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【房日】140307*小谷家のひな祭り~好評で追加公開

小谷家のひな祭り

好評で8日に追加公開

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小谷家のひな祭り 好評で8日に追加公開

青木繁「海の幸」誕生の家として知られ、保存運動の進む館山市布良の小谷家住宅(同市指定文化財)で、修復工事を前に今月初め、ひな祭りの公開見学会が行われたが、3日間で延べ200人が来場する人気ぶりだった。このため、8日に急きょ追加公開することになった。

このイベントでは、昭和の雛(ひな)人形とともに、当主夫妻が納戸の奥から発見した古い雛人形も展示公開された。見つかったのは、4対の雛人形と大黒様と恵比寿様、五人囃子と一対の高砂人形の計17体。ひとつの木箱には「久次郎 げん」と記されている。「げん」は、現当主の6代前に婿養子を迎えた女当主の名で、明治3年に98歳で他界していることから、江戸期に制作されたものと推察される。200年を越えるとは思えないほど保存状態もよく、着物の色も美しい。来場者はみな思わぬ文化財に感動していた。

当主の小谷福哲さんは「先祖のげんさんが、小谷家住宅の保存運動にエールを送ってくれて、人形を見つけさせてくれたのではないか」と語り、妻の由喜枝さんは「私が生まれたときに、新しい雛人形を買ってもらったので、60年ぶりに日の目を浴びた人形も嬉しそう」と話した。

青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会では、館山市のふるさと納税を通じて寄付を募っており、趣旨に賛同する会員を募集している。全国の画家たちの支援により、修復基金の目標額3600万円のうちおよそ半分が集まったため、4月から着工することになり、平成28年春の一般公開を目指している。

追加の公開見学は午前10時から午後3時で多くの来場者を呼びかけている。場所は、JRバス「安房自然村」停留所から徒歩3分。問い合わせは、保存する会の池田恵美子さん(090-6479-3498)まで。

(房日新聞2014.3.7付)

【房日】140304*高評価得た館山の実践~地域まるごと博物館シンポで

シンポジウム館山まるごと博物館

(房日新聞2014.3.4付)⇒ 印刷PDF ⇒ 開催概要

文化庁の地域活性化事業の一環として、「シンポジウム館山まるごと博物館〜文化遺産を保存・活用するまちづくり」がこのほど、館山市内のホテルで開かれた。午前の世界的なツバキ研究者だった同市南条の小原家庭園見学会には約70人が参加、午後のシンポジウムにも関心のある市民ら約60人が参加した。

歴史文化遺産(ヘリテージ)の保存・活用を実践する人材養成を目指し、「ヘリテージまちづくり講座」に取り組んできたNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が、20年以上にわたる実践を踏まえ、講座の最終回として開催。多くの市民から賛同を得てきた「館山まるごと博物館」の実践について、エコミュージアムの研究者や市民とともに検証し、これからの可能性と課題を見つめる機会となった。

基調講演は、日本エコミュージアム研究会前会長で横浜国立大学大学院の大原一興教授。この中で大原教授は「各地の取り組みの多くは、エコミュージアムの理念を十分に理解しているとはいえない。文化財の保存・活用を単に観光利用の目的で捉えるのではなく、地域の人びとの生活文化の歴史にどのように関わってきたのかを学習したうえで、これからの地域を作り上げていく主体を育てるという視点から展開していくことが大切。その点、館山まるごと博物館は活動に関わる人びとがその考え方をよく理解していると思う」とエールを送った。

後半のパネルディスカッションは、3人の登壇者がそれぞれの立場から館山まるごと博物館に対する思いを語り合った。県立中央博物館学芸員の林浩二さんは、「近年の国際博物館学会では、博物館の機能として地域の有形無形すべての文化遺産を扱うことが求められている。市民が主体の地域まるごと博物館と連携することが大切」と語った。

神奈川大学特別助手のチョン・イルジさんは、「館山まるごと博物館は、活動に関わる市民研究員の層が厚く、市域資源の点と点が線になり、さらに面へと広がっていくつながり方が、国際的にも通用するまちづくり事例である」と報告した。

館山市教育委員会生涯学習課文化財係長の杉江敬さんは、歴史資源等を生かした平和・学習拠点の在り方として、館山市では「地域まるごとオープンエアーミュージアム館山歴史公園都市」を目標像と描いていることを紹介し、市民力と連携した活動実践を報告した。

最後に、主催者代表で千葉大教育学部で講師をしている愛沢さんは、「館山まるごと博物館は、今に生きる私たち市民の誇りを育んでくれるだけでなく、持続可能な地域づくりのヒントも与えてくれている。他地域との連携による広域まるごと博物館の交流をさらに深め、豊かな教育と観光雇用を増やすことにも寄与していきたい。ぜひ、多くの市民に活動へ参加してほしい」と語った。

 

【房日】140301*小谷家住宅でひな人形公開

小谷家住宅でひな人形公開

(房日新聞2014.3.1付)

青木繁が滞在し代表作「海の幸」を描いたことで知られる館山市布良の小谷家住宅(同市指定文化財)で、きょう1日から3日まで行われる。

同住宅は、全国の画家たちによって保存運動が進められ、一般公開に向けてまもなく修復工事も始まる。そこで、工事に先立ち、「小谷家住宅ひな祭り」として、最近見つかった江戸期のものと思われる雛人形と合わせて、同家に受け継がれているひな飾りを展示する。

同住宅は、JRバス「安房自然村」停留所から徒歩3分。特別公開は3日間とも午前10時半〜午後3時半まで。

【読売】140301*小谷家で江戸後期の高砂人形発見公開

旧家で発見、高砂人形公開

館山「小谷家」江戸後期の作か

(読売新聞2014.3.1付)

館山市布良の市指定文化財「小谷家」で江戸時代後期の作とみられる高砂人形がみつかり、1〜3日、一般公開される。現当主の小谷福哲(ふくあき)さん(63)は「古い家と古い人形ならではのたたずまいを楽しんでほしい」と来場を呼びかける。

小谷家は代々マグロはえ縄漁の船主を務めるなど集落の指導的役割を果たした名家。現在の母屋は1889年(明治22年)の大火後に建てられたもので、1904年(同37年)には、洋画家・青木繁が同家に滞在し、名作「海の幸」(国重要文化財)を描いたことで知られる。市は2009年に「保存状態のいい明治期の貴重な建造物」として文化財に指定した。

今年、小谷家の改修工事が行われるのを前に、地元のNPO法人・安房文化遺産フォーラムが一般公開を企画。古いひな人形を飾ろうというアイデアに、福哲さんの妻由喜枝さん(59)が納戸に古い人形があったことを思い出し、今年1月下旬、小さな木箱に入った高砂人形が見つかった。木箱の裏には「久次郎 げん」とあり、福哲さんが過去帳などで調べた結果、6代前の当主の妻で、明治初めの1870年に98歳で亡くなった「げん」に行き着いた。

福哲さんは「げんの亡くなった年齢などを考えれば、人形は江戸後期の作ではないか」としている。別のふるびた木箱の中には4対の内裏びなも見つかり、一緒に公開をすることにした。由喜枝さんは「人形が狭いところから出たがっていたのでしょう」と感慨深げだ。

公開は午前10時半から午後3時半。無料。問い合わせは、同フォーラム・池田恵美子さん(090・6479・3498)

140301~03*小谷家のひな祭り

青木繁「海の幸」誕生の家

小谷家住宅のひな祭り

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漁村の築130年の和風建築は、明治37(1904)年夏に画家・青木繁が滞在し、重要文化財の名画『海の幸』が描かれた家として知られる館山市指定文化財です。

青木繁を敬慕する全国の画家たちによって保存運動が進められており、一般公開に向けてまもなく修復着工の予定です。江戸期のものと思われるお雛様も見つかりましたので、期間中特別公開しまています。どうぞお越しください。

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【日時】2014年3月1日(金)〜3日(月) 10:30〜15:30

【アクセス】JRバス安房自然村バス停から徒歩3分

【房日講演抄録】130223*内村鑑三の進路を変えた布良の神田吉右衛門翁

【講演抄録】 (2013年2月23日 房日新聞)

内村鑑三の進路を変えた布良の神田吉右衛門翁

潜水器アワビ漁を村有に、卓越した漁村のリーダー

千葉の海と漁業を考える会代表 平本紀久雄氏

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無教会主義を唱えたキリスト教思想家、内村鑑三(1861-1930)は水産伝習所教師だった明治23年(1890)8月、漁業調査のため生徒を引き連れて布良(現・館山市)を訪れている。内村はその著作『予が聖書研究に従事するに至りし由来』で、布良で出会った神田吉右衛門という老人とさまざまな話をしたことが契機となって「本職として従事した実業をなげうった」と述べている。

内村は札幌農学校を卒業後、開拓使に勤務して水産を担当。渡米・帰国後の明治22年、水産伝習所の教師となったが、神田と出会った布良の出張を終えるとすぐに退職する。水産技師から宗教家・思想家の道に進む大きな転機だった。

この時内村は29歳、神田は56歳。神田は「いくらアワビの繁殖を図っても、いくら漁船を改良し、新奇な網道具を工夫しても、彼等漁夫たちを助けてやることはできない」「なによりも先に(刹那的に生活をする)漁師を改良しなければだめだ」と話したという。

私は昨年9月、内村の研究者で同郷・同窓の大山綱夫氏(元恵泉女学園短大学長)に「神田吉右衛門とはどんな人物だったのか知らないか」と尋ねられ、すぐに研究・調査を始めた。

富崎小正門脇に神田翁の顕彰碑がある。大正2年の建立。この碑ができた時には記念の絵はがきもつくられた。

天保5年(1834)生まれで25歳の時に神田家に婿養子に入り、すぐにリーダーとして頭角を現す。明治6年に磯根アワビ売買の私有を廃し、村の共有に改めさせたというからすごい。この時はアワビの収益から村民に義捐金を募り、学制発布で発足したばかりの小学校に学資援助を行っている。

同15年には自らの発意で潜水器によるアワビ漁業を起こし、これを村有とした。白浜や大原など他地域ではすべて私企業が経営していた。布良では道路や漁港、水道など公共事業費のすべてをアワビ漁の収益でまかない、その残った余りを329軒の村人に分配したという。

同18年には相浜から乙浜までの漁業組合頭取になり、マグロ漁の遭難救助積立金制度をつくって漁師の相互扶助の道をひらいた。

同26年には富崎村村長に推され、8年務めた。安房水難救助会も設立した。同29年にはマグロ船の船頭認定制度を設けて証書を交付している。やはり内村が影響を受けるほどの人物だったといえる。

明治29年から33年にかけ、3回にわたり布良で「水産談話会」という催しが行われた。議事録が残っている。これを見ると、神田村長の教育者としての働きのすごさが分かる。出席者は尊重以下区長、勧業委員、区議、はえ縄船主と船頭合わせ、29年の場合計100人。評議では▽水夫の雇い入れ契約の届け出徹底▽船頭の資格要件、給与額の確認▽賭博禁止と罰則-などが話し合われている。遭難防止対策、新しい漁業法の工夫についても、村長が積極的に発言している。

神田吉右衛門は明治35年(1906)に69歳で死去したが、葬儀の資料によると数百人が参列し、村の児童や隣村の卒業生も集まったという。

わずか5か月でこれだけのことがわかったが、富崎の歴史についてもっと知りたい。布良の人は地元に伝わる話をぜひ収集していただけないか。神田翁の働きを紙芝居や小学校の副読本にできればいい。

市立博物館には明治44年から昭和6年まで吉右衛門の親類である神田辰太郎が残した膨大な「日誌」が残っている。どなたかぜひ読み解いてくれれば。

 

(本稿は館山市の日本キリスト教南房教会で17日に行われた市民講座の内容を要約、再構成したものです)

【房日】140219*福原有信を語るつどいに200人が聞き入る

郷土の偉人の功績語る、資生堂創業者福原有信

つどいで市民ら200人が聞き入る

(房日新聞2014.2.19付)⇒印刷用

ふるさと松岡の偉人・福原有信を語る「ふるさと松岡の偉人・福原有信を語るつどい」が15日、南総文化ホールで開かれた。没後90年の記念行事として、地元の同市松岡区に発足した「福原有信を語り継ぐ会」が、NPO法人安房文化遺産フォーラムとの共催で開催。集まった市民ら200人が、郷土が生んだ偉人の功績に耳を傾けた。

つどいに先だって行われた午前の現地見学会には40人が参加。福原が鳥居を奉納した松岡八幡神社や菩提寺である小塚大師などゆかりの地をめぐった。

午後1時半から開会したつどいでは、資生堂企業資料館(静岡県掛川市)の佐藤朝美氏が「福原有信と資生堂〜人びとの幸福と健康のために」をテーマに記念講演。佐藤氏はこの中で、福原が里見氏の家系であることや、幼い頃から漢方医の祖父から薬草について学び、医薬分業の先駆者として資生堂薬舗を起こしたこと、帝国生命保険会社を設立経営したこと、長女が館山病院の初代院長川名博夫に嫁いだことなどを語った。

第二部の座談会では、福原家分家の福原勇さん、語り継ぐ会世話人の早川萬専さん、早川政義さん、吉田茂徳さん、安房歴史文化研究会長の天野努さん、安房文化遺産フォーラム代表の 愛沢伸雄さんが登壇。「福原家の敷地には30年くらい前まで薬草が残って生えていた」「海上安全祈願の金毘羅山には福原家と布良の人物名が刻まれた鳥居がある」「布良の海難対策として帝国生命保険が有益であった」「後に千葉銀行となる安房銀行を設立した」「館山病院の震災復旧に尽力した」ことなど、ふるさとへの貢献も大きかったという報告があった。

また、福原とともに日本薬局方の制定に尽力した日本を代表する法制学者、細川潤次郎が同市国分寺の万石騒動三義民200回忌記念碑の撰文者であり、小塚大師にある福原家の墓と大神宮七人様の犠牲者2人の墓が隣り合っていることから、「これらの農民一揆で先人が連帯感と犠牲者への補償を重視していたことを福原が知っていた可能性が高く、起業の精神につながっていたのではないか」という、これまでになかった仮説が愛沢氏から発表された。

地元松岡区では、資生堂が企業メセナとして推進している生物多様性保全の椿の森プロジェクトに賛同し、福原生誕の地に椿を植林するとともに顕彰碑を建てたいという発言もあった。

【東京】150704*親子でぶらり、赤山地下壕跡

親子でぶらり、赤山地下壕跡

戦時に想いはせ歩む250メートル

(東京新聞2013.7.4付)

こんもりと茂った赤山(標高61メートル)の麓にある入り口をくぐると、湿気を帯びた冷機に包まれた。

「夏場は22度。冬でも18度くらい。年間を通じてほとんど気温が変わりません」。案内してくれた館山市教文化財係長の杉江敬さんが話す。

壕が掘られた時期は定かではないが、館山に置かれた海軍航空隊の軍人ら3000人が避難、生活もできるように、昭和19年の秋ごろから工事が始まった、という説が有力だ。

幅10メートルほど、奥行き20メートル前後の「部屋」がいくつも、縦横に走る幅2メートルほどの通路で結ばれている。「部屋」の部分も含めて全長1・6キロだ。終戦まで堀られ続けていたといい、未完成のまま工事は中断したようだ。

「計画では掘られた壕の上に、さたに2層の壕を掘る予定だったとされます。上に向かって掘ろうとした痕跡も残っています」と杉江さん。「発電設備の跡がある、『地下壕で給料の計算をした』『服が大量に置かれていた』などの証言があります」という。

B-29による空爆はなかったが、艦載機による攻撃は受けた館山。戦局が厳しさを増す中で、壕にこもって業務をしていたことがしのばれる。

砂岩、凝灰岩が主体で風化しにくく、保存状態は全国でも有数だ。それでも崩落の危険があるため、現在公開されているのは250メートルだが、関東では最長だ。

「公開のための調査が入る前はマッシュルームが栽培されたり、子どもたちの格好の『秘密基地』になっていたようです。もうおくまでは入れなくなりましたが、貴重な歴史遺産を守っていきたいですね」と杉江さんは話している。(仁)

★ 赤山地下壕

千葉県館山市宮城192の2、JR館山駅からバス、みやぎ下車3分。入壕料一般200円、小中高生100円。午前9時半から午後4時まで。原則第3火曜と年末年始休壕。NPOによる有料ガイドあり。問い合わせは豊津ホール=電話0470・24・1911=へ。

ひとこと

国立歴史民俗博物館の林部均教授は、「戦争を考えるうえでいい場所だと思う。房総の海へ行ったらぜひ立ち寄りたいですね」と推薦。

● 足を伸ばせば

★ 洲埼灯台

館山市洲崎1043、JR館山駅からバス30分。洲埼灯台前下車5分。大正8年に点灯された高さ15メートルの灯台。東京湾に出入りする船舶の目印となっている。灯台は登ることはできない。近くに民間の有料駐車場あり。

★ 城山公園

館山市館山351の2、JR館山駅からバス、城山公園前下車5分。里見氏の居城だった館山城を整備した公園。眺望が開け、条件がよければ富士山も望める。芝生広場に土産処「里見茶屋」も。中腹には里見氏や安房の歴史を紹介する館山市立博物館がある。また、山頂の館山城では南総里見八犬伝に関する絵草紙、読本、錦絵などを展示、八犬伝博物館とも呼ばれる。共通観覧券は一般300円、小中高生150円。原則月曜休館。電話0470・23・5212.

【房日】140131*赤山地下壕を無料ガイド

赤山地下壕を無料ガイド

安房文化遺産フォーラム 毎月第1日曜日の午前中

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NPO法人安房文化遺産フォーラムによる、館山市指定史跡「赤山地下壕」の無料ガイドサービスが、観光客や市民らから好評だ。戦争遺跡として同市教委が2005年に史跡指定してからまもなく始めたもので、毎月第1日曜日の午前中、壕前に集まった人たちを案内している。

赤山地下壕跡は、全長1・6キロにも及ぶ全国的にも大きな防空壕。壕の建設に携わった旧海軍航空隊兵士の複数の証言から、敗戦色濃くなってきた1944年以降に建設工事が始まったことや、終戦の日(45年8月15日)まで工事が続けられ、未完成であることなどが明らかになっている。

同フォーラムによると、「館空」の機能を維持するための格納施設がつくられ、緊急の兵舎や医療施設として使用されていたという証言があり、地下壕内の形状から見て、基地の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫などの施設があったと考えられ、全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕であったと推察される。

この戦争遺跡を観光資源として活用しながら、多くの人に語り継いでいこう、と同フォーラムが、ガイドの練習も兼ねて少人数を対象に毎月第1日曜日に無料ガイドサービスをスタート。すでに10年近くを経過するが、ほとんど欠かさず継続。天候にもよるが、多い日には50人以上を案内することもあるという。2月2日が今度の無料ガイドの日で、「ぜひ利用してください」と同フォーラム。

予約不要で、豊津ホールで午前9時半から午前中いっぱい受け付けている。案内は無料だが、入壕料は、一般200円、高校生以下100円。