お知らせ

040702十市真喜子さま

一昨日は大変お世話になりました。有意義な一日を過ごせまして有難うございました。

中学生の皆さんとご一緒出来、とくにこういったことこそ

大勢の子供や若者に関心を持って貰いたいと思うのです。

世界に不穏な動きのある今ですから、なお過去を正しく知ることが大切ではないでしょうか。

戦中戦後の日本を見てきた者として強く思います。

神作様とフェスティバルを見に行きまして、原爆の怖さを改めて感じました。

決して忘れはいませんけれど、近頃日本人は関心が薄くなっているような気がします。

展示が人通りの多い場所で出来るといいですね。

今日は御礼と感想まで申します。有難うございました。お元気でご活躍を祈ります。

040617千葉県立岬高校の皆さま

NPOの大勢のガイドさんたち、鈴木さん、ホテルの酒井さん、松苗さん、愛沢伸雄先生ときちんとご挨拶もできずに失礼をいたしました。よろしくお伝え願えればと思います。

また今回の我々の校外学習を無事終えることができたのは、まさに池田さんのおかげと深く感謝しております。

岬高校は今日はいつも通りの平常授業でした。

各務先生の講演による事前学習、そして昨日の校外学習を終え生徒たちは何を感じとってくれたのか、この土曜・日曜で事後学習の感想文を書くことになっています。

事後学習のとりまとめが終わりましたら、ご報告いたします。

ホテルにておいしいさんが焼き定食をいただいているときに池田さんが、「地域に誇りを持てる若者を育て、それぞれの地域を学び、発信しあおう」というようなお話をされていたと思います。

今回戦争遺跡を学んだこの2年生に、今後の総合的な学習の時間を通して少しでもこんな気持ちを抱いてくれるよう我々教員も知恵を出し合っていきたいと思います。


ちょっと話が私事になりますが、私は勝浦の山奥に住んでおります。

明治12年生まれの私の曾祖父は陸軍軍医として日露戦争に従軍しました。

数年前に物置の掃除をしていたら100年ぶり?に当時のいろいろな資料が出てきたのですが、これがきっかけで各務先生よりいろいろと歴史に関するご指導をいただいております。

こんな山奥に生まれた曾祖父はなぜ軍医を目指したのか?こんなことを想像するだけでなんか胸がワクワクします。歴史のおもしろさってこんなところにあるのかなと感じてみたりもしています。


ちょっと話がそれましたが、おかげさまで今回は本当にいい校外学習ができました。 感謝感謝の気持ちでいっぱいです。今後とも機会がありましたらご指導よろしくお願いいたします。

(鈴木洋松先生)

040606高山直さま*市原市立東海小学校PTA

いろいろお世話していただき、有難うございました。御陰様で良い研修になりました。

この研修は以前は教育講演会の名のもとに講師を呼んで学校でやっていたのですが、

昨年PTA会長になってかたちを変えました。

この企画は、昨年実施するつもりだったのですが、ご存じのとおりできませんでした。

しかし、今年でよかったと思います。妻も森田会長も言っていましたが、

現地NPOの方々が説明してくれた御陰でよく理解できたし充実しようです。

本当に感謝いたします。私も直に見てみたいと思います。

家族と出かけていきますのでその時はまた、よろしくお願いします。

来年度以降も、このかたちで実施していくように引き継ぎます。

沢山の人に事実を伝える必要があると思うし、子供たちにも良い刺激だと思います。

【房日】040513=里見ガイド養成

里見史跡のガイド養成

講座の受講者募る

(房日新聞 2004.5.13.付)

   館山の稲村城跡を保存する会と、南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムは共催で、6月1日午前9時から、里石の史跡を開設するガイド養成講座を開く。

このところ、里見関連の史跡などを巡る観光客、学校が増えてきており、見学者に説明するガイド養成が急務となっていることから、講座を開くことになった。

 

当日は、館山の城山公園駐車場に集合。私立博物館で午前中、里見氏の歴史について講義を聴いたあと、城山公園内に残る城跡を見学。午後は同市稲の稲村城跡に会場を移し、各自がガイドとして開設しながら学ぶ。

 

講師は、高校教諭で里見氏の歴史に詳しい石崎和夫さんと、保存する会事務局長で中世の城郭を研究している島田輝弥さん。多くの参加を望んでいる。費用はテキスト代と保険料合わせて500円。

申し込み、問い合わせは石崎さんか島田さんへ。いずれも夜間のみ。

【赤旗】040328=“もの言わぬ証人”保存へ運動(戦跡)

◎“もの言わぬ証人” 保存へ運動〜戦跡

.

◇館山の地下要塞、来月から一般公開に

房総半島の南端、海に囲まれた千葉県館山市。花畑が広がり観光客でにぎわう姿からは想像できない数々の戦跡が残っています。この一部が、来月から一般公開されることになりました。

市内の戦跡は、館山海軍航空隊の基地など約五十カ所。房総半島南部は第一級東京湾要塞と呼ばれた軍都でした。房総半島は沖縄の次の地上戦の標的とされ、日本も「最後の抵抗拠点は房総」と本土決戦に備えました。「帝都防衛」の最重要拠点だったのです。

公開される戦跡の一つ、赤山地下要塞は、総延長約2キロの地下ごうです。司令部や医療施設、燃料基地、武器庫などが置かれた全国的にも類のない要塞です。壁には「USA」の印。米軍が調査した跡といわれています。日本降伏直後の1945年9月3日、米占領軍は館山の海岸から日本に上陸したのです。

.

◇6千人を案内

戦跡調査の第一人者、安房歴史教育者協議会の愛沢伸雄さんは、「軍事戦略をになった歴史的地域の館山を通じて、戦争や日本の歩みを知ることができる。とくに子どもたちに戦争を知ってほしい」といいます。

愛沢さんは10年以上にわたり戦跡を調査・研究し、六千人にのぼる見学者のガイドをつとめました。戦跡の保存を願う市民の声は高まり、95年には「戦後50年・平和の集い」実行委員会が結成され、昨年4月には「戦跡調査保存サークル」がつくられました。

昨年、戦跡を見学した中沢妙子さん(55)は、「戦争を肌で感じた。夫や友人にも話して、自分なりの平和行動をしたい。自衛隊はイラクに派兵されたが、たたかいはこれからだと思った」といいます。

日本共産党の神田守隆市議は、「私たちが十数年前から平和公園構想を示して論議し、ようやく実現したもので大変うれしい」といいます。「地下要塞の土地は登記簿面では多くが国有地だが、戦後、市に払い下げた事実を調査し、市にも確認させるなど議会で明らかにしてきました」

.

◇今も残る弾丸

戦闘機の機銃掃射の整備をした射撃場では、山肌に今も弾丸が突き刺さります。別の地下ごうには、「作戦指揮所昭和十九年竣工」の額。天井の龍のレリーフには「金銀の彩色がしてあった」という証言もあります。終戦間近の本土決戦抵抗拠点の姿です。

当時の住民は、防諜(ぼうちょう=スパイ防止)体制のもとで汽車の窓から景色を見ることさえ禁止されました。愛沢さんはいいます。

「花栽培農家は『非国民』とされ、花畑はサツマイモ畑に変えられました。抵抗する農民が命がけで種を守りました。二度とこんな戦争をしてはいけない」

(千葉県・浅野宝子記者)

.

しんぶん赤旗サイトはこちら。

【朝日】030217=館山の戦争遺跡で街づくり

○館山の戦争遺跡で街づくり

〜要塞など系統化、歴史公園都市に

…市調査委賀報告書作成し意欲

.

館山市内の戦争遺跡をまちづくりに活用しようと、学識経験者らをメンバーにつくられた市戦争遺跡調査研究委員会(委員長・田辺員人東京家政学院大学学長)が最終報告書の素案を了承した。年度内に報告書をまとめる。

市は、これらの戦争遺跡を平和学習や交流に生かした、地域まるごとのフィールド博物館「館山歴史公園都市」づくりを目指す。

東京湾の出入り口に位置する立地条件のため、館山は太平洋戦争中の本土防衛要塞など、近代戦争遺跡が多いことで知られる。市教委の調べでは、館山海軍航空隊関係17、洲ノ埼海軍航空隊関係6、館山海軍砲術学校6など計47ヵ所を数える。

しかし、戦後57年が過ぎ、記録などが風化している。同委員会は昨年7月に発足、これら遺跡の文化財指定を視野に、財団法人「地方自治研究機構」と協力して現地調査や関係者アンケートなども実施してきた。

「歴史公園都市」構想は、館山、洲ノ埼の両海軍航空隊、東京湾要塞、館山砲術学校の3地区を大きく遺跡群として系統化。それによって首都圏防塁の地、館山の歴史文化性を後世に伝えようとしている。

各遺跡の関係者を対象としたアンケートも225通が集まり、平和学習の素材などに生かされる。

田辺委員長は「館山の場合、広島や沖縄のような悲惨さはなかったが、明治、大正、昭和と3代にわたる戦術や戦略の変化をたどることができる。いろいろな立場から戦争を考える場になればよいと思う」と話している。

【朝日】021018=川村高校の平和学習

○戦争・平和考える機会に、地下要塞など東京の高校生が見学

〜館山で総合学習の一環

.

戦時中、首都防衛のため数々の軍事施設が置かれた館山市に17日、総合学習(平和学習)の一環として、東京都豊島区の川村高校(川村正澄校長)の1年生244人が訪れ、「赤山」地下要塞跡や、戦闘機を隠すための掩体壕などを見学した。

学習のテーマは「館山の戦跡から戦争の傷跡を見る」。同市内の戦争遺跡のことを知った担当教諭が、「戦争や平和について生徒たちが考えるきっかけにしたい」と市に問い合わせ、下見をしたうえで実現した。

市教委の調査では、市内の戦争遺跡は計41ヵ所。全国で5番目に開設された館山海軍航空隊の跡をはじめ、館山海軍砲術学校跡、戦闘指揮所壕などがある。

「赤山」要塞は東西300メートル、南北100メートルにわたり幾筋もの洞穴が掘られており、戦時中は指令部、武器庫、燃料基地などとして使われていた。

6台のバスに分乗して到着した生徒たちは、20人ずつのグループに分かれて要塞の中に入り、秋山恒雄さん(70)ら市民ボランティアの説明を受けた。懐中電灯を¥に照らされた内部は高さ、幅とも約3メートル。暗闇でメモもとりづらく、生徒たちは黙って説明に耳を傾けていた。

外に出た高校生は「要塞の中は空気が重く、ここだけが外界から取り残されているようだった」「館山は観光の街だと思っていたので、こんな遺跡があるのを知って驚いた」などと感想を語った。掩体壕では「戦闘機って、こんな所に隠せるんですか」の質問も出た。

生徒の一人は「戦争ではたくさんの人が死ぬ。そのむなしさ、戦争の無意味さが、今回の見学で分かったような気がする」と話していた。

【赤旗】020323=調査・保存に取り組む教師

館山市(千葉)は船中、軍事要塞化された
有事法制の危険、戦跡が告発
花作りは禁止、無数の地下壕

———————————————————————

千葉県房総半島の先端に位置する館山市は戦争中、「帝都防衛」の最重要拠点として軍事要さい化された地域です。その戦跡の発掘や保存、ガイドをライフワークとして取り組む高校教師の愛沢伸雄さん(50)=安房歴史教育者協議会世話人=は、「これらの戦跡は、有事法制の危険性を告発しています」と訪れる人たちに語っています。

———————————————————————

調査・保存にとりくむ教師・愛沢伸雄さん語る

海と花畑で知られる館山市。一方で、市内には館山海軍航空基地や砲術学校の各施設、砲台、水中・水上特攻基地、本土決戦に備えた地下ごうなど、無数の戦跡が残されています。

十年前から戦跡の調査や保存活動を生徒たちといっしょにすすめてきた愛沢さんは「最近、戦跡をめぐるツアーの希望も殺到しているんです」と笑います。三月十九日には、婦人民主クラブ(再建)東京協議会の女性約四十人が訪れました。

一行が訪れたのは、館山海軍航空基地跡に隣接する「赤山」地下航空要さい跡と、戦争末期に掘られた「一二八高地抵抗拠点地下ごう」。岩山に無数のトンネルを張り巡らせた赤山地下要さいは、司令部、武器庫などに使用されたといいます。

「館山海軍航空基地は中国爆撃を担った侵略の中心。地下ごうは本土決戦の拠点で、天皇や大本営を松代(長野県)に移すまでの“捨て石”だった場所です。降伏が数週間遅かったら、沖縄と同じ悲劇が起こったかもしれません」と、地下ごうのなかで解説する愛沢さん。参加者からも「身近な千葉に、こんなに大きな地下ごうがあるとは…」とため息がもれます。

こうした戦跡の実態が長い間埋もれてきたのには理由があります。要さい周辺は、憲兵や特高警察のきびしい監視下におかれました。また、住民が住民を監視する体制も築かれ、ものをいえない土地にしてしまったのです。「戦争の準備とはそういうものです。国民の目と口をふさぎ、総動員していく有事法制とまったく同じです」と愛沢さんは語ります。

戦争の犠牲は特産の花にもおよびました。全国でも有名な房総の花畑も、三八年の「国家総動員法」を受けて栽培が禁止されました。植えれば「非国民」。「取り締まりはきびしく、青年団が納屋を調べて歩いたそうです。しかし、抵抗する農民がひそかに山奥で栽培し、命がけで苗や種を現在に伝えたのです」

愛沢さんはいいました。「戦前の過ちを二度と繰り返してはいけません。有事法制を阻止するためには『知ること』が大切です。戦争のとき自分たちの地域がどうだったのか学ぶことで、地に足がついたたたかいができると思うのです」

参加した婦人民主クラブ(再建)の伊藤正子さん(86)は「私も夫を戦争で失うなど大変な思いをしてきた一人として、有事法制は絶対許せないという思いを強くしました。今日聞いた話を、ぜひ周囲の人に伝えたい」と語っていました。

 

(写真)館山海軍航空基地「赤山」地下要さい跡で婦人民主クラブ(再建)の人たちに説明する愛沢伸雄さん(中央)=19日、千葉県館山市

 

WEB記事はこちら