お知らせ

091218*観光リーダー養成事業(千葉県観光協会主催)

観光リーダー養成講座

※着地型観光の体験として、1時間のみ赤山を案内。

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*文化遺産・自然をガイドさんを通じて視察でき勉強になりました。色々な人と協力しあってプログラムができる事で大きな力になる実感が一つできました。

*史跡見学、説明が新たな発見でビックリした。赤山地下壕は戦争遺跡としての生々しさが残されていた。地元の文化遺跡も観光として生かされていけば、別の見方ができるかも知れない。

*売れる資産だと思います。30年以上千葉に住んでいて初めて知りました。しかし、やはり運営団体(保存管理)、人材あってのことと思いました。

*安房の方が知らないことは知らないとはっきり言っていただき、企業が運営しているような美術館、土産物店とは違ったよさを感じることができました。

*大変興味を持って聴くことができました。

*①軍施設が“観光資源”になり得ることに驚き、②史実を調査し案内マニュアル作成等の作業をしておられるボランティアに感動、③個人的にも大いに興味を持ちました。

*赤山海軍遺跡、初めて知りました。

*スタッフの方の情熱が感じられました。地下壕にも圧倒されました。

*戦時中のみならず地質学の話も聞けて面白かったです。観光といささか毛色が違う遺跡を楽しめるのはガイドの方の力が大きいと思います。

*施設は全く違いますが、現在市川市のボランティアガイド市川案内人の会と似たオペレーションであるなと思いました。但し、市川市では殆どが無料で実施されているのに較べ、両方ともおよそ同額の一人当たり2.5時間¥1,500が支払われるとか。料金に応じたスキルが発揮されえる事を願う。

*資源としての開発途上だと感じた。戦争の歴史遺産から学ぶもの多し。今後、歴史教育と観光的資源としての活用が期待できそう。

*かかとを痛めていたため、かばって歩いていたところ階段でひねってしまい歩行困難のため現地見学は休ませていただきました。残念です。

*見たいと思っていたので良かった。お客様へ案内したい。

*1つの箇所で複数のことが知れることが面白かった。また、史料を基にした想像での説明などもロマンがあって、ガイドがあるとないとでは、気持ちが違うことがわかった。

*何回か館山市には来ているのですが、沖ノ島・赤山とも初めてで、関わっているNPOの人達の熱い想いが感じられた。

*ご説明が丁寧でわかりやすかったです。

*保存しなければという雰囲気はわかった。

*初めて館山に来たので、こんな資源があったのかとびっくりしました。

*地域に存在する歴史遺産がある館山独自のプログラムだと思います。資料が焼却されてわからない点もあるようですが、もう少し深い解説があると良かったと思います。

*保存も含め、NPO法人安房文化遺産フォーラムの方たちの大変な苦労で今日に至ったと感じられました。

*全く知らなかった。しかし良いものであると思う。もっと多くの人に体験してもらうべきコンテンツ。

*社会教育としては有効だが、いわゆる観光面からいうと特にアトラクティブというには値しない。

*戦争の負の楳—自、防空壕の中を歩く体験、リピーターはあるのかなー、戦争の遺産を後世に伝えるか、他には利用方法はないのか。

*住みたいまちが訪れたいまち、大変参考になりました。

*まだ完全ではない形だが、向上していこうという気持ちがつたわってきて、とても温かみがあった。

*とても良かった。

*素晴らしい歴史遺跡だと思います。平和の尊さをガイドさんの説明で感じました。沖ノ島も先にいかに観光ガイドの大切さを実感しました。我が町もボランティガイドの育成に努力していきたいと思います。

*解説はもう少しじっくり聞いてみたかったです。

*館山にこんな大きな基地の跡があったのですね(大網の日立工場跡にも匹敵する規模とも)。参考になりました。

*学生団体にすすめると良いのかなと思いました。

*これまで何回か赤山ガイドを見学させて頂いていますが、ガイドさんにより紹介するものが違ったのが気になりました。

*防空壕のガイドの説明がわかり易かったです。

*良い資源とそれを愛する人々が見事に地域を活かしていました。

*そう少し説明がほしかったです。

*館山の歴史を感じることができました。

*歴史・文化を肌で感じ知ることができました。地元でも歴史・文化を調査し、自分も学び活かせていきます。そして赤山地下壕跡も自分なりに活かせるようがんばります。

*沖ノ島は説明も詳しくまた行ってみたいと思えるが、軍事施設は今回の主旨に合致しないように見えます(個人的に好きになれないかもしれませんが)。活動されていらっしゃった方々にはもう少し具体的で詳しい説明を期待したいですね。

*純粋に観光客として興味深く見させて頂きました。戦争遺跡としてもそうですが、キノコ研究遺跡としても興味深かったです。ツルハシの跡ひとつひとつに言葉にならない感慨を覚えました。

*非常に興味深い史跡でした。

*「地下壕」という普段、縁のない歴史遺産を見学でき、当時の様子が残されていることの素晴らしさを感じました。「地下壕」と一言で言ってもその仕組みに工夫された箇所が見られ、当時の人々の智恵が感じられました。

*初めて壕の中に入ったが、スケールが大きく想像以上だった。ガイドによる説明は良いが看板(解説)もあったら良いのでは。

*いずれも県内の活動体として有名でありプログラムとしての完成度が高く参考になりました。ただしいずれも短時間の駆け足だったので、着地型観光の実地体験のためのカリキュラムとしてはいずれかのプログラムに収れんしても良かったのではないでしょうか?

【TBS】091215*ドキュメント・ナウ(戦跡と元兵士の証言)

■ 2009年12月15日(火) 01:58〜02:28

TBS 『ドキュメント・ナウ』
「胸込み上げる関東の戦跡」

悲惨な体験をした人たちも年々少なくなっている。
だが、かつての基地や要塞の跡は、
意外にも、今でも生々しく残っている。
戦時中はどんな役割を果たしていたのだろうか。
そして、そこに関わった人たちは
今、どんな思いで見つめているのだろうか。
生き残った人びとの証言をもとに取材を始めてみた。

東京湾の入口に位置する千葉県館山市は、
戦時中、「東京湾要塞」の一角として、国防の重要拠点だった。
戦後から60年以上がたった今でも、その痕跡が残っている。

これは、1927年に竣工した洲崎第二砲台の跡である。
戦後爆破されたというが、円形の砲台の一部が残っている。

砲台から30mほど登ると、トンネルがあった。
これは弾薬などを貯蔵するための格納庫だったのだ。
トンネルの中には、2ヶ所に部屋のようなスペースが残っていた。

弾薬庫は、さらに砲台の下、今は民家の建っている山の中腹にもあった。
「砲台のね、弾薬庫という話だったんですよ。」
この家に住む佐野さんに、弾薬庫の中を見せてもらった。
もともとは土に埋もれていたのだが、
家を増築するために掘り返してみたところ、
この大きな弾薬庫が姿を現したのだという。
厚さ30cmはあろうかという頑丈な壁は、鉄筋コンクリート造り。
「対米英戦を考えて、こんなのを作っただっぺよ」

長い戦争の幕開けとなったのは、1931年に起きた満州事変だった。
関東軍はわずか5ヶ月で、満州全土を占領したという。
この衝突を境にして、日中戦争、太平洋戦争へと、
戦争はますます激化していくのである。

太平洋戦争が始まる半年前に、1941年6月、
館山には、陸上戦闘の実地訓練を主な目的とした館山海軍砲術学校が開校した。
そこでは、「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練がおこなわれていた。
今も残っているこの巨大なプールの跡は、
落下傘部隊の研究や訓練に使われていたという。
開戦の迫った1941年9月、
海軍は初の落下傘部隊を編成するため、全国から1,500人の精鋭を集めた。

その1,500人に選ばれ、かつて落下傘部隊として
ティモール島クーバンへの奇襲作戦に参加した秋山巌さんに話を聞いてみた。
「我々がいた落下傘部隊っていうのは、
いってみれば、殺人集団ですよ。

.割箸1本で人を殺すことまで教えましたから。
.簡単に死にますよ、人間。」

砲術学校では、機関銃や小型戦車などの操縦を学んだ。
そして、館山海軍航空隊で落下傘の基礎訓練を受けた後、
高度300mからの命がけの特訓に臨んだのである。
「そりゃ、怖いですよ。一番初めに降りるときは、
.へんな話、やっぱり、ちびっちゃいますよ。
.中には未練がましく、怖くて飛行機にしがみついて
.離さないわけですよ。でもむだですよ。ケツ蹴飛ばされて。
.あとから呼ばれて、さんざんバット食いますよ。
〝貴様、それでも軍人か〟ってね。」

訓練中には、落下傘が開かずに、
そのまま地上に落下してしまった隊員もいたという。

「開かないで、サーッと、落ちて行くんですわ。
.サーっと。そりゃ、即死ですわ。
.全然開かないで落ちて行くんですから。
.何回か、2回、見ましたよ。
.明日は俺か、なんていう、いやな予感がしますよ。」

およそ3ヶ月の訓練の後、ク—パンやサイパンなどへ出撃した。
1,500人の落下傘部隊のうち、生き残ったのは200人ほどだったという。

「こりゃ、勝てんと思ったよ。絶対勝てん。
.こんだけ船が沈められて、飛行機がなくなる。
.それで大本営はウソばっかり言う。
.だから、いい加減ポンポン打っておいて、逃げろ、と言ったんだよ。
.1機や2機落としたところで、戦局に影響しねえわい。」

1942年6月、ミッドウェイ島の攻略を目ざす日本軍をアメリカ軍が迎え撃った。
日本軍は、主力空母4隻を失い、大敗した。
この海戦を境にして、日米の攻防は逆転、戦況は悪化していくこととなる。
ミッドウェイ海戦の大敗から3ヶ月後の1942年9月、
海軍特別年少兵の第1期生が全国から集められた。
まだ、14、5歳の少年たちが戦争にかり出されたのだ。

館山市内で電気店を営む庄司兼次郎 (しょうじかねじろう)さんは、
その第1期生のひとりだった。
15歳で横須賀にある海兵団に入団し、新兵教育を受け、
その後、海軍コウキ学校で戦闘機の理論や
陸上戦闘の演習などをたたき込まれた。
追いかける班と逃げる班に分かれて全速力で走らされる追撃戦の特訓は、
地獄のような苦しみだったという。

「毎晩のように、バットの精神棒で殴られてました。
.船に乗せて行って、放り投げて、陸まで。
.中には溺れかけるのもいるんで、船がいて助けたり。
.それも、よくよくでないとね。」

庄司さんは、1944年6月、17歳のときフィリピンのダバオへ派兵された。

「餓死だとか栄養失調ですね、マラリア、デング熱、というような病気ですよね。
.実際の戦闘で亡くなった人より、そういう人のほうが多い。
.とにかく、戦争がない、ということが一番、でしょうね。
.戦争というのは、二度とやっちゃいけないと思う。」

アメリカ軍の空襲がはげしくなってきた1944年、都市部では学童疎開が始まっていた。
そして、本土決戦に備えて、女たちにも竹槍の訓練が始まったのである。
館山でも決戦に備えて、数多くの地下壕が掘られていた。
かつてあった館山海軍航空隊の基地のすぐ南側にある、
通称「赤山」には、総延長およそ2kmにおよぶ地下壕が今でも残っている。
資料がほとんど残っていないため、何に使われていたのか確かなことは分かっていない。
しかし数少ない地元の人たちの証言によると、1930年代の半ばから1940年代にかけてつくられ、
病院や発電所、兵器の貯蔵庫、さらには戦闘指揮所としての役割を果たしていたといわれている。
当時はどんな様子だったのだろう。地元の人に聞いてみた。

「こんにちは。ここの地下壕がつくられたときをご存知ですか。」

「ああ、知ってますよ。」

「どんな様子だったんですか。」

「そうだね。徴用者がずらっと立っててね。
.500人くらいもいたかしら。しかも日本人じゃないの。
.今は韓国っていうけど、全部掘った。
.ここの山は全部、山っていう山は、見える山は全部、防空壕掘ってある。」

館山の戦争遺跡の研究を続けている
NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表の愛沢伸雄さんは、
調査中におもしろいものを発見したという。
案内された場所は、小高い山の中腹。
戦争末期の1944年12月に完成したこの地下壕の一室には、珍しいものが残っていた。
小部屋の天井に、およそ3m四方の龍が掘られていた。
何を意味していたのかはまったく不明だ。

…千葉県銚子市、茨城県霞ケ浦へと番組は続く…

NPOだより№31〜2009.12.14

印刷は最下段の

添付ファイルから

↓↓↓↓

 

・画家青木繁ゆかりの小谷家、館山市の有形文化財に指定

・青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会

・Blog布良相浜の漁村日記

・あわがいどマップ②黒潮に生きるまち富崎

・知恵袋講座(荒屋敷孝・川崎一)

・軽トラ市in南房パラダイス

・稲川素子&佳奈子 講演とピアノコンサート

・戦争体験者の証言を聞く会(青木うめ・黒須禮子・佐野ふさ子)

・秋山巌 講演会&個展

・ウミホタル合唱団安房♪

・映画鑑賞会「サウンドオブミュージック」

・ガイド勉強会(岩井袋フィールドワーク)

・ツアーガイドのスケジュール

 

■詳細は、下段のPDFファイルからご参照ください。

【房日】091201*第3回戦国こすぷれ大会、立ち回りに拍手

(房日新聞2009.12.1付)

■手づくり甲冑の立ち回りに大きな拍手

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NPO法人安房文化遺産フォーラムが主催する「戦国こすぷれ大会」が29日、館山市の城山公園で行われた。武将や姫君、戦国アニメのキャラクターなどに扮した「戦国コスプレイヤー」約20人が首都圏や関西圏から集合。地元館山の「手作り甲冑隊」も合流し、同じ場所で開かれた「里見市民まつり」(産業まつり)に花を添えた。

大会のハイライトは、芝生広場での殺陣演技。館山で月2回剣術道場を開いている魂刀流志伎会(戸沼智貴代表)のメンバーが華麗な立ち回りや剣術を披露したほか、同会の「即席指導」を受けたコスプレイヤーや甲冑隊も立ち回りに挑戦し、観客から大きな拍手を受けた。

本格的なよろい、兜を身にまとった埼玉県越谷市の男性(42)は「先祖が里見氏の傍流の家系と親に言われており、家紋も里見と同じ。このイベントは市民とのふれ合いがあり、楽しい」と話していた。

【読売】091120*小谷家、館山市文化財に

【読売新聞】2009.11.20付

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名画「海の幸」舞台
小谷家が館山市文化財に

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明治の洋画家、青木繁(1882〜1911年)が明治37年(1904年)に滞在し、名作「海の幸」を制作した家として知られる館山市布良の小谷家が、市指定の有形文化財に指定された。

小谷家は寄せ棟造り桟瓦葺きで、広さは93平方メートル。漁業で栄えた明治中期の漁家として貴重であり、造りは分棟型民家の系統を引いている。屋根を桟瓦葺き、一部を大壁造りとした防火づくりにし、近代的間取りを取り入れているのが特徴。

小谷家は昨年7月、諮問を受けた市bん家財審議会が今年9月、市の有形文化財に指定するよう答申し、10月27日付で指定された。

建物所有者の小谷栄さん(85)は「地元の人たちやNPOの方たちが何度も足を運んでくれて、相談を重ねながら指定にこぎつけ、感謝している。昔ながらの建物の姿をできるだけ残していきたい」と話している。

また「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」の愛沢伸雄事務局長は「5年がかりでやっと文化財に指定された。地域の誇りとして次世代の子どもたちに夢と希望を与えるような保存と活用を、行政と連携しながら考えていきたい」と語る。

市は今年7月、海の幸の記念碑(1962年建立)のそばに絵画の解説モニュメントを設置した。記念碑は作品の舞台となった阿由戸の浜を望む小高い丘に立っている。今後は小谷家住宅を富崎地区の歴史・文化や観光資源と合わせてPRしていく考えだ。

【房日】091118*小谷家、市有形文化財に指定

館山市教委は、明治画壇の鬼才と謳われた青木繁が滞在して代表作「海の幸」制作にかかわった家として知られる同市布良の小谷家住宅を市の有形文化財に指定した。16日、石井達郎教育長が小谷家を訪れ、所有者で小谷家当主の小谷栄さん(85)に指定書が交付された。

小谷家住宅は、明治22年の大火後に建てられたと考えられ、漁業で栄えた布良に残る明治中期の上層漁家として貴重な存在。桁行6間、梁間が約5間の寄棟造り桟瓦葺で床面積は約93平方㍍。分棟型民家の系統をひき、一部を大壁造りの防火造りとし、伝統的な間取りを脱して近代的間取りの傾向を示している点が特徴的。明治37年夏には、青木繁が画友や恋人の福田たねと写生旅行に訪れ、当時、網元だった小谷家に2か月ほど滞在。青木はこの間、布良の海を題材に多くの作品を描いているが、帰京後に完成させたのが国重要文化財にも指定されている海の幸で、同家は「海の幸誕生の家」として歴史的な価値もある。

こうした経緯から地元でも存続への声が高まり、「青木が滞在した当時のままの姿で、建物を後世に残していきたい」と小谷さんからの申請を受け、文化財審議会の答申を経て、市教委が文化財指定を決定した。

「みなさんと相談を重ねながら指定にこぎつけることができ、たいへん感謝している」と指定書の交付を受けた小谷さん。また、地元有志やNPO、芸術家などで構成する保存する会事務局長の愛沢伸雄さんは「地元や全国の方々の思いが文化財指定につながったと思います。会としても、小谷さんの思いを大切にしながら、地域の誇りとして次世代の子どもたちに夢と希望を与えるような保存と活用を考えていきたい」と話している。

 

房日新聞2009.11.18付