クジラの思い出-館山湾と捕鯨-

私と水産業の関わりは、27歳の時にイワシ揚繰網漁を経営したことに始まります。私は明治35年に現在の館山市真倉の本蓮寺で生まれました。両親を早く亡くしたため、9歳の時に母の妹の嫁ぎ先である小高家の養子になりました。長じてからは、養父の稼業である米穀卸業と船舶用重油類の販売とを継ぎ、東京で修業してきた知識と経験を生かして、大いに業績をあげました。

そして27歳の時に、「房州は水産業と畜産業を中心に産業の振興を図るべきだ」という坪野平太郎先生の教えに従い、イワシ揚繰網漁の経営を手がけました。昭和4年頃のことでした。その頃から、館山湾に面した北下台そばに居住地を移しました。

その当時、北下台の下には、スロープを備えた東海漁業株式会社の解体場があり、毎年夏になるとクジラの解体が行われていました。最盛期には、船主に大砲(捕鯨砲)を据えた10トン級のキャッチャーボートが10隻ほど操業していました。ツチクジラ、ゴンドウクジラ、ミンククジラ、イルカが水揚げされていました。セミクジラが稀に採れたこともありました。全体的にはツチクジラの捕獲数が80%くらいを占めていたように思います。

当時のクジラの需要は、鯨油利用が主体で、東京の石鹸会社に出荷されていました。また、鯨油の一部は水田の害虫駆除にも使われました。肉は牛肉よりも栄養価が高いといわれていて、魚屋の店頭で売られていました。鯨肉は煮物で食べるようになってから、とくにたくさん食べられるようになったようです。まず、肉の血出しをして、臭い消しにシソの葉をいれて味噌で味つけをしながら煮て食べたものです。ツチクジラのタレは酒の肴として喜ばれていました。骨などは骨粉に加工されて、肥料として用いられていました。

ひと夏の漁が終わると、万祝酒といって、漁の関係者や近隣の家々に振る舞い酒をしていました。私が記憶している限りでは、大正10年頃から昭和の初期にかけての間に、2〜3回万祝が配られたように思います。この頃は、クジラの漁が終わると、漁師たちは何をするでもなしにのんびりとしていました。今考えてみると、そういうところは、房州の漁師というのは実に鷹揚でした。

東海漁業株式会社は昭和10年頃まで館山を拠点としていましたが、この間にもいろいろなことがありました。この頃から、館山湾では海水浴が大変盛んになっていました。東京湾内でもっとも広く遠浅で、安全な海水浴場ということで、毎年多くの人びとが訪れるようになっていました。ところが、この季節はクジラの捕獲シーズンにもあたっており、時によると、解体の際に溢れ出るクジラの血液が、海水浴客が泳いでいるところまで流れ出すようなことがありました。館山桟橋をこえて北条海岸一帯にまで流れ込むようなこともありました。これには、海水浴客も観光業者も大変困り、とうとう東海漁業は白浜町乙浜に移転することになりました。この移転については、作業効率を高めるために、漁場により近い場所に移すという意味もあったのです。海洋汚染の問題は、昔も今も大きな課題となっていたのです。

白浜町に移転してからも、白浜沖を中心に盛んにクジラの捕獲が続けられましたが、昭和10年代には、他の業者による捕獲も行われるようになりました。代表的な業者は、館山市沼の津田組と千倉町の家満寿組がありました。この三社は、次第に漁場などが競合するようになったため、千葉県の指導によって三社の合併を実施しました。私は県議会の水産委員としてこの問題に関与いたしましたが、大方の危惧に反して、東海漁業に他の二社が合併する形で、この問題は円満に解決し、その後の業績も伸びました。

第二次世界大戦中には、兵隊に栄養価の高いクジラの肉を供給するために、館山航空隊から30余名の応援を得て、軍用にクジラを捕獲したこともありました。思い出多い東海漁業は、その後昭和44年まで操業を続けました。そして現在は、昭和23年から操業を開始した和田町の外房捕鯨株式会社が操業を継続しています。

捕鯨は房州を代表する産業の一つと考えておりますので、私はその伝統が現在も継承されていることを大変うれしく思っております。また、南氷洋捕鯨が盛んな時期には、館山湾からも極洋捕鯨株式会社の船団が出航したこともありました。

思い出すままにクジラの思い出を述べましたが、つくづく館山湾のいうところはクジラと縁が深いところだと思います。

最後に、現在の捕鯨問題について私見を述べておきたいと思います。商業捕鯨の再開については、対象とするクジラ資源の正確な評価が不可欠であると考えます。また、日本近海での捕鯨と公海での捕鯨との調和をどのようにとるかという問題もあるかと思います。

ところで、現在の捕鯨問題の一番の争点は、クジラを資源と考えるか、野生動物と考えるかというところにあると思います。これの合意点を見出すことは大変困難なことだと思いますが、捕鯨について否定的な国ぐにや人びとに対して、日本の多様な鯨文化について理解が得られるような努力を続けることを怠ってはならないと思います。

そして、捕鯨業に携わってきた方々には、これほど豊かになるまでのわが国の食生活を支えたいという自負をもって、一層、奮起していただきたいと思います。

出典:1993年7月『鯨の文化誌-鯨と私たちのくらし』安房博物館刊

執筆:小高熹郎(おだかとしろう)
千葉県館山市館山漁業協同組合長、北洋漁業挺身団長、千葉県揚繰網漁業協同組合長、
千葉県信用漁業組合連合会会長、関東かつお・まぐろ飼料協同組合長、日本施網漁業協会会長、
全国漁連理事、千葉県議会議員、衆議院議員、文部政務次官などを歴任。房総芸術文化協会会長、館山市名誉市民。