稲村城跡とは
房総半島南端の館山市にある稲村城跡は、館山平野を見渡せる丘陵地につくられた戦国期の房総最大の大名であった房総里見氏の初期の本城である。
稲村城は、房総里見氏の歴史のなかでも嫡流と庶流が入れ替わる分岐点としての、いわゆる天文の内乱(天文2〜3年)勃発の舞台になった城として、里見氏研究にとっては重要な位置を占めている。この内乱の結果、勝利した庶流義堯に連なる系統(後期里見氏)が、敗北した嫡流里見義豊の系統(前期里見氏)の歴史を不当に歪めてきた可能性が高いといわれてきた。そのことからも里見義通・義豊父子が居城していた稲村城は、天文の内乱直後に廃城になったといわれ、滅ぼされた前期里見氏の実像を知るうえで、何よりも房総里見氏の成立過程を解明していくうえで極めて貴重な存在であった。
1983年、千葉県下1000余の城郭遺構のなかで、最重要遺跡として県教育委員会の調査がなされ、発掘調査からは高度な城普請がなされていること、また測量調査等からは、これまで知られている以上に大規模な城であると報告された。標高64mの通称「城山」という主郭部と南側の四カ所の小丘陵にある中郭部とを含んだ東西500m南北500mの範囲にとどまらず、北側の滝川を自然の城濠とし、東・南・西方にある丘陵を城の外郭部とすると、東西約2km南北約1.5kmの大規模な城郭と想定され、安房国の軍事的経済的要衝で安房国府を押さえる所堅固な城と評価されている。
遺構をみると、築城に高度な土木工事が施されており、なかでも主郭部では平坦面を広くするため、他にあまり類例がないといわれる版築技法を用いて造成し、また里見氏系城郭に特有な垂直切岸や、大小さまざまな腰曲輪を重ねた防御施設が構築された。主郭部の土塁と櫓台は地山を削り残しているが、土塁をみる限り後に改変された形跡はなく、戦国前期の形態をとどめた城郭と推定されている。