地域教材と平和学習②〜「4日間」の直接軍政が敷かれた館山
●「4日間」の直接軍政が敷かれた館山●
(愛沢伸雄・講演資料「足元から世界をみる—安房の歴史からさぐる」2004年)
【1. 戦後日本のスタートの地「館山」】
東京湾口に位置する館山は、軍事戦略上で重要であったので、アメリカ軍は本土決戦の上陸地点としてだけでなく、敗戦後の首都占領にむけての上陸地点とした。アメリカ政府は、アメリカ占領軍が「直接軍政」を敷いた沖縄を除いて、日本本土ではポツダム宣言にそって日本政府を通じた間接的な占領行政を指示していた。
しかし敗戦直後、アメリカ占領軍が最初に上陸した館山において「4日間」ではあるが、日本本土で唯一の「直接軍政」を指示したといわれる。なぜ館山がそのような事態になったかを当時の状況から振り返ってみる。
1945(昭和20)年8月14日、御前会議ではポツダム宣言を無条件で受諾することを決定した。翌日午前中、正午には「戦争終結の詔勅」が発布されたが、館山の街頭では、陸軍の軍人が血気盛んに「国民よ総決起せよ」と檄をとばしていたといわれる。16日には、飛行機から「終戦は敵の謀略だ。我々は断固として最後まで戦う」というビラを館山の町に撒いたものもいたという。大本営は、連合軍に武器をもって立ち向かうことのないよう陸海軍人に天皇の命令を出したが、17日には一部将校たちがクーデター計画を実行し、結局は失敗に終わっている。
19日に連合軍総司令部の指示で降伏使節団がマニラのマッカーサーのもとへ派遣され、8月31日までにアメリカ占領軍との折衝窓口となる「中央機関」を設置することが命じられた。22日、大本営は千葉市と市原郡鶴舞町から、安房郡天津町を結ぶ線より西側の東京湾岸地域に駐屯していた日本陸海軍武装部隊に対して、27日の午後6時まで湾岸地域外に速やかに移動することを命令した。アメリカ軍も戦闘機を日本本土に一斉出動させ、超低空飛行で威圧し、住民に対しては千葉県当局がアメリカ軍の占領にともなって、県民に平静さをもとめるチラシをつくって配布している。なお一部海軍保安隊を除いて、陸海軍兵士たち全員は、22日の大本営命令通りに移動を終わった。
28日、マニラのマッカーサー司令部から大本営に対して「9月1日、占領軍本隊であるアメリカ第8軍の一部が館山海軍航空隊に進駐する」との電報を入れた。アメリカ統合参謀本部は、マッカーサーに対して日本占領方針として、天皇制を利用しながら日本政府を通じて統治する間接占領を指示している。30日早朝、先遣隊であるアメリカ第6海兵師団7千人が上陸し横須賀軍港を占領した。午前6時に第6海兵師団の第4連隊第2大隊が富津岬に上陸して、東京湾要塞の要であった海堡を爆破した。
そして午前8時頃、マッカーサーは厚木に到着し、この日は館山にアメリカ占領軍を迎える外務省館山地区連合軍受入設営委員会(31日に館山終戦連絡委員会と改称)が設置され、占領軍の駐屯地となる館山航空基地周辺の民家に、強制的な立ち退きが命ぜられた。31日には、日本政府は国鉄房総東線を鴨川駅止まり、房総西線を那古船形駅止まりにして、館山地区を完全に隔離したのであった。
【2. 「館空」への本土初上陸秘話】
30日、館山港沖のアメリカ艦船から上陸用舟艇が「館空」基地に接岸し、武装兵士が上陸した。また、館山航空隊の東側岸壁に、アメリカ第8軍のクロフォード少佐が指揮する先遣海兵隊235名が上陸した。なお館山警察署報告でアメリカ軍先遣部隊の一部兵士が翌9月1日にかけて、館山市内において、強姦2件・強姦未遂6件・猥褻5件・物品強奪4件・武器略奪2件・住居侵入16件・人員拉致1件の合計36件もの事件を引き起こしている。この日の午後3時、台風接近のためアメリカ軍進駐が変更され、日本政府は「9月1日横浜及び館山に上陸の予定なりし第8軍の一部は、その主力の上陸を横浜に於いては9月2日、館山に於いては9月3日に変更」と発表した。アメリカ軍は東京湾岸をはさむ館山と横浜に、それぞれ正規軍を上陸させ、首都制圧へのはさみ撃ち作戦を計画していた。
9月2日午前8時45分、東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式がおこなわれ、午後4時には終戦連絡横浜事務局長が総司令部マーシャル参謀次長から、「マッカーサーの三布告(1)日本政府の一切の権能が連合国軍最高司令官の権力の下に置かれることなどの一般事項。(2)占領政策の違反者を軍事裁判により処罰すること。(3)米軍の軍票B円を日本銀行円とともに法定通貨とする」旨の文書を手渡され、9月3日に告示されるとの報告を突然受けた。ポツダム宣言とはまったく違う布告文書を手渡された政府関係者は、さっそくマッカーサーに対して重光外相を派遣して「三布告」の撤回を強く要請した。その結果、撤回に成功したのであった。午前10時、サザーランド参謀長より「三布告」撤回指令が各部隊の司令官に出された。
9月3日午前9時20分、カニンガム准将が率いるアメリカ陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊約3500人は上陸用舟艇に乗って「館空」水上班滑り台に上陸したのであった。この部隊は日本軍の武装解除と民政監督を任務にしていたが、カニンガム准将は早速、9月3日付で「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」6項目の指令を出した。
その内容は、24時間以内に軍需施設・兵器弾薬の位置図・交通・通信施設等の概況を報告することと。占領軍によって館山を「直接軍政」下におき、行政のための軍政参謀課を設置することを予告したのであった。その規制は裁判所権限や財産管理、または商品・物価統制など市民生活に関することと共に「一切ノ学校ヲ閉鎖」や劇場・酒場の閉鎖だけでなく、市民の外出も午後7時から午前6時までは禁止という内容であった。
この突然の「直接軍政」命令に驚いた外務省館山終戦連絡委員会は、すぐに日本政府に連絡して、アメリカ太平洋陸軍総司令部に対しては「日本政府ノ機能ヲ存続シ尊重スルト云フ一般方針ニ矛盾スルノミナラス一切ノ学校ヲ閉鎖スルカ如キハ国民ノ教育ト進歩トノ見地ヨリ忍ヒ難キコト」と覚書を提出した。5日には、新聞で「館山湾地区に軍政」と掲載されたが、翌日には「軍政ではない 館山の進駐軍」と訂正の報道がなされ、「直接軍政」は否定された。7日になって、館山国民学校の開校が許可され、安房中学校の宿直日誌でも「九月三日米八軍館山上陸、学校ハ当分ノ間、閉鎖ヲ命ゼラル」とあるが、7日付には「全校出校、連絡不充分ノタメ出校者約半数」と記載されている。こうして沖縄以外では日本本土でただ1か所、わずか「4日間」であったが、館山において「直接軍政」がおこなわれたのであった。アメリカ占領軍は、館山での行政や市民の様子を見てから、日本での占領政策を考えていこうとした可能性がある。
ところでアメリカ軍が日本本土侵攻計画「コロネット作戦」を計画した際に作成した『日本各県マニュアル(千葉県第1分冊抄)』の序文のなかには「このマニュアルの基になっているデータには1945年7月1日現在、カルフォルニア州モントレー駐屯地で入手した情報が含まれている」という注目すべき一節がある。
このカルフォルニア州のモントレーこそ、20世紀初めに房総南部出身のアワビ漁業の潜水夫たちが多数活躍したアワビ潜水器漁業の基地であったことを忘れてはならない。つまり、アメリカ軍の日本侵攻作戦における南房総の情報源や日系二世部隊には、カルフォルニアでアワビ漁に従事していた日本人たちが関わっていたのではないかと想定されるのである。
●4日間の館山「直接軍政」〜敗戦と米軍の館山占領●
『学校が兵舎になったとき〜千葉からみた戦争1931〜45』
(千葉県歴教協 青木書店1996年)
東京湾口部に位置する館山は、軍事上最重要地域であったので、アメリカ軍は決戦の上陸地点として想定しただけでなく、日本の敗戦後は上陸占領地として構想した。ところで、アメリカ政府は占領軍が直接軍政を敷いた沖縄を除き、日本本土ではポツダム宣言にそって、日本政府を通じた間接的な占領行政を指示した。しかし敗戦直後、占領軍が最初に上陸した館山において、「4日間」ではあるが、本土で唯一の「直接軍政」を指示したといわれる。
1945年8月14日、御前会議ではポツダム宣言を無条件で受諾することを決定した。翌日午前中、木更津海軍航空隊より特攻機20数機が発進している。正午、「戦争終結の詔勅」が発布されたが、館山の街頭では、陸軍の軍人が血気盛んに「国民よ総決起せよ」と檄をとばしていた。16日には木更津航空基地を飛び立った練習機1機が、147師団(護北兵団)司令部や東京湾要塞司令部の上空を旋回し、「終戦は敵の謀略だ。我々は断固として最後まで戦う」というビラを撒いている。
大本営は、連合軍に対する敵対行為の中止命令を出し、陸海軍人に終戦の勅語を発布している。ところが、17日午後10時に東京湾要塞司令部のあった館山の船形国民学校における終戦詔勅伝達式では、147師団第427連隊一部将校が大隊をつかい、伝達式に参列する侍従武官や師団長はじめ全将校を取り囲み、いっせい射撃で全員を射殺して、自動車で東京に向かうというクーデターを画策したが、結局、未遂に終わった。
19日には、連合軍総司令部の指示で陸軍中将河辺虎四郎団長が率いる降伏使節団が、マニラのマッカーサーのもとへ派遣され、占領軍との折衝窓口となる「中央機関」を8月31日までに設置することが命じられた。22日、大本営は千葉市と市原郡鶴舞町から、安房郡天津町を結ぶ線より西側の東京湾岸地域に駐屯していた日本陸海軍武装部隊に対して、27日の午後6時まで、湾岸地域外に移動することを命令した。米軍も戦闘機を日本本土に一斉出動させ、超低空飛行で威圧し、哨戒飛行で未解散部隊の動向を調査している。住民に対しては、千葉県当局は米軍占領にともない、県民の平静をもとめるチラシを作っている。23日には、陸軍大臣から「復員要綱細則」が発令され、米第3艦隊が相模湾に入った27日には、午後6時以降県内の13カ所に検問所を設置して、警備警察官と日本憲兵で米占領軍の警備にあたり、一部海軍保安隊を除いて、全員が22日の大本営命令通りに移動を終わった。
28日、マニラのマッカーサー司令部から大本営に対して「9月1日、占領軍本隊である米第8軍の一部が館山海軍航空隊に進駐する」との打電があった。米統合参謀本部は、マッカーサーに対して、日本占領方針として、天皇制を利用しながら、日本政府を通じて統治する間接占領方式を指示していた。30日早朝、横須賀軍港に7千人の米第6海兵師団が上陸し占領した。午前6時に第6海兵師団の第4連隊第2大隊が富津岬に上陸し、東京湾要塞の要である海堡を爆破した。そして午前8時頃、マッカーサーは厚木に到着した。この日、警備警察部隊2個大隊が、米軍上陸地点の館山航空隊や洲ノ埼航空隊周辺での軍隊の反乱に備え警戒体制に入るとともに、占領軍を迎える外務省館山地区連合軍受入設営委員会(31日に館山終戦連絡委員会と改称)が設置され、まず米軍占領駐屯地になる館山航空隊周辺の民家に、強制立ち退きを命じた。31日には政府は国鉄房総東線を鴨川駅止まり、房総西線を那古船形駅止まりにし、館山地区を完全に隔離した。
ところが30日に館山港沖の米艦船から上陸用舟艇が接岸し、武装兵士が上陸している。また、館山航空隊の東側岸壁には、米第8軍のクロフォード少佐が指揮する、先遣海兵隊235名が上陸した。警察署報告では、先遣隊一部兵士は翌9月1日にかけて、館山市内で強姦2件・強姦未遂6件・猥褻5件・物品強奪4件・武器略奪2件・住居侵入16件・人員拉致1件の合計36件もの事件を引き起こしている。
この日の午後3時、台風接近のためか米軍進駐が変更され、政府は「9月1日横浜及び館山に上陸の予定なりし第8軍の一部は、その主力の上陸を横浜に於いては9月2日、館山に於いては9月3日に変更」と発表している。米軍は東京湾岸をはさむ館山と横浜に、それぞれ正規軍を上陸させ、首都制圧へのはさみ撃ち作戦を計画していた。
9月2日午前8時45分、東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式がおこなわれた。午後4時、終戦連絡横浜事務局長は、総司令部マーシャル参謀次長から「マッカーサーの三布告(一)日本政府の一切の権能が連合国軍最高司令官の権力の下に置かれることなどの一般事項(二)占領政策の違反者を軍事裁判により処罰すること(三)米軍の軍票B円を日本銀行円とともに法定通貨とする」の文書を手渡され、9月3日に告示されるとの報告をうけた。
ポツダム宣言とは違う布告文書に驚いた政府は、マッカーサーに重光外相を派遣し、「三布告」撤回を強く要請した結果、撤回に成功した。午前10時、サザーランド参謀長より「三布告」撤回指令が、各部隊の司令官に出された。
9月3日午前9時20分、カニンガム准将が米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊約3500人を率いて館山に上陸した。
この部隊は日本軍の武装解除と民政監督を任務にしていた。カニンガム准将は、9月3日付で「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」6項目の指令を出した。その内容は、24時間以内に軍需施設・兵器弾薬の位置図・交通・通信施設等の概況を報告することと、占領軍によって館山を「直接軍政」下におき、行政のための軍政参謀課を設置することを予告した。その規制は、裁判所権限や財産管理、また商品・物価統制など市民生活に関すること、さらに「一切ノ学校ヲ閉鎖」や劇場・酒場の閉鎖だけでなく、市民の外出も午後7時から午前6時までは禁止という内容であった。
この突然の「直接軍政」命令に驚いた館山終戦連絡委員会は、すぐに政府に連絡し、アメリカ太平洋陸軍総司令部に対しては「日本政府ノ機能ヲ存続シ尊重スルト云フ一般方針ニ矛盾スルノミナラス一切ノ学校ヲ閉鎖スルカ如キハ国民ノ教育ト進歩トノ見地ヨリ忍ヒ難キコト」と覚書を提出した。5日には、新聞で「館山湾地区に軍政」と掲載されたが、翌日には「軍政ではない 館山の進駐軍」と訂正の報道がなされ、「直接軍政」は否定された。また県警察部長の「命令文には民政を監督するとはいっているが、軍政を実施するとはいっていない。この点、一般は誤解のないようにして貰いたい」との談話が出された。
9月7日、館山終戦連絡委員会は「陸軍部隊ハ海兵隊ニ比較シ其ノ態度、紳士的ニシテ当方トノ交渉ハ極メテ円滑ニ進行シツツアリ」と報告するとともに、新聞報道では民政監督部長のマックメーンズ中佐が、「米軍と市民との間に突発しそうな事件を未然に防ぐのが第一の目的」と談話を述べている。この日、「米軍側態度緩和ニ関スル件」で、「学校の開校、娼婦と芸姑の区別して芸姑の営業が許可」され、7日付文書で館山国民学校の開校が許可されている。また安房中学校の宿直日誌では「九月三日米八軍館山上陸、学校ハ当分ノ間、閉鎖ヲ命ゼラル」とあり、7日付では「全校出校、連絡不充分ノタメ出校者約半数」とある。夜間外出禁止が午後10時から午前6時までと緩和された。
9日に、マッカーサーは占領軍犯罪防止のための綱紀粛正を通達した。翌日の館山終戦連絡委員会は「館山ハ横須賀ニ対峙シテ戦略上重要ナル地点ナルニヨリ、館山ノ米軍進駐ハ相当長期ニ渉ル」と報告し、14日には千葉県知事が、カニンガムを表敬訪問している。その際、カニンガムは米軍兵士のために「市中ニ既存スル慰安所ノ開設」を強く要望したのであった。