1624年、館山の寺にハングルの石塔建立
朝鮮出兵で連行偉大な石工刻む?
(東京新聞 2006.06.23)

ハングル石塔が立つ大巌院の境内
千葉県館山市の古寺「浄土宗仏法山大巌院(だいがんいん)」に珍しい石塔がある。建立は江戸初期の一六二四(元和十)年で、四つの面を刻んでいるのは、日本の漢字、インドの梵字(ぼんじ)、中国の篆字(てんじ)、朝鮮半島のハングル。それぞれ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と名号(仏の名、尊号)を記しているが、韓国でこの時期に建てられた石塔や碑に、ハングルを刻んだ例はないというのだ。房総半島の突端の町に残る「ハングルの謎」とは…。
■韓国にも例ない
「寺を訪れた韓国の大学の先生に『これは国宝に値する』と言われたことがあります。私は詳しい歴史はよく知らないのですが」。石川龍雄住職の妻順子さんは笑う。
JR館山駅から南東に約1.8キロ。古くからの住宅や水田に囲まれた大巌院の境内にある「四面石塔」は、玄武岩質で一辺約50センチ、高さ約2.2メートルの重厚な姿だ。周囲には、水を張っておく石造りの「水向け」が四つある。石塔の南面は漢字、北面は梵字、西面は篆字、東面はハングルが刻まれている。
特定非営利活動法人(NPO法人)南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長で元県立高校教諭の愛沢伸雄さん(54)によると、こうした石塔は日本全国でも例はなく、これを模したとみられる石碑が同県富津市の松翁院に一つあるだけだ。
朝鮮半島では、石碑などには漢字を使う場合がほとんど。主に女性や子どもに使われた歴史のあるハングルを刻むことがあっても、「碑に触れるな」などの注意書きに限られるという。
国内外のどちらにしてもユニークな存在の石塔は、北面に漢字も添え書きされている。読み取れるのは「山村茂兵が生前供養の儀式をし、水向けを寄進した。元和十年三月十四日雄誉」との内容だ。
「水向けを寄進」とは石塔全体と解釈されており、「雄誉」は浄土宗の総本山・知恩院(京都)のトップに上り詰めた雄誉霊巌(おうよれいがん)上人(1554-1641年)を指す。大巌院も1603(慶長8)年に霊巌が創建した。石塔については、漢字の筆跡の特徴や添え書きの花押から、「山村茂兵」のために霊巌が筆を執ったとみて間違いなさそうだ。
では、石塔のハングルは何に由来するのか。そして、「山村茂兵」とはいったい何者-。
「石塔のハングルは、今とは違っています。『東国正韻』式という十五世紀半ばの表記にのっとっていて、中でも『仏説阿弥陀経諺解』という仏教本の書体に似ているのです」。『千葉のなかの朝鮮』(明石書店、千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会編著)の編集にかかわった県立千葉女子高教諭の石和田秀幸さん(49)が説明する。
豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-93年、1597-98年)は、朝鮮半島から連行された陶工や儒学者、印刷技術者らが、後の江戸文化の開花に大きな役割を果たしたとされる。石塔が建てられた1624年には、こうした人材も日本に溶け込んでいただろう。石和田さんは「日本に持ち込まれたハングルの仏教本を、石塔の見本にしたのかもしれない」という見方を示す。
また、「山村茂兵」についても、半島から連れてこられた石工だったというのが愛沢さんの考えだ。
石塔は「伊豆石」と呼ばれる貴重な石材で、江戸城の築城や江戸幕府が許可した建築事業以外には使用されなかった。2メートルを超える高さと水向けを持つこと、高僧の霊巌から生前供養の儀式を受けたことなども併せて考えると、山村茂兵が高い技術を日本に伝えた石工として尊敬されていたと推理できるという。「山村茂兵が日本人であれば、あえてハングルを刻む必要はないのではないか」と愛沢さんは話す。
館山市立博物館に残る「霊巌和尚伝記」には、朝鮮通信使が日光参詣の後、大巌院を訪れたとの記述はあっても、石塔や山村茂兵に触れた部分はなく、石塔の謎を解明するのは難しい。
1970年、韓国の大学院生が大巌院を訪れ、石塔のそばに現代ハングルで「南無阿弥陀仏」と記した碑を建てた。朝鮮出兵や終戦までの植民地支配など、日本と朝鮮半島は断絶の歴史を持つが、今では石塔のハングルが日韓両国の交流のシンボルになっている。
@(文と写真・出来田敬司)
梅雨の合間に見せる陽射しに初夏の眩しさを感じる今日この頃ですが、貴会皆様お元気でご活躍のこととお慶び申し上げます。
先日、私の所属しておる木更津市岩根公民館の活動サークル郷土史研究講座の移動研修で、館山市の戦跡見学に参加しました。
数々の戦争の傷跡をみて廻り、途中で出会った市内の小学生たちと丁度同年代にあの戦争体験を持つ一人として、非常に感慨深いものがらいました。
特に、見学コースにはなかったが、〝従軍慰安婦の碑〟とそのいわれについて、一入の感慨を深くしたのです。というには、私はいまの居住区にあるシャンソンの会に入っておりまして、そこで知ったのが、三輪明宏さんの唄のなかにある「祖国と女達」(従軍慰安婦の唄)です。
この歌詞とガイド誌にあった従軍慰安婦の告白が共通するところがあり、この唄の訴えるものを更に強く心に感じたのです。この機関紙「トレ・ビアン」7月号にこの文を紹介し、三輪さんの唄を歌いたいと思うのです。
戦争の持つ惨酷さの一面を、平和のなかで少しのんびりしすぎた日本人の心に訴えたい、平和の願いを…。僅か20〜30人位の人達の集いですが、機会を持ちたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
◆NPO事業報告会
◆戦跡調査保存サークル
◆里見ガイドのモニターツアー
報告=アワビ漁師の先祖の足跡をたずねてアメリカへ
報告=「八犬伝」紙芝居、完成
報告=ユネスコ平和の文化を築くセミナー
報告=旅のもてなしプロデューサー養成講座
昨日、後藤牧師とともに話を聞いた甲斐と申します。
現在、東京駅の近くの会社で経理をしており、会計の経験から将来、
日本と中央アジアとの間の若者の国際交流を進めるNGOを立ち上げようと考えています。
それはさておき、
館山と第2次世界大戦や従軍慰安婦問題との関係等貴重なお話をありがとうございました。
皆様のなさっている活動は、日本にとり非常に大切なことと思いました。
日本が二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、
戦争時代の貴重な事実を将来を担う若者に伝える働きを頑張ってください。
影ながら応援しています。
御国が来ますように
昨日は大変お世話になりました。
また、お忙しい中、貴重なご講演をしてくださり感謝します。
参加者が牧師ということでしたので、悲しい歴史の中でも、
キリスト者の先輩方が戦っておられたことを知り、大きな励ましを受けました。
これからも、戦争の悲惨さを忘れることなく、キリストの平和を語っていくように思わされました。
NPO法人 南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムのお働きはとても貴重なものだと思いました。
小沢さんや金久さんにもよろしくお伝えください。
これからの活動が支えられ、祝されるようにお祈りしています。
小平尚道牧師のご夫人との出会いも感謝でした。小平牧師の貴重な体験は、
広く皆さんに知っていただきたいと思っております。
千葉での展示会が実現するようにお祈りします。
天羽道子施設長のご講和は、とても感動的でした。
生涯のすべてを、かにた婦人の村にささげておられるお姿を拝見することができただけでも、感謝なことでした。
小さなお体で、あの急な坂を上って来られるお姿を忘れることができません。
毎日、上り下りしながら仕えておられるんですね。
これからも、イエスさまが天羽道子施設長を支えてくださるように祈らされました。
皆さんのお忙しい働きが守られますようにお祈りしています。
感謝しつつ
◆太平洋を渡ったアワビ漁師のふるさと千倉町千田をたずねて
◆
戦跡調査保存サークル(館山地区公民館)
◆NPOフォーラム会員総会のお知らせ
◇人形劇団「貝の火」主宰・伊東万里子さんの出演TV番組
◇ソプラノ歌手・本橋朋子さんのスプリングコンサート
◇第1回旅のもてなしプロデューサー養成講座
東京退職者の会連絡会主催、3月29〜30日の南房総戦跡めぐりの旅に参加し、大変お世話様になりました。
私は2004年6月に脳梗塞を患いました。
発病前まで、東京退職者の会連絡会の事務局長でしたが、
現在はその任務を退き、「九条の会・流山」など地元の活動を中心に切り替えましたが、
南房総の戦跡めぐりという今回の企画に惹かれ、単独でマイカーで現地入りし、杖歩行で参加しました。
30日の見学は、急な坂の上の現地見学ということで、スタッフの方の格別のご配慮により、
私のため、別途自家用車でご案内いただき、おかげ様で、
フォーラムの皆様の「平和と人権」を守ろうという情熱に深く触れることができ、大変感動しました。
とりわけ、従軍慰安婦の石碑や教会などに、改めて、無残な人権侵害にあわれた人々の無念な思い、
それを受けとめた方々、そうした事実を伝えて下さっている皆様の思いに、強く胸をうたれました。
また、機会があれば、館山を再訪し、皆様にお世話になることもあろうかと存じます。
29日の夕方、ホテル内の集会室で、「日本の青少年に夢が乏しいのはおとなの責任」と
愛沢理事長さんが情熱を込めて述べられた趣旨には、私もまったく同感です。
自分の住む郷土を愛し、地域の隅々から、世界全体を見渡し、平和と人権をすすめ、
人類文化をなお一層進化させていく壮大な夢を、私も描きたいと思いました。
私は昨年4月に、憲法改悪反対をテーマにホームページを開設、
この2月にその「日記」を「日記ブログ」に移行し、
地元・千葉県流山市を中心に、東京都や全国の多方面の皆様との交信を続けています。
この旅で感じた思いを別途、そこに掲載して、全国の皆様に伝えていきますので、ご笑覧下さい。
http://www.geocities.jp/yfqsx494/
今回は本当にありがとうございました。スタッフの皆様によろしくお伝え下さい。取り急ぎ御礼まで。
昨日は大変ありがとうございました。
いろんなお話がうかがえ、とてもよかったと言う声をいただきました。
また、事前にお話をきき、午後の見学が実り多いものとなった様です。
過去の戦争遺跡から、学び、現代に活かされ、
また、まちの遺産、文化、歴史を大切にされている
NPOの存在意義はおおきいなあと感激しました。
私自身は、里見の城跡、沖の島などいってみたいところがいっぱいです。
このようにリピーターがふえると町も活性化し、
館山市もうれしくなるかもしれませんね。
韓国の方(チェーさんでしたか)ともバスや見学会でお話できよかったです。
お会いでき、とてもラッキーな日でした。
ありがとうございました。ガイドさんにもよろしくお伝えください。
東金ユネスコ視察でお世話になりました
高橋美代子と申します。
戦争遺跡めぐりのHPを更新致しましたので
下記アドレスにてご覧頂ければ幸いです。
URL http://www11.plala.or.jp/miyotya/syuki37.htm
病気療養しながら風景画など描く
〜千倉のカフェ・ド・ヴォンで
(房日新聞2006.3.4付)

館山市に住む愛沢綾子さんの絵画展が、千倉町大川にあるギャラリー&カフェ「カフェ・ド・ヴォン」で始まった。自画像や風景画などの水彩画、パステル画15点を展示している。月曜日、第4土曜日を除き、31日まで催している。無料。
愛沢さんは館山市に生まれ育ち、安房高卒業後、日本女子大学に進学するが、病気療養のため退学。2年前に帰郷し、自宅療養をしながら絵画制作に励んでいる。
小さいころ絵を習っており、昨年、千倉町と富浦町を会場に開催された安房・平和のための美術展に出展した際、カフェ・ド・ヴォンのオーナーである青木裕子さんと知り合い、絵の具やスケッチブックをプレゼントされたのを機に、絵を描くことを再開。これまで自宅に引きこもりがちだったが、「自分の絵を見てくれる人がいるなら、ぜひ個展を開いてみたい」と、青木さんの勧めで初めての絵画展「こころもよう」を開くことになった。
作品は「BANANABANANA]「月光」「繚乱」「ざわめき」「千倉の海」「心もよう」などのタイトルが付けられた自画像、抽象画、風景画など15点。またポストカードもあり、それぞれ販売もしている。筆を使わず、手のひらや指先で描いた作品で、自身の思いが作品からも伝わる。
感性あふれる作品に、訪れた人たちは「これすばらしい作品ですね」と関心し、1点ずつ見入っていた。「指の感触が楽しく、絵を描くと心が落ち着きます。自分の心模様を見てもらえればうれしいです」と綾子さん。
綾子さんの良きアドバイザーで、運転手役も務める姉の彰子さんは「絵が妹の生きるきっかけになっています。自分ができることで社会とのつながりが持てるようになりました。病気でもこうして元気に生きていることを、多くの人に知ってもらえれば幸いです」と話していた。
展示に関してはカフェ・ド・ヴォンの青木さん(090-9369-6152)、問い合わせは愛沢彰子さん(0470-27-6350)へ。