■第6回里見ウォーキング
館山市内にある里見氏ゆかりの史跡や自然、戦跡をめぐるガイド解説つきのスタンプポイントラリー・ウォーキングです。コースは館山駅西口スタートし、安房博物館・北下台・國司神社・赤山地下壕・頼忠寺・掩体壕・ヒカリモ・沼サンゴ・古代珊瑚水の泉・十二天神社・妙音院・慈恩院・館山陣屋跡・ウバガミ様・八犬伝博物館・市立博物館・館山市街(まちかどミニ博物館)・館山駅東口ゴールの約12kmです。
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【日時】2006年10月8日(日)
スタート/ 受付9:00〜10:20 館山駅西口
【参加費】500円 (マップ資料、保険料、記念品代等を含む) 小雨決行
【主催】 里見ウォーキング実行委員会 里見氏稲村城跡を保存する会・NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
【後援】 館山市・館山市教育委員会
【問合せ】館山市観光協会 西口交流センター0470-22-2530)
懐かしの鉄道グッズずらり
市民の身近な交流拠点に
NPO法人が企画、呼びかけ
このたび私たちの研究合宿に際しては
戦跡ツアーガイド及び宿泊場所のご提供など
色々お世話になりありがとうございました。
一泊二日で研究発表あり、ツアーありと
盛りだくさんの合宿でしたが
昨日は愛沢先生や池田さんのお話を伺い
小沢さんの丁寧なガイドで効率よく
赤山防空壕やかにた婦人の村などを巡ることができました。
ツアー前の戦跡についてのお二人のレクチャーは
参加者の方々にとても好評でした。
また海ほたるを見せていただけたのも
思いがけなく印象深いことでした。
まずは取り急ぎお礼の気持ちを
メールにて送付させていただきます。
フォーラムに関わる方々のますますの
ご活躍を期待しております。
南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
館山市
南房総の歴史文化を守り地域の活性化に貢献
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「南房総には、大変重要であるにもかかわらず、これまであまり知られていなかった歴史文化の痕跡が多数残っています。これらを学ぶことは、私たちに郷土への誇りと愛着を与えてくれるのです」と語るのはNPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長の愛沢伸雄(あいざわのぶお)さん。
赤山地下壕をはじめとする戦争遺跡、『南総里見八犬伝』で知られる里見氏ゆかりの城跡や文化財、海洋交流の痕跡などの地域資源を調査研究し、年間200団体のガイド活動やシンポジウムの開催などで南房総の魅力を伝えています。
昔から、海路による外国との交流が行われ、また、東京湾の入口に位置することから首都防衛上の要衝であった南房総。地域の人々が主役となり、足元の歴史を見つめ直す活動を通してコミュニティーが再生され、また、地域資源を保存・活用することで多くの人が訪れる活気ある南房総を目指して活動しています。
■館山城跡無料ガイド
【日時】9月10日・24日、10月8日・22日(日)10:00〜12:00
【集合】城山公園駐車場広場のシンボルタワー前
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「館山」の地名の由来になっている城山は、戦国大名里見氏の居城跡として知られています。実際に里見氏がここに住んだのは、天正18(1590)年から25年ほどの間ですが、山麓からは、それ以前の室町時代のものである五輪塔や陶磁器も見つかっています。
江戸時代に入ってすぐに、里見忠義が伯耆国(鳥取県倉吉市)に移されると、館山藩は廃藩となり、館山城も取り壊されました。その後江戸時代の末に、旗本だった稲葉氏が新たに館山藩をたてて、この地に陣屋を築きます。第二次世界大戦中には高射砲陣地となったため、山頂が7m削られ周辺も破壊されましたが、近年、城山公園として整備されています。 (館山市立博物館ガイドマップより)
●済州島の大学教授視察
(房日新聞2006.8.30付)
..房総との歴史的関係に関心
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韓国・済州島にある国立済州大学の趙誠倫(チョウ・ソンユン)教授がこのほど、2日間にわたり安房地域に残る戦跡や、海女漁に従事した韓国人の墓地などを視察。朝鮮半島との歴史的な関係に強い関心を寄せた。
趙教授は、群馬で開かれた第10回戦争遺跡保存全国シンポジウムに出席のため来日。同大会に出席していた南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムの池田恵美子さんから安房の戦跡や、韓国関連の史跡の話を聞いて関心を持ち、大会終了後、急遽視察に訪れた。
安房地域とほぼ同じ面積の済州島は、太平洋戦争末期には7,8万人の日本軍兵士が配置され、軍事施設が構築されたという。趙教授は社会史が専門で、韓国政府からの委託を受け戦跡の調査研究を行なっている。
視察は同フォーラムの愛沢伸雄理事長らが案内。戦跡ほか、館山市の大厳院にあるハングルが刻まれた四面石塔、県立安房博物館、館山市立博物館などを視察した。
また、昭和初期に済州島から多くの女性らがやってきて、海女漁に従事した南房総市和田町で、地元のお年寄りから証言を聞いたほか、20数基の韓国人墓石のある鴨川市の長興院を訪れ焼香した。
視察を終えた趙教授は、「房総半島には、朝鮮半島との歴史的な関係が感じられる痕跡が多く驚いた。済州島から渡って来た海女については、戦争遺跡とともに日韓の共同研究を進めていきたい。交流の歴史を知ることは、相互理解と友好関係を深める契機となる」と話していた。
小高記念館オープニングイベント
「近代水産業の発展に貢献した人びと〜関澤明清と小高熹郎の足跡をたずねて」
里見ウォーキング
戦跡フィールドワーク
赤山無料ガイド
城山無料ガイド
合唱組曲『ウミホタル〜コスモブルーは平和の色』&田中星児コンサート
報告=韓国・済州島大学校の趙誠倫教授が視察来訪
報告=第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム群馬大会
報告=まちかどミニ博物館第1号館〜鉄道グッズ展〜オープン
先日は本当に有り難うございました。参加者一同全然知らなかったことで,とても印象深かったようで喜んでいました。 戦争の遺跡をきちんと残し伝えていくことが、だんだんときな臭くなっていく今の世の中だからこそ、とても大切な事だと思いました。戦争の遺跡は沖縄だけでなくこんなに身近なところにもあった、よく見回してにればもっと身近にもあるかも知れないと、つくづく考えました。 夕食前には「海ホタル」を見せて頂き感激し、翌日は野島崎、千倉。マザー牧場を回って帰りました。
今後も貴重なみなさんの運動が、ますます発展することを祈っています。
有り難うございました
先日は戦跡めぐりのガイドをありがとうございました。
特に最初の座学でのお話が大好評でした。
和田町の「ネイチャースクール」も体験農業の講師に、
大勢の農民に登場していただき運営しています。
これも和田と都会との橋渡しをしている都会のNPO
の強い提案によるものです。
しかしながら人前でのお話は、ある程度の技術が必要です。
その点、池田さんは内容も声の大きさも大変適正との
参加者からの評価です。
高齢者の方々のほとんどは、地域への強い想いがあるのですが、
実際に行動をするのは、小沢さんのようによそから来られた方が
比較的に熱心なのも和田も同様です。
皆さんも大変多忙の毎日であろうと思いますが、
ますますのご活躍振りをお祈りいたします。
まずはお礼まで。
「白浜民報」第984号-2006年8月20日発行
記録し伝えたい白浜での戦争
白浜民報ではこれまで、多くの方々のご協力を得て、白浜での戦争の記録をしてきました。このたび、白浜への米軍艦砲射撃の貴重な体験記を黒須さんから提供していただきましたのでお読みください。
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白浜の艦砲射撃
鴨川市 黒須禮子
●20年7月18日深夜
昭和20年7月18日の真夜中、私たちの村(白浜町)は艦砲射撃を浴び、23名の死傷者を出した。 その夜、ものすごい轟音と家がなぎ倒されるような衝撃に跳ね起き、裏の防空壕にとび込んだ。 とたん、防空壕の壁土がバラバラと崩れ落ちてきた。
駄目だ。
反射的に土手をかけあがり、「凄いよっ」と叫ぶ弟のあとから、横に張り出している梅の木の枝にとび乗った。 なぜかあたり一帯が明るく、野島崎灯台の左方向の水平線上にくっきりと黒い船が2隻並び、その周囲をまるで花火が炸裂する時のようにバチバチと火花が散り、ドカーン、ズズーン、ドカーン、ズズーンと体中に響く衝撃がきた。 父母、弟妹、隣の家の人もいたが、誰も声も出さない。 と、次の瞬間、忽然と船は水平線の向こうに消えていってしまった。 その間、長い長い時間に思えたが実際には数分間のできごとだった。
●島崎で死人が
翌朝、夜明けと共に村内は慌ただしくなり、大人達が走り回っていた。
「城山が禿げてるようっ」
「田がアナだらけだようっ」
「島崎で死人がでたってようっ」、
私達子どもも大人の合間を縫って駆け出した。屹立した城山の壁に砲弾が当たったらしく、山肌が茶色くむき出しになってしまっていた。 すぐ隣の山麓が私達の集落である。手元が1㍉狂えばこっちに来たところだ。田圃への道も灯台への道も既に縄が張られ、警防団の人達が警戒に当たっていた。張られた縄の遠くから覗くと、砲弾の穴は田圃一枚の大きさですり鉢型をしている。厚い鉈を何枚か重ねたような、両側が鋭くギザギザになった鉄板も積んである。城山から五、六百㍍離れた私の家でさえあの衝撃だったのだ。田圃のすぐそばのこの家の人達はどんなだったのか。
●潜水艦だというけど
砲撃が終わってすぐに勤めている農業組合に出かけた父が、お昼に帰ってきた。
「役場では潜水艦だというけど、潜水艦にそんな装備はないから巡洋艦か駆逐艦だろう」
と母に言っていた。
海軍に行っていた父は他の人より詳しかった。
「今の話しと城山の電波探知機のことは人に言うなよ」
と私達に言った。
城山の昔の間道といわれている鬱蒼と木の繁る急坂を、砲台や計器板を多勢でずり上げている兵隊さん達に、子どもたちみんなで芋井戸の水を汲んでいってあげたことがあったので、念を押したのだ。 当時は、軍のことなど知っていても言わないことが鉄則だった。
夜になると、また艦砲射撃があるのではと落ち着いて眠ることができない。
「島崎の人は山を越えて滝山(山の向こうの地区)へ逃げるってよ」という話が伝わってきた。うちでも山二つを越えた木背負田という山の北側の斜面に山小屋を作って、子どもを避難させることになった。
●山小屋で
「『興国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』について説明せよ」という女学校の国語の入試問題。試験の最中に空襲警報が発令され、待避する場面もありながらのこの四月に女学校に入学したばかり。このまま山小屋に行ってしまうと学校はどうなるのか。
「母ちゃん、学校はどうする?」
「こんな時学校なんか行ってられないんだよ。米軍が攻めてくるかも知れないんだから」
兄も姉も船橋の日本建鐵へ動員中。弟と妹たちの中で私が一番上。鍋、釜や身の回りのものをまとめて背負い、山へ登った。 若い時、大工の修行をしたことのある父は、古い鶏小屋のトタンを運び、立木を使って床の高い快適な小屋を作ってくれた。私と弟は谷川まで降りていって水を汲み・薪を集めておかゆ(高梁やムギを混ぜて)を作り、味噌汁を作るのが仕事だった。勿論、新聞もラジオもない、夜になっても灯火もない。昼間、空高くB29が飛んでいくほかは蝉とひぐらしの声だけである。
●安房中3年の生徒が
日中は里の畑に行っている母が、
「亡くなった人の中に安房中の生徒がいたってよ」
との情報を持ってきた。M君という三年生の男子生徒だった。蔵の二階で勉強していて直撃をされたとのこと。他に直撃された天井の梁に肉片が張り付いていたとも聞いた。あの砲弾の破片からも、当たれば人間の首も吹き飛ぶと思った。中学校も女学校も、四年生以上は工場に動員され三年生が最上級生。後ろに太い煙突をつけ、薪を燃やして走る故障の多い木炭バスが白浜から館山迄の唯一の交通機関。もう自転車も手に入りにくい時代。
M君たち三年生の男子五、六人が自転車通学。力がなくてあえぎながら頂上のトンネル迄の坂を登るバスは、自転車よりも遅かった。自転車通の男子生徒達は、時々そんなバスの窓に手をかけて一緒に走り、中の友達と歓談したりした。M君もその中の一人で、笑顔の明るい、前途有望な少年だったのだ。
●事実が陽の目を
それから1ヶ月もたたないうちに終戦。軍の機密だったせいか、昭和50年後半になっても「白浜の町史には載っていない」ということだった。
平成になって、安房南高の先生が米軍調査報告書の中からこの事実の記録を探し出し、初めて証拠のある事実として陽の目を見た。だが、今生存している民間人の中で、これを実際に見たものは私と弟の二人だけではないだろうか。
●白浜艦砲射撃の歴史的背景
愛沢伸雄先生が米軍の報告書によって明らかにされた事実。
射撃したのは潜水艦ではなく、アメリカ第3艦隊所属第38機動部隊内の巡洋艦4隻と駆逐艦9隻。16キロ沖合から夜間レーダーによって6インチ砲弾240発を、18日23時52分から同57分までの5分間、城山のレーダー基地めがけて発射した。レーダー基地には当たらず島崎村に37発が落ち、6人が死亡17人が負傷した。
●7月18日という日
7月16日:アメリカ、原子爆弾実験に成功。
7月17日:米・英・ソ3国首脳によるポツダム会談〜8月2日。
7月26日:米・英・ソ・中、ポツダム宣言発表、日本に無条件降伏か壊滅かの選択を迫る。
白浜を砲撃した艦隊は、14日には釜石、15日には北海道室蘭、17日には日立・水戸を砲撃し、多数の市民をも殺傷していた。空母15隻など95隻からなる第3艦隊は全土を空襲してまわった。目的は、日本の軍事力を破壊し国民の戦意を失わせ、ソ連の参戦以前にアメリカ軍による本土制圧を実現することにあった。白浜への艦砲射撃は、アメリカの単独占領⇒日米安保条約による日本の基地化とアジアでの緊張の存続という、現在につながる出来事であったと言えよう。