お知らせ

【房日】100107*長沼守敬の旧宅調査

(房日新聞2010.1.7付)

日本洋風彫刻の祖・長沼守敬
館山に残る旧宅を調査
大阪芸大の石井教授、
つえ・定規など見つかる

大阪芸術大学の石井元章教授(イタリア美術史)が5日、日本初の洋風彫刻家・長沼守敬(ながぬま・もりよし、1857—1942)が晩年を過ごした館山市館山の旧宅を訪れ、同市のNPO法人・安房文化遺産フォーラムのメンバーとともに長らく無人となっている内部を調査した。

一行は、長沼本人のものと思われるつえやT定規、フランス・パリの絵柄があるファイルの表紙などを発見した。石井教授は「ファイルは、パリ万博の書類をはさむものだったかもしれない。詳しく調べるとともに、今後は納屋などにも調査を広げてみたい」と話した。

長沼守敬は一関市出身。明治初期に東京のイタリア公使館に職を得て、ベネチア王室美術学校に留学して正統的な洋風彫塑技法を習得。帰国後は東京美術学校(現・東京芸術大)の初代塑造科教授となり、ベルツ博士像など数々の胸像・彫刻を手がけた。

1914年(大正3)57歳で突然美術界を去り、館山に居を移して隠遁。彫刻制作はほとんどせず、のんびりと生涯を過ごした。

関東大震災でも倒壊しなかったという木造平屋建ての旧宅は、ここ30年ほどは無人で荒れ果てたまま。親族から同フォーラムが管理を委託され、保存・活用方法を模索している。

今回の調査は、同フォーラムの愛沢伸雄代表が以前、内部で一片の紙を発見したのが発端。石井教授によると、長沼が1891年に洋行した際の日誌を記したメモで、現存する日誌の欠落を埋める内容だったという。

石井教授は明治期の日本とイタリアの文化交流を研究する過程で、1897年の第2回ベネチア・ビエンナーレに日本の美術品が初出品された際に現地で立ち会った長沼に着目。その生涯の解明に挑んでいる。

「非常に古い家なのに床がきしんだりすることもなく、頑丈で驚いた」と石井教授。今回は、内部にある品物を数十点にわたり持ち出し、学術的に価値があるかどうかの確認作業を進めるという。

【写真説明】パリの絵柄のあるファイルを持つ石井元章・大阪芸大教授

【写真説明】長沼守敬の旧宅=館山市館山

1/23=版画家・秋山巌(元落下傘兵)トークショー

■版画家・秋山巌トークショー■

…館山の空を飛んだ海軍落下傘兵から、山頭火を描く版画家へ…

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※印刷用チラシは添付PDFファイルをご参照ください。

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【日時】2010年1月23日(土)

【開場】18:30

【開演】19:00

【会場】南総文化ホール

【入場料】500円

【チケット取扱】

・南総文化ホール・宮沢書店・Books松田屋・小高記念館

【主催】

NPO法人安房文化遺産フォーラム

秋山巌の小さな美術館ギャラリー馬美

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【プロフィール】あきやまいわお

1921(大正10)年生まれ。大分県竹田市出身。

千葉県松戸市在住。日本美術家連盟会員。

1941(昭和16)年落下傘部隊員として館山海軍航空隊で訓練の後、

横須賀鎮守府第三特別陸戦隊としてティモール島クーバンに降下。ラバウルで終戦。

1953(昭和28)年太平洋美術学校卒業。棟方志功、坂本繁二郎、布施梯次郎に師事。

独学にて民族学・仏教学・俳詩・陶芸・彫刻・水墨画を学び、俳人種田山頭火の世界を描く。

著書・画集:『木版画入門』『山頭火の世界』『化けものを観た』『日めくり山頭火』等多数。

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■秋山巌・木版画展

【会期】2010年1月19日(火)〜25日(月)10:00〜16:00

【会場】大巌院ギャラリー(館山市大網398)

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房日新聞記事はコチラ

【房日】091222*版画家・秋山巌氏が作品展とトークショー

◎版画家・秋山巌氏が作品展、1月にトークショーも
…落下傘部隊・棟方志功の弟子・山頭火の世界…

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種田山頭火の俳句やフクロウなどの動物、民話を主な題材とし、作品がロンドンの大英博物館にも所蔵されている版画家・秋山巌氏(88)=松戸市在住=の作品展とトークショーが、館山市で1月に開かれることになった。

秋山氏は昭和16年(1941)、海軍落下傘部隊の隊員として館山海軍航空隊で3か月間の訓練を受け、太平洋戦争開戦時の作戦に参加した。これまで戦争体験を外部に話すことはなかったが、TBSテレビのドキュメンタリー番組の取材を受け、当時の模様を証言したことをきっかけに「思い出の地」館山での作品展開催を決めたという。

2つの企画を進めている館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長は「戦中戦後を通し、落下傘兵から版画家として生きた秋山先生の生きざまは、閉塞した現代社会に生きる私たちにも、大きな気づきと勇気がもらえる気がします。1人でも多くのと分かち合い、まちづくりのヒントにしたい」と話している。

秋山氏は大分県竹田市出身。開戦時は横須賀鎮守府第三陸戦隊としてティモール島のクパン(現・インドネシア)に落下傘で降下。さまざまな作戦に参加し、ラバウルで終戦を迎えた。

戦後は美術の道に進み、棟方志功や坂本繁二郎に師事。独学で民族学、仏教学、俳詩、水墨画などを学び、山頭火の世界を描いてきた。

作品展開催を決めた秋山氏は14日から3日間にわたり、65年ぶりに館山を訪問。安房神社にある「落下傘部隊戦没者慰霊碑」を参拝した。

同部隊の総勢1,500人のうち、生きて終戦を迎えたのはわずか200人だったという。関係者は「戦争体験を語ったことで若い日の思い出がよみがえり、館山へ行きたいとの思いが強くなったようだ」と話した。

作品展は1月19日から25日まで、同市の大巌院で。入場無料で、木版画約30点が展示される予定。トークショーは1月23日午後7時から南総文化ホール小ホールで。入場料500円。チケットは同ホール、宮沢書店、松田屋などで今週末ごろから発売される。

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(房日新聞2009.12.22) …催しの詳細はコチラ

【房日】091220*戦争体験語る会〜館山地区公民館

■館山地区公民館、戦争体験語る会

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館山市の館山地区公民館は1月15日午後、同館の主催行事として「米占領軍館山上陸フィルム上映と戦争体験を語る会」を開く。

1時から、NPO法人安房文化遺産フォーラムが入手した終戦直後(昭和20年9月3日)の記録フィルムを上映。2時からは、太平洋戦争時に学生だった3人の女性が自らの体験を語る。

資料代100円。参加者は同公民館(月・水・金曜の午前9時-午後4時、電話23-2482)への申し込みが必要。先着で定員40人。

証言者と内代うは次のとおり。

▽青木うめさん(同市上真倉)「『日本建鉄』(船橋)への学徒動員」
▽黒須禮子さん(鴨川市大里)「白浜の艦砲射撃」
▽佐野ふさ子さん(館山市波左間)「国民学校のころ戦争があった」

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(房日新聞2009.12.20)

091218*観光リーダー養成事業(千葉県観光協会主催)

観光リーダー養成講座

※着地型観光の体験として、1時間のみ赤山を案内。

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*文化遺産・自然をガイドさんを通じて視察でき勉強になりました。色々な人と協力しあってプログラムができる事で大きな力になる実感が一つできました。

*史跡見学、説明が新たな発見でビックリした。赤山地下壕は戦争遺跡としての生々しさが残されていた。地元の文化遺跡も観光として生かされていけば、別の見方ができるかも知れない。

*売れる資産だと思います。30年以上千葉に住んでいて初めて知りました。しかし、やはり運営団体(保存管理)、人材あってのことと思いました。

*安房の方が知らないことは知らないとはっきり言っていただき、企業が運営しているような美術館、土産物店とは違ったよさを感じることができました。

*大変興味を持って聴くことができました。

*①軍施設が“観光資源”になり得ることに驚き、②史実を調査し案内マニュアル作成等の作業をしておられるボランティアに感動、③個人的にも大いに興味を持ちました。

*赤山海軍遺跡、初めて知りました。

*スタッフの方の情熱が感じられました。地下壕にも圧倒されました。

*戦時中のみならず地質学の話も聞けて面白かったです。観光といささか毛色が違う遺跡を楽しめるのはガイドの方の力が大きいと思います。

*施設は全く違いますが、現在市川市のボランティアガイド市川案内人の会と似たオペレーションであるなと思いました。但し、市川市では殆どが無料で実施されているのに較べ、両方ともおよそ同額の一人当たり2.5時間¥1,500が支払われるとか。料金に応じたスキルが発揮されえる事を願う。

*資源としての開発途上だと感じた。戦争の歴史遺産から学ぶもの多し。今後、歴史教育と観光的資源としての活用が期待できそう。

*かかとを痛めていたため、かばって歩いていたところ階段でひねってしまい歩行困難のため現地見学は休ませていただきました。残念です。

*見たいと思っていたので良かった。お客様へ案内したい。

*1つの箇所で複数のことが知れることが面白かった。また、史料を基にした想像での説明などもロマンがあって、ガイドがあるとないとでは、気持ちが違うことがわかった。

*何回か館山市には来ているのですが、沖ノ島・赤山とも初めてで、関わっているNPOの人達の熱い想いが感じられた。

*ご説明が丁寧でわかりやすかったです。

*保存しなければという雰囲気はわかった。

*初めて館山に来たので、こんな資源があったのかとびっくりしました。

*地域に存在する歴史遺産がある館山独自のプログラムだと思います。資料が焼却されてわからない点もあるようですが、もう少し深い解説があると良かったと思います。

*保存も含め、NPO法人安房文化遺産フォーラムの方たちの大変な苦労で今日に至ったと感じられました。

*全く知らなかった。しかし良いものであると思う。もっと多くの人に体験してもらうべきコンテンツ。

*社会教育としては有効だが、いわゆる観光面からいうと特にアトラクティブというには値しない。

*戦争の負の楳—自、防空壕の中を歩く体験、リピーターはあるのかなー、戦争の遺産を後世に伝えるか、他には利用方法はないのか。

*住みたいまちが訪れたいまち、大変参考になりました。

*まだ完全ではない形だが、向上していこうという気持ちがつたわってきて、とても温かみがあった。

*とても良かった。

*素晴らしい歴史遺跡だと思います。平和の尊さをガイドさんの説明で感じました。沖ノ島も先にいかに観光ガイドの大切さを実感しました。我が町もボランティガイドの育成に努力していきたいと思います。

*解説はもう少しじっくり聞いてみたかったです。

*館山にこんな大きな基地の跡があったのですね(大網の日立工場跡にも匹敵する規模とも)。参考になりました。

*学生団体にすすめると良いのかなと思いました。

*これまで何回か赤山ガイドを見学させて頂いていますが、ガイドさんにより紹介するものが違ったのが気になりました。

*防空壕のガイドの説明がわかり易かったです。

*良い資源とそれを愛する人々が見事に地域を活かしていました。

*そう少し説明がほしかったです。

*館山の歴史を感じることができました。

*歴史・文化を肌で感じ知ることができました。地元でも歴史・文化を調査し、自分も学び活かせていきます。そして赤山地下壕跡も自分なりに活かせるようがんばります。

*沖ノ島は説明も詳しくまた行ってみたいと思えるが、軍事施設は今回の主旨に合致しないように見えます(個人的に好きになれないかもしれませんが)。活動されていらっしゃった方々にはもう少し具体的で詳しい説明を期待したいですね。

*純粋に観光客として興味深く見させて頂きました。戦争遺跡としてもそうですが、キノコ研究遺跡としても興味深かったです。ツルハシの跡ひとつひとつに言葉にならない感慨を覚えました。

*非常に興味深い史跡でした。

*「地下壕」という普段、縁のない歴史遺産を見学でき、当時の様子が残されていることの素晴らしさを感じました。「地下壕」と一言で言ってもその仕組みに工夫された箇所が見られ、当時の人々の智恵が感じられました。

*初めて壕の中に入ったが、スケールが大きく想像以上だった。ガイドによる説明は良いが看板(解説)もあったら良いのでは。

*いずれも県内の活動体として有名でありプログラムとしての完成度が高く参考になりました。ただしいずれも短時間の駆け足だったので、着地型観光の実地体験のためのカリキュラムとしてはいずれかのプログラムに収れんしても良かったのではないでしょうか?

【TBS】091215*ドキュメント・ナウ(戦跡と元兵士の証言)

■ 2009年12月15日(火) 01:58〜02:28

TBS 『ドキュメント・ナウ』
「胸込み上げる関東の戦跡」

悲惨な体験をした人たちも年々少なくなっている。
だが、かつての基地や要塞の跡は、
意外にも、今でも生々しく残っている。
戦時中はどんな役割を果たしていたのだろうか。
そして、そこに関わった人たちは
今、どんな思いで見つめているのだろうか。
生き残った人びとの証言をもとに取材を始めてみた。

東京湾の入口に位置する千葉県館山市は、
戦時中、「東京湾要塞」の一角として、国防の重要拠点だった。
戦後から60年以上がたった今でも、その痕跡が残っている。

これは、1927年に竣工した洲崎第二砲台の跡である。
戦後爆破されたというが、円形の砲台の一部が残っている。

砲台から30mほど登ると、トンネルがあった。
これは弾薬などを貯蔵するための格納庫だったのだ。
トンネルの中には、2ヶ所に部屋のようなスペースが残っていた。

弾薬庫は、さらに砲台の下、今は民家の建っている山の中腹にもあった。
「砲台のね、弾薬庫という話だったんですよ。」
この家に住む佐野さんに、弾薬庫の中を見せてもらった。
もともとは土に埋もれていたのだが、
家を増築するために掘り返してみたところ、
この大きな弾薬庫が姿を現したのだという。
厚さ30cmはあろうかという頑丈な壁は、鉄筋コンクリート造り。
「対米英戦を考えて、こんなのを作っただっぺよ」

長い戦争の幕開けとなったのは、1931年に起きた満州事変だった。
関東軍はわずか5ヶ月で、満州全土を占領したという。
この衝突を境にして、日中戦争、太平洋戦争へと、
戦争はますます激化していくのである。

太平洋戦争が始まる半年前に、1941年6月、
館山には、陸上戦闘の実地訓練を主な目的とした館山海軍砲術学校が開校した。
そこでは、「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練がおこなわれていた。
今も残っているこの巨大なプールの跡は、
落下傘部隊の研究や訓練に使われていたという。
開戦の迫った1941年9月、
海軍は初の落下傘部隊を編成するため、全国から1,500人の精鋭を集めた。

その1,500人に選ばれ、かつて落下傘部隊として
ティモール島クーバンへの奇襲作戦に参加した秋山巌さんに話を聞いてみた。
「我々がいた落下傘部隊っていうのは、
いってみれば、殺人集団ですよ。

.割箸1本で人を殺すことまで教えましたから。
.簡単に死にますよ、人間。」

砲術学校では、機関銃や小型戦車などの操縦を学んだ。
そして、館山海軍航空隊で落下傘の基礎訓練を受けた後、
高度300mからの命がけの特訓に臨んだのである。
「そりゃ、怖いですよ。一番初めに降りるときは、
.へんな話、やっぱり、ちびっちゃいますよ。
.中には未練がましく、怖くて飛行機にしがみついて
.離さないわけですよ。でもむだですよ。ケツ蹴飛ばされて。
.あとから呼ばれて、さんざんバット食いますよ。
〝貴様、それでも軍人か〟ってね。」

訓練中には、落下傘が開かずに、
そのまま地上に落下してしまった隊員もいたという。

「開かないで、サーッと、落ちて行くんですわ。
.サーっと。そりゃ、即死ですわ。
.全然開かないで落ちて行くんですから。
.何回か、2回、見ましたよ。
.明日は俺か、なんていう、いやな予感がしますよ。」

およそ3ヶ月の訓練の後、ク—パンやサイパンなどへ出撃した。
1,500人の落下傘部隊のうち、生き残ったのは200人ほどだったという。

「こりゃ、勝てんと思ったよ。絶対勝てん。
.こんだけ船が沈められて、飛行機がなくなる。
.それで大本営はウソばっかり言う。
.だから、いい加減ポンポン打っておいて、逃げろ、と言ったんだよ。
.1機や2機落としたところで、戦局に影響しねえわい。」

1942年6月、ミッドウェイ島の攻略を目ざす日本軍をアメリカ軍が迎え撃った。
日本軍は、主力空母4隻を失い、大敗した。
この海戦を境にして、日米の攻防は逆転、戦況は悪化していくこととなる。
ミッドウェイ海戦の大敗から3ヶ月後の1942年9月、
海軍特別年少兵の第1期生が全国から集められた。
まだ、14、5歳の少年たちが戦争にかり出されたのだ。

館山市内で電気店を営む庄司兼次郎 (しょうじかねじろう)さんは、
その第1期生のひとりだった。
15歳で横須賀にある海兵団に入団し、新兵教育を受け、
その後、海軍コウキ学校で戦闘機の理論や
陸上戦闘の演習などをたたき込まれた。
追いかける班と逃げる班に分かれて全速力で走らされる追撃戦の特訓は、
地獄のような苦しみだったという。

「毎晩のように、バットの精神棒で殴られてました。
.船に乗せて行って、放り投げて、陸まで。
.中には溺れかけるのもいるんで、船がいて助けたり。
.それも、よくよくでないとね。」

庄司さんは、1944年6月、17歳のときフィリピンのダバオへ派兵された。

「餓死だとか栄養失調ですね、マラリア、デング熱、というような病気ですよね。
.実際の戦闘で亡くなった人より、そういう人のほうが多い。
.とにかく、戦争がない、ということが一番、でしょうね。
.戦争というのは、二度とやっちゃいけないと思う。」

アメリカ軍の空襲がはげしくなってきた1944年、都市部では学童疎開が始まっていた。
そして、本土決戦に備えて、女たちにも竹槍の訓練が始まったのである。
館山でも決戦に備えて、数多くの地下壕が掘られていた。
かつてあった館山海軍航空隊の基地のすぐ南側にある、
通称「赤山」には、総延長およそ2kmにおよぶ地下壕が今でも残っている。
資料がほとんど残っていないため、何に使われていたのか確かなことは分かっていない。
しかし数少ない地元の人たちの証言によると、1930年代の半ばから1940年代にかけてつくられ、
病院や発電所、兵器の貯蔵庫、さらには戦闘指揮所としての役割を果たしていたといわれている。
当時はどんな様子だったのだろう。地元の人に聞いてみた。

「こんにちは。ここの地下壕がつくられたときをご存知ですか。」

「ああ、知ってますよ。」

「どんな様子だったんですか。」

「そうだね。徴用者がずらっと立っててね。
.500人くらいもいたかしら。しかも日本人じゃないの。
.今は韓国っていうけど、全部掘った。
.ここの山は全部、山っていう山は、見える山は全部、防空壕掘ってある。」

館山の戦争遺跡の研究を続けている
NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表の愛沢伸雄さんは、
調査中におもしろいものを発見したという。
案内された場所は、小高い山の中腹。
戦争末期の1944年12月に完成したこの地下壕の一室には、珍しいものが残っていた。
小部屋の天井に、およそ3m四方の龍が掘られていた。
何を意味していたのかはまったく不明だ。

…千葉県銚子市、茨城県霞ケ浦へと番組は続く…