【日時】2005年6月18日(土) 受付9:30 入壕10:00
【集合場所】豊津ホール(当日名簿記入)
【参加費】無料 予約不要
※駐車場は、大黒屋脇からプール裏手のゲートボール場をご利用ください。
【資料展】「戦後60年」〜南房総の戦争遺跡からアジア太平洋戦争をみる
【主催】NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
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私たちが住む南房総・安房は東京湾の入り口ということで、古代より軍事戦略的に重要な役割を占めてきました。近現代をみると、1880(明治13)年から半世紀をかけて「東京湾要塞」を建設したものの、関東大震災で壊滅的な打撃をうけました。ところが大震災の数年後には要塞を復旧して、要塞地帯の一角には、全国で5番目の館山海軍航空隊を開隊しました。この「陸の空母」と呼ばれた館山基地は、最新鋭の艦上攻撃機や陸上攻撃機の開発・実験をはじめ、いわゆる中国大陸への「渡洋爆撃」やハワイ真珠湾攻撃などのパイロットたちの実戦訓練基地として重要な役割を担っていました。そのなかで当時赤山地下壕がどのように使用されていたかは今もって不明なままです。
戦争末期になると、「赤山」全体に迷路のような地下壕や巨大な燃料タンク基地を建設し、本土決戦への準備がされていった。先日、木更津市にご健在のM氏は、当時16歳で三重航空隊入隊後、特攻隊員に志願して水上特攻艇「震洋」の陸上訓練を受け、約200人とともに赤山地下壕へ送り込まれ、昭和20年7、8月の2月間、壕内で出撃命令のため待機をしていたという重要な証言をしました。
赤山地下壕は2004年4月に平和学習の拠点として一般公開され、1年間で全国から15,000人が訪れています。翌2005年1月には館山市指定文化財となりました。
アジア太平洋戦争の始まりから終わりまでの「生きた証言者」でもある戦争遺跡を調査・ガイドしているNPOの案内と、当時の赤山地下壕の様子を証言者から聞きながら、じっくり赤山地下壕を見学してみませんか。また隣接している豊津ホールにおいて、安房の戦争遺跡を紹介する「戦後60年」資料展も行ないます。どうぞご来場ください。

●脳裏に描く戦時の情景
〜千葉の高校生が館山の戦跡見学
(房日2005.5.31)
5月28日は大変お世話になり、ありがとうございました。
貴重なお話や「逆さ日本地図」は、本当にそのとおりですね。
今の日本の人たちは「戦争の事実」を殆ど知らされていません。
戦争をねじ曲げようとする力に負けないよう、
ひとりでも多くの方々にNPOの皆さんのお話や
「房総の戦跡」を見学してもらい真実を知ってほしい。
そしてこれを機会に一人でも多くの方々に
「憲法九条」の大切さを知ってもらいたいですね。
私達もNPOのお2人のお話を伝えていきたいと思います。
本当にありがとうございました。

そこに住むからこそ伝えられる
地域の魅力や歴史の重み
(サンケイリビング2005.5.21付)
校外学習大変お世話になりました。
天気や渋滞など全て良い方に恵まれ、帰りも1時間ほど早く無事に学校に到着することができました。
先週1週間は、館山校外学習のまとめとして、感想を書いたり、壁新聞を作ったり、
現像された写真をお互いに見せ合ったりと忙しい1週間でした。
生徒や、引率された先生方からも、充分な満足感と良い感想ばかり聞こえてきます。
担当としてもとても嬉しく感じています。生徒たちを指導してくださった皆様にもよろしくお伝え下さい。
【無人島コース】
・うみがめ先生やなまこ先生が質問することになんでもすぐ答えてくれていろいろなことを知ることが出来た。
・時間がゆったり過ぎていくような気がした。
・館山の海や山の自然がとてもきれいだった。
【干物作り】
・思っていたよりずっと楽しかった.
・(翌日)干物がとてもおいしかったとの感想でした。
・きれいに包装された、12匹もの鯵の干物のお土産はとても良かったです。
・(先生方からは、お土産を見てこのコースが一番良かったと羨ましがる声も多数有りました。(笑)
【戦跡めぐり】
・日本の歴史が少しわかったような気がした。
・あんなに大きな地下壕を短時間で手だけでほったのはすごいとおもった。
・せんそうのつらさや大変さが少しわかったような気がした。
・(一番地味な内容なので、生徒の声が心配でしたが、生徒なりに感動し平和学習が出来たようです。
・はじめに説明してくださった方の資料や話し方が、とてもわかりやすかったといっていました。
【砂山すべり】
・引率した先生は、体力には自信のある体育教師と、学年の中で若い男性教師だったのですが、「本当に疲れましたよ」と言って帰ってきました。けれども、さすが中学生、生徒からは、疲れたという声はなく、おもしろかった。楽しかったと言う声ばかりでした。
北条海岸での自由時間も、時間は短かったのですが、砂浜で遊んだり、ビーチバレーをしたり、足だけ海に入って楽しんだりと生徒には好評でした。
本当に良い校外学習を有難う御座いました。(五十嵐先生)
首都防衛館山の秘密基地
〜南房総の旧軍遺跡を調査、地域から戦争を見る

(日本経済新聞・文化欄 2005.5.11付)
NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
理事長:愛沢伸雄
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合唱組曲「ウミホタル」初演へ合唱団結成
70人参加し結団式 9月3日成果披露
(房日新聞 2005.4.12.)
館山湾のウミホタルと平和をテーマにつくられた合唱組曲「ウミホタル~コスモスブルーは平和の色~」の館山での初演を目指し9日、同市八幡のたてやま夕日海岸ホテルで、結団式と最初の合唱練習が行われた。
同組曲はウミホタルの神秘的な光と、戦時中に軍事用として採取された史実を知った東京都内に住む元教師の大門高子さんが作詞、ミュージカルなど数々の作曲を手掛けている名古屋市在住の藤村記一郎さんが作曲した。序章から第6章まであり、番外編もつくられ、9月3日に県南総文化ホールで初演のステージに立つ。
NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムの働きかけで元高校教師の船田正廣さんを委員長に初演実行委員会を組織し、一般から団員を募るなどして準備をすすめてきた。
この日の結団式には子供も含め約70人が参加。大門さんと藤村さんも訪れた。
結団式では、同フォーラムの愛沢伸雄理事長、船田実行委員長らがあいさつ。配られた楽譜を手に早速練習に入り、藤村さんらの指導でパートごとに分かれての練習などが午後4時ごろまで行われた。このあと、8月28日まで同ホテルや、文化ホールで13回にわたって練習する予定で、団員の参加もまだ受け付けるという。
戦跡めぐりの案内ありがとうございました。
「貴重な体験をし大変良かったと」いうのがみんなの感想でした。
参加者の富沢さんは足が悪かったですが、
友人(故人)が赤山地下壕で(通信の関係)働いていたことがあり、
ぜひ友人の供養も含め無理をして参加しました。
本人から足が悪いのに、案内役の鈴木さん(女性)に車に乗せていただき大変おせわになった。
また、袖ヶ浦高校の先生も参加しました。
こんど生徒を連れて平和学習に参加したいと連絡がありました。
また、そのときはよろしくお願いいたします。皆様のご活躍を期待します。
地震シンポジウムin 南房総
-地震・津波を乗り越えてきた過去から学ぶー
【日時】2005年3月27日(日)13:30〜16:30
【会場】城西国際大学・安房ラーニングセンター(鴨川市太海)
【参加費】無料 (資料代500円)
【内容】
房総半島は過去に何度も、地震・津波の被害をうけています。 昨年の新潟地震やスマトラ地震と津波はその過去のできごとを、一挙に現実化させました。新潟で何があったのか? バンダ・アチェの被害はどういうものなのか? 過去の津波の到達地点はどのあたりまでなのか? 産廃処分場は大丈夫なのか?現在の行政がもつハザードマップも踏まえ、この地で生きていくことの意味・リスクを考えます。
【話題提供】
(1)新潟中越地震・被災の様子:スライド(写真家 飯田裕子)
(2)バンダ・アチェからの津波被害報告(サーフショップOcean Zone 佐藤 明)
(3)安房の災害の歴史:(千葉県立安房博物館館長 天野努)
【パネルディスカッション】
○パネリスト
・天野努(安房博物館館長)
・高橋直樹(千葉県立中央博物館 上席研究員)
・上田真寿夫(SFJ、鴨川海づくり会議)
・愛沢伸雄(NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長)
○コーディネイタ-:池田恵美子(同・事務局長)
【主催】NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
【共催】千葉県立安房博物館、安房地域文化史研究会
「館山の戦争遺跡を訪ねて」・平和・交流・共生の地域づくり
四街道市ユネスコ協会主催による第4回研修旅行が、2005年3月17日、市のバスをお借りして会員と市民40名が南房総の館山市(51321人)を訪ねました。
この地は昭和5年(1930)から日本海軍の航空基地が置かれ、重要な根拠地として栄えました。それは陸軍最大の根拠地が、かつて四街道にあったことを思えば、今回の研修旅行はその重要な2点を結ぶ糸口になると思います。先ず県立安房博物館でNPO法人「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」理事長、千葉県立安房高校 教諭 愛沢伸雄氏の挨拶につづいて、館山の戦争遺跡に関する地図を示しながら、分かりやすく話してくださいました。
午後は小雨降る中、赤山地下壕跡をバスで訪れました。黄色いヘルメットを被りトンネルに入りました。内部は太陽光発電を利用した灯りがついています、我々が見学した地下壕トンネルは250メートルほどですが全体の長さは1,6キロメートルに及ぶほどです。壕内の床には発電機を取り付けた金具がのこっているだけです。でもそこで、戦時中に多くの兵士が飛行機の整備や病人の看護に当たっていたそうです。私たちはよくもこんな暗く狭い所で、空襲におびえながら働いていた兵士たちを気のどくになってきました。この地下壕は沖縄戦の犠牲になった、ひめゆり部隊の悲劇を描いた「ひめゆりの塔」という映画を撮影する際、その舞台になったそうです。それを聞いた時あらためて洞窟の暗い雰囲気に圧倒される思いでした。
そしてバスで少し移動してゼロ戦の機銃の試射場跡を見学しました、今でもその周囲から機銃弾が見つかるそうです。コンクリート製の壁にはいくつもの深い弾痕が残っていました。
畑のすみに蜂蜜の養殖箱が沢山ありました。そのつぎは昭和20年9月3日アメリカ陸軍の兵士3500名が上陸した海岸を訪れました。その場所はかつて海軍飛行艇の基地であった所とのことでした。60年たった今でもコンクリート製のゆるいスロープが残り、表面には濃い緑色の海草に覆われていました。上陸地から数キロ北方に見える大房岬の山なみが、アメリカ兵の背後に映っていたので上陸地点が特定できたのだと、愛沢先生が詳しく説明してくれました。本当に愛沢先生の努力には頭がさがります。先生は四街道の戦争遺跡を訪ねたそうです。
そこで陸の要塞都市である四街道の話におよびました。愛沢先生は是非四街道ユネスコと提携して戦争遺跡の調査を完成させたいそうです。四街道市ユネスコのみなさんのご協力を頂きたいと言っていました。私は今年終戦60周年に当たり今後益々館山市と協同して戦争遺跡の調査を、体験者が元気でいる今こそ、細かく調べていく必要があると痛感した次第です。
愛沢先生は定年を待たずに3月で退職、これからはNPO活動を通して、子どもたちに平和を伝える運動を進めていく覚悟であると話していました。その原動力はユネスコです。心の中に「平和のとりでを作ること」が第一に上げられます。学校に十分伝わっていないので、これからユネスコを一生懸命に勉強して、平和をどう作り上げていくか、1人ひとりが深く考え、先人の智恵を伝えていくことが重要であると思います。例えば花作りの人は花を守り、地域の今あるものを保存しよう。このことが今求められているのです。先生は力強く話されました。