。当時安房郡長であった吉田謹爾らは遭難者家族救済のための保険事業の推進を呼びかけていきます。神田も全国に先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原有信の帝国生命保険会社と連携した取り組みをおこなっています。実はこの動きが人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかにあって地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に大きな貢献をしていきました。

その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努め、吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年は安房銀行頭取を引き継いでいきました。千葉県内の金融界の重鎮として千葉銀行創設に安房の地から一石を投じるなか、1939(昭和14)年に79歳で没しています。