地域史研究「安房の中世世界をさぐる-室町期の安房と里見氏」

●文献研究『安房の中世世界をさぐる-室町期の安房と里見氏』●

 

★【鎌倉期と安房-鎌倉文化圏としての安房】

平忠常の乱を平定した源頼義は、「東夷平定」の功績として朝廷から安房国丸御廚が与えられた。その地は源為義から義朝へと伝えられ、そして1159(平治元)年には、義朝が子頼朝の昇進を祈願して伊勢神宮に寄進したといわれる。

安房国の豪族には、平郡に安西三郎景益、丸之郷には丸五郎景俊、また神余郷は神余氏(籐作光秀)、さらに長狭郡には長狭氏がいた。平郡の安西三郎景益は、源頼朝が1180(治承4)年に石橋山合戦で敗北し、伊豆から安房に逃れきた際に、幼なじみでもあった頼朝から安房の在庁官人を引き連れて来るように命じられたという。また、丸信俊は丸御廚の巡検の時の案内者であった。長狭郡の長狭常伴は平家の家人であったことで頼朝を襲ったが、三浦義澄により討ち取られている。この長狭常伴の所領であった長狭郡の東条は、平家討伐を願って伊勢神宮に寄進され、さらに頼朝は平家討伐のあかつきには安房国中で新御廚を建立し、伊勢神宮へ寄進するとの願文を自ら書いたといわれる。

ところで、1181年に後白河上皇は新熊野社に燈油料所として群房庄を寄進しているが、幕府は熊野神領の維持運営や上皇の熊野詣を支援している。1195年群房庄の地頭が年貢を対かんしたことを新熊野社が訴えた際には、地頭を罷免している。一貫して頼朝を支援した安西、丸、神余、東条の四氏は御家人として所領は安堵され、鎌倉期は代々地頭職に命じられたと思われる。

鎌倉政権誕生やその後東国武士団との関わりのなかで、安房地域が果たしていた役割は重要であったと思われるが、守護が誰であったか、その後の執権北条氏は安房においてどんな役割を果たしていたか、さらに安房において鎌倉幕府の支配状況はどうであったかなどは、今もって不明のままという。しかし、鎌倉地域に限定されたものと思われていた武士の墓「やぐら」が、安房地域に数多く存在していることをみると、安房は鎌倉文化圏のなかでさまざまな文化交流があったことを想起させる。

なお、日蓮(1222〜82年)が1253年に安房から鎌倉に入っている出来事や、鎌倉期の寺社関係でも那古寺だけを見ても、銅造千手観音立像は鎌倉中期の作風で接合面には陰刻銘「平胤時(花押)」とあり、『吾妻鏡』の1237(嘉禎3)年から1247(宝治元)年にかけて登場する「千葉八郎胤時」と考えられている。また、木造阿弥陀如来座像の胎内からは「那古寺」の文字が記された1324(元享4)年の修理銘も発見されている。

 

【A. 歴史的背景[鎌倉文化の伝播]】

≪(1)「吾妻鏡」養和元(1181)年条による安房国の記述≫
源頼朝の命で、安房国在庁に工匠が動員され、安房国大工により御厨の棟上げがおこなわれた

≪(2)安房国4郡(安西・東条・丸・神余)での鎌倉文化≫
鎌倉様式仏像・・・相賀地蔵堂「木造地蔵菩薩立像」(館山市竹原)
小網寺梵鐘(弘安(1286)9年)・・・・物部国光制作
国分尼寺鐘(海老名市)・称名寺鐘(横浜市)・東斬寺鐘(横浜市)・円覚寺鐘(鎌倉市)
“小網寺密教法具のなかに金沢称名寺「審海」上人(1302年没)の陰刻銘を持つものがある。鎌倉地域との交流を示す金石文資料が多数存する。”
「称名寺」:1306年「称名寺造営料唐船」。忍性が極楽寺に入った1267年に、律僧「審海」が下野楽師寺より金沢称名寺に入り律寺になっている。

≪(3)鎌倉地域の寺院領関係≫
【瑞泉寺】
(1327年二階堂氏が夢窓疎石のために建立。1331年に疎石が観音殿を建立、1367年に足利基氏の菩提所)
1367年 足利氏満、基氏の菩提を弔うために鎌倉瑞泉寺に「群房庄」を寄進。
1418年 足利義持、今川範政に「群房庄」を還補した。
1419年 義持が安房国国衙職を熊野山新宮神宝の要脚として寄進する。

【円覚寺(鎌倉1282年建立)】「仏日庵」・・・・1363年北条氏廟所の塔頭
1365年 足利基氏、「仏日庵」に長田保西方を寄進(館山市西長田か)
1369年 「仏日庵」領に安西太郎左衛門入道が押領し、関東管領上杉朝房の命で、守護結城直光が止める。
1375年 足利氏満、安房国を円覚寺造営料所とする。
1376年 氏満、安房ほか3国の棟別銭を円覚寺造営料として寄進する
1384年 氏満、三門・方丈造営料として安房ほか4国の棟別銭を寄進する。
1401年 「仏日庵」領を丸孫太郎入道が押領したので、鎌倉府に訴えたので奉行明石加賀守は丸氏を召喚したが、応じず。
1405年 「仏日庵」鎌倉府に丸氏押領の停止をあらためて訴える。
1374・1401・1421年円覚寺焼失

【建長寺(鎌倉1253年建立)】
「五山第一位」開山蘭渓道隆(1213〜78年)が中国宋朝の純粋な禅風を導入する。日本で初めての「禅寺」と称し禅の専門道場とされた。
南宋五山の伽藍配置・参道脇に柏槙(びゃくしん)の類を前栽として配する宋朝禅刹様式。
1348年 足利義詮、建長寺住職「竺仙梵僊」死去に際し、浄智寺内の塔所楞伽院に正木郷に寄進。
「竺仙梵僊」(1293〜1349年):元朝明州(宋僧)浄智寺住持“鎌倉五山文学の古林派リーダー”
●玉隠英與(1432〜1524年?93歳寂)164世住持 :【里見義豊】との深い親交
鎌倉五山文学の復興期に活躍。万里集九や道興、相国寺の雪舟との交流。
1509年の西来庵(蘭渓道隆の塔所)再建の修造大勧進。
1414・1426年建長寺焼失

【極楽寺所領 律宗「宝塔院領」安東郷内朴谷村(館山市宝貝字宝ヶ谷か)】
1423年 「宝塔院領」安東郷内朴谷村安東又三郎跡を真田刑部左衛門尉が押領したので、鎌倉公方足利持氏は守護上杉定頼に排除を命じる。

【館山市の萱野遺跡からは、全国でも初めて北条氏「三鱗文様」瓦が出土。「極楽寺」瓦出土】

【西大寺流「極楽寺」(律宗・1259年建立))の役割】
「忍性」1262年に極楽寺に入り、鎌倉幕府に信任を受け慈善事業(「幕府中」の保奉行人の職務と重なる)=「西大寺流極楽寺は、幕府行政のうちの現業部分を負担する官寺か?」(公権力と極楽寺のよる二元的統治構造)
忍性入寺以後、海岸部の前浜(浜地)は極楽寺の権益(湊「和賀江」を管理し、関料を徴収・「前浜」は墓地であり、職能民の活動の場「異界」)「極楽寺」が全国規模で展開していた可能性がある。(忍性の職能集団「井戸掘り、橋作り、作道、石材加工、鋳造、瓦作り、溝掘り、土器作り、整地作業」)
「極楽寺」は1425年の火事と1433年の地震で大きな打撃(公権力と極楽寺のよる二元的統治構造の崩壊)。1455年「享徳の乱」鎌倉府廃絶

≪(4)熊野三山≫
1346年 光厳上皇は鶴岡八幡宮供僧泰豪(新熊野社別当相伝か)に「群房庄」を安堵する。
1354年 熊野新宮が1306年に焼失したので、本社造営のため、後光厳上皇は安房・遠江両国を新宮造営所料として寄進し、足利義詮に給付を命じた。安房は国衙の近くの地があてられたと思われる。
1361年安房・遠江両国の所務遂行をはかるために武家伝奏が出されている。
1366年新宮の社殿が造営された。
1367年足利氏満、基氏の菩提を弔うために鎌倉瑞泉寺に群房庄を寄進。
1370年鶴岡八幡宮供僧豪智は頼印に群房荘を譲る
1382年先達に安房国府禅師賢慶・岩嶺門弟、檀那として平嶋檀那。
1419年足利義持が安房国国衙職を熊野山新宮神宝の要脚として寄進する。

≪(5)「廻国雑記」(「群書類従」)にみる相模安房ルート≫
1486年 関白藤原房嗣三男「道興准后」(聖護院門跡)が清澄山、館山に那古寺、鋸山に参詣後、「河名」は館山市川名?より三浦半島三崎に渡り、「浦川の湊」を経て鎌倉に。鎌倉では五山に。その際、建長寺住持玉隠との交流もあったか。

【道興准后 1430〜1501年 在職期間 1465〜1501年】

鎌倉期以来、聖護院が熊野三山検校職になるとが慣例化していたが、聖護院門跡が足利将軍家と繋がるとともに、熊野三山検校が熊野修験の本山を統轄することになった。道興は聖護院門跡22代目として全国各地をめぐり、熊野先達の活動を安堵し自己の傘下におさめていった。

 

【B.「やぐら」は「矢倉」・「矢蔵」・「屋蔵」・「窟」か】

鎌倉地域:山腹の凝灰岩質の崖面を四面にくり抜いて作った穴
「鎌倉のやぐらの起源」:中国宋文化で、とくに石窟寺院の発想からとの説がある
●房総のやぐら:【522基】存在(現段階では墳墓・供養施設に限定せず、平安末期以降の礼拝窟や近世以降の祠も含めた広義の岩窟としてとらえる)

≪ (1)やぐらの形態≫
①古墳時代の横穴墓を再利用・改造したもの〜館山市水岡やぐら群2号(17基の五輪塔浮き彫り)
②中世の宗教施設を再利用・改造したもの〜館山市大福寺(崖観音)やぐら
③当初からやぐらとして造営されたもの〜丸山町善性寺やぐら群
④近世の祠・仏像・浮き彫りなどがあるが中世のやぐらを再利用したもの〜館山市千手院やぐら群1号
⑤近世以降の祠や墓・仏像安置施設の可能性があるが、中世の石造物があるもの

“「房総半島における『やぐら』の存在形態」”(井上哲朗論文より)

鎌倉地域において多く造営された「やぐら」という納骨・供養施設、そしてその形態は、御家人や鎌倉地域と関係の深い国人領主によって採用され、その造営に直接関与または指導的立場にあったのは東京湾の海上交通によって往来した僧侶や仏師、鋳物師であり、立地として選択されたのが、霊場として意識された寺院や古代の横穴群ではないだろうか。なお、「やぐら」が城館跡にも多く存在するのは、直接的な関係ではなく、寺院あるいは宗教的場が城館に付随した形が多いからと考えられる。」

≪参考文献≫千葉県史編纂資料「千葉県やぐら分布調査報告書」(1996年)

 

★【室町期の安房-鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏】

室町期に入り、鎌倉府体制のなかで山内上杉憲顕が安房守護及び受領安房守になったと考えれる。また、上杉定頼が安房守護であったり、山内上杉氏の京都雑掌をつとめた神余氏の本貫地が安房であったことなどで、確実に安房と上杉との関係を示している史料もある。

関東管領としての山内上杉氏家督を嗣いでいた上杉憲方・憲定・憲基・憲実らは、全員安房守護になってはいないにもかかわらず、いずれも受領安房守を使用していた。上杉文書によると、上杉憲方は、1379(康暦元)年4月時点では「上杉安房入道」とされ、「安房国朝平郷南方」を所領し、1369(応永2)年上杉憲定は山内上杉氏所領として伝領されたという。元来、鎌倉公方足利氏領=鎌倉府領であった「安房国朝平郷」の「南方」部分が、山内上杉氏領に転化している。現在の丸山町・千倉町・白浜町にわたる地域であったと思われる「安房国朝平郷」は、当時「南方」と「北方」に分かれて、「北方」部分は別領主の所領であったと思われる。

その点で、白間戸(白間津)村や窪(久保)郷などが後年、鎌倉公方足利氏の直臣梁田氏の所領であったところをみると、「北方」の別領主とは元来の足利氏かもしれない。「南方」には神余氏の上杉氏家臣化を考慮すると白浜地域が含んでいたと思われうえに、軍事上経済上白浜が中心であったと考えられる。とするなら、山内上杉氏が他の所領のように、白浜に惣政所を置いたり家臣を入部させることはあったであろう。それは武蔵六浦湊・神奈川湊や下総葛西御廚、伊豆大島などを結ぶ江戸湾海上支配網に関わっているとすると、守護国伊豆と大島と安房を直結させる、太平洋岸の拠点が安房の白浜であったかもしれない。

ところで、梁田氏は鎌倉府御料所である武蔵品川湊の代官を努めていたといわれるが、安房において白間戸(白間津)村や窪(久保)郷以外に、伊戸村や真名倉郷、山名山下郷なども所領があったという。つまり、白間戸や伊戸のように太平洋岸の港津を握っていたとすると、この安房の沿岸において足利氏と上杉氏とが、物流をめぐる争いがあったと想定される。

さて1365(貞治4・正平20)年に鎌倉公方足利基氏は、鎌倉円覚寺の塔頭仏日庵に安房国長田保西方を寄進している。ところが、1369(応安2・正平24)年にその寺領を安西太郎左衛門入道が押領したので、関東管領上杉朝房は守護の結城直光に命じてそれを止めさせ、仏日庵雑掌に渡付したという。1369(応安2・正平24)年から85(至徳2・元中2)年までの安房国守護職は下総結城直光といわれるが、その間の1374(応安7・文中3)年には、史料によると「朝平南郡」巨松寺(小松寺)の大檀那高階家吉らは梵鐘を施入したとある。高階姓を称した足利譜代の執事高氏一族と推定されものもいる。なお、1405(応永12)年には円覚寺仏日庵領長田保西方が丸孫太郎入道の妨害で不知行であったことが、また1423(応永30)年には、安東郷朴谷村安東又三郎跡であった鎌倉極楽寺宝塔院領を真田刑部左衛門が押領したので、守護の上杉定頼はそれを退けたという記録が残されているだけである。

安房における山内上杉氏勢力の拡大は、当然鎌倉公方足利氏との対立を生みだたと思われる。とくに安房守護職では、1369(応安2)年に鎌倉公方足利氏の直臣と思われる下総結城直光が、1388(嘉慶2)年には下野木戸法季、それ以後、木戸満範が就任し1416(応永23)年に没している。そして、1423(応永30)年には小山田系の上杉定頼が就任している。山内上杉氏側も受領安房守の世襲化を図っていることをみると、安房守護職をめぐって足利氏と上杉氏との間で権力闘争がおこなわれており、鎌倉府を崩壊に追いやった永享の乱や結城合戦、さらには鎌倉府を再分裂させた享徳の乱などの一連の内乱と無関係ではなかったといえる。

享徳の乱の過程で里見氏が古河公方足利成氏方として、安房で覇権を確立するためには山内上杉氏との対決が避けられなかった。里見義実の勢力は当初、義実の入部に随伴した特定の集団や旧足利氏家臣などにすぎなかった以上、その覇権確立のためには、山内上杉氏勢力と潜在的な対立関係にあった人々をいかに掌握するかにあったといえる。

 

★【安房里見氏の系譜-里見義実と享徳の大乱】

里見氏の祖である里見義成は、鎌倉幕府成立期に功績があったので、源頼朝より伊賀守という官職が与えられている。義成には4子いるが、長男義基が里見太郎と名乗り上野国で勢力を保っていた。また4男義直も里見を名乗り里見判官代といわれているが、のち承久の乱の功績で、美濃国に所領が与えられ、円教寺地頭職を得て美濃里見一族の祖となっている。そして、南北朝時代のおける里見義宗は「民部少輔」で新蔵人という官職を得ている。1333(元弘3・正慶2)年、新田義貞が鎌倉攻めのため上野国新田庄で挙兵した時、新田の一族として「里見五郎義胤」「里見蔵人義宗」らが加わったといわれるだけで、鎌倉末期から南北朝期にかけて、関東で里見氏を名乗る人々の動きが不明になっている。これは関東にわずかな部分を残して、里見氏の主力が美濃に移ったのではないかと想定される。

そして室町期に入り、1365(正平20)年には初代鎌倉公方足利基氏の近習に「里見殿散位師義」がいたとか、公方の「御剣役」を里見が努めていたなど、奉公衆としての活動が記載されている。そして「鎌倉大草子」によると、1438年の永享の乱では、鎌倉公方足利持氏に従って近臣の「里見刑部少輔家基」が戦死し、結城合戦では「里見修理亮」が戦死したという。つまり、この里見家基の戦死で関東にあった里見氏は断絶したと思われる。

その後、足利持氏の遺児万寿王丸は鎌倉を逃れ、美濃の土岐氏のもとか、信濃大井氏のもとで成人して成氏と名乗り、鎌倉府が再興された時に復帰している。「鎌倉大草子」には「成氏の出頭の人々」として梁田、里見、結城、小山、宇都宮、その他千葉新助らの名前をある。この里見こそが美濃国から関東にやってきた里見であり、「民部少輔」の官職をもった義実であったと思われる。義実は断絶した関東の里見氏、つまり刑部少輔家基の名跡を継ぎ所領や地位を継承するとともに、鎌倉公方足利成氏の直臣ではあるが、とくに「関東足利氏の御一家」的存在として、反鎌倉公方勢力との戦いでは中心的な役割を担っていくのである。

1454(享徳3)年12月27日の夜、足利成氏は対立していた関東管領の上杉憲忠を鎌倉の西御門邸に招いて謀殺し、直後に成氏直臣の結城成朝や武田信長、里見義実らに命じて三百騎の軍勢で上杉邸を襲ったのである。この出来事をきっかけに、鎌倉公方派と山内上杉氏派とに分かれ、関東地方では応仁の乱の前に30年近くにわたる利根川をはさんだ東西戦争、「享徳の大乱」になっていった。

1455(康正元)年、足利成氏は上杉氏追討のため武州府中の高安寺に出陣し、分倍河原の戦いで上杉軍を破った。その後成氏軍は利根川・渡良瀬川を防御線として下総古河を本拠に、上杉軍の騎西城を攻めていく。ところが、将軍足利義政の命で駿河の今川範忠が鎌倉に侵攻し占領したため、成氏は里見・木戸・印東らと防戦したものの古河に逃れて古河公方となった。里見義実や武田信長らは騎西城を攻め、上杉房顕らは敗走し落城している。

「鎌倉大草子」によると、1456(康正2)年足利成氏の近臣里見義実が安房国に入部し「稲村城」を取り立て、上総国には武田右馬助信長が入部し、真里谷城・長南城を取り立てたとある。足利成氏派は房総半島や江戸湾海域を山内上杉氏派を押さえる最前線として位置づけ、その制圧には最も信頼できる家臣である里見義実を安房に、武田信長を上総に送り込んだのであった。