婦人保護施設「かにた婦人の村」と「城田すず子」

(第9回日中韓歴史体験キャンプin南房総)

NPO法人 安房文化遺産フォーラム 代表 愛沢伸雄

 

1.「噫(ああ)従軍慰安婦」石碑

千葉県館山市の婦人保護施設「かにた婦人の村」(以下「かにた村」)の丘の上には、「噫従軍慰安婦」と刻まれ、天を突き刺すように建っている石碑がある。

「軍隊のいるところには慰安所がありました…。私たち慰安婦は、からだを洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首を切ろうと思ったかしれません。死ねばジャングルの穴に捨てられ、…私はこの目で見たのです、女の地獄を。戦後40年たって、兵隊や民間の人は祀られるけど、私たちのことは誰も声をあげません。祈っていると、かつての同僚の姿が目に浮かびます。どうか鎮魂の碑を建ててください。それが言えるのは私だけです。こんな恥ずかしいことは誰も言わないでしょうから…」

日本人としてただ一人、このような体験を語った「城田すず子」(仮名)と、社会から見捨てられた女性たちの救済に命を賭けて生きた深津文雄牧師によって建立された石碑は、世の中に大きな波紋を呼び起こした。

「かにた村」の丘から眺望できる海上自衛隊館山航空基地は、戦時中、館山海軍航空隊として全国屈指の実戦訓練部隊であった。東京湾要塞地帯として重要な役割を担っていた館山には、今なお多くの戦争遺跡が残っている。

 

2.「城田すず子」という女性

すず子は、1921(大正10)年、東京深川の裕福なパン屋で長女として生まれた。母を亡くした後、家業は破産し一家離散となり、借金のかたに17歳で神楽坂の芸者屋へ子守奉公に行った。そこで最初に水揚げされた社長から性病を移され、転売された後、戦争とともに従軍慰安婦となっていった。南方の島々では、ジャングルにカーテン1枚を隔ててしつらえた慰安所には朝鮮人を含む女性たちが集められていた。すず子は台湾、サイパン島、トラック島、パラオ島を経て、空襲に逃げまどいながら九死に一生を得た。

終戦とともに米兵相手の娼婦になる。自暴自棄なその日暮らしのなかで、自殺や心中を繰り返しながらも死の淵から蘇り、からだを張って戦後を生きてきた。30歳を超えた頃、夜学を出て看護師の勉強をしていた妹が自殺したことに衝撃を受け、夜の世界から足を洗いたいと願う気持ちがはじめて芽生えた。

すず子が矯風会婦人福祉施設「慈愛寮」の門をたたいたのは、1955(昭和30)年秋、売春防止法が成立する前年であった。キリスト教会の礼拝にも通いはじめ、祈りのなかで「一人前の人間になろう」と心に誓う。この頃体調を崩したすず子は、子宮を摘出した。入院の朝、念願だった洗礼を受けた。しかし生きる道が見つからず、ふたたび転落しかけた1957(昭和32)年初秋、すず子は絶望のなか、東京都板橋区の「ベデスダ奉仕女母の家」を訪ね、ここで深津文雄牧師と出会う。ベデスダは「あわれみ」を意味し、「かにた村」の前身である。

 

3.創設者・深津文雄牧師の「底点志向」

1909(明治42)年、深津文雄は福井県の日本基督教会敦賀教会の初代牧師の次男として生まれた。2歳で兄を、3歳で母を亡くした後、父の植民地伝道について台湾、満州とわたり、11歳で父をチフスで亡くした。貧しさのなかで、誰にも感謝されずに死んでいく父の思いを忘れまいと強く思った。しかし、牧師の子どもであったことで「ヤソ(耶蘇)!シンジン(信心)!」と石を投げられ、牧師になることを嫌っていた。

1927(昭和2)年、旧制一高の受験に失敗した深津は神の声を聞き、即座に父の母校である明治学院神学部へ向かった。すでに入試が終わっていたものの懇願し、受験が許され合格した。1930(昭和5)年、軍国主義の嵐のなかで明治学院神学部は分離され日本神学校となり、翌年に満州事変が始まった。幼いときから台湾や満州で植民地住民の惨めさを見てきた深津は、日本の帝国主義的な侵略行動をはっきり否定した。両国間に割って入り、平和をつくる反戦義勇軍ができれば、命を賭けてやってみたいと真剣に考えていた。

卒業後、聖書研究を続けるなかで「今の社会がこのように誘惑にみち、強いものが勝ちの社会であるかぎり、かならず独りで生きていけない犠牲者がでる。その人のためには、どうしても広い別天地が要る。それさえあれば、このような悲惨は繰り返さないですむ」と考えた。さらに、1937(昭和12)年に来日したヘレン・ケラーと出会い、「古い時代には、強い人は弱い人を踏み越えて前進しましたが、新しい時代には、強い人が弱い人の手をとって一緒に進まねばなりません」という言葉に大きな影響を受け、生涯の決意を固くした。

対米英戦争の勃発とアジア太平洋戦争のなか、平和のための有効な方法を見出すことができないまま悩んでいたが、深津の教会には身寄りがなく迫害された朝鮮の人びとがよく集まっていた。学生のいない寄宿舎を生活の場として提供し、お互いの乏しい食糧を分かち合う共同生活をした。

深津を支えたのは、独身・服従・無所有を誓ったディアコニッセ(奉仕女)を従えた、ドイツの牧師テオドール・フリートナーのイエス的実践であった。それは、「もっと小さいものにしなければ、私にしたことにならない」という神の言葉に添って、社会の底辺よりもっと下の「底点」に目を向けたものであった。深津は、フリートナーの実践を「底点志向」と表現し、「売春婦に転落せざるを得なかった底点の女性たち」の更生と救済の事業に、日本初のディアコニッセ・天羽道子とともに立ち向かっていったのである。

 

4.生きる喜びを生み出す「コロニー」の誕生

日本では長い間、公娼制度のもとで売春がおこなわれていた。明治以来の廃娼運動はあったが、売春婦の救済は困難なものであった。1956(昭和31)年、売春防止法が成立した。この法律は、国家による売春を否定したものだが、根本的な売春婦の更生や救済とはいえなかった。要保護女子と認定される女性たちのなかには、どうしても社会復帰が難しい者がいる。戦後日本の貧困という現実のなかで、不道徳というだけでは、売買春問題の解決は困難であった。だからこそ、困難な事業に立ち向かっていくディアコニッセ運動にとって独自な課題になると考え、深津牧師は「コロニー」建設に向けて歩み始めた。

1957(昭和32)年初秋、行政の厚い壁をたたきながら、「コロニー」開設の援助を訴え続けていた深津牧師のもとに、城田すず子が訪ねてきた。翌年、東京都練馬区大泉学園町に小さいながらも婦人保護施設「いずみ寮」が完成した。一番喜んだのはすず子だったが、入寮3ヵ月後に風呂場で脊椎を骨折し、以来6年半にわたり入院生活となった。「生きる値打ちがないように思われる人間でも、息をしているかぎり、その生を楽しむ権利がある。…弱者の楽園をつくりださねばならない」と語る深津の言葉に、すず子は深く賛同し「私みたいな境遇の者のために、みんなが力を合わせてパンを生産し、それによって自活する工場とコロニーがほしい」と夢を語った。

それから4年間、深津は賛同者を求め、国会や厚生省への陳情に明け暮れた。その間、12歳の末娘が膠原病となり、長期入院の病床で「雪のない暖かいところがいい」とコロニーの開設を願っていたが、実現を待たずに夭逝した。深津は国有地払い下げの運動を続け、1962(昭和37)年、やっと手に入れたのは千葉県館山市の旧海軍砲台跡というひどい土地であった。しかも資金問題をはじめ、難題が山積していた。総事業費1億円のうち、国の補助金はわずか1,130万円にすぎなかった。深津は命をすり減らすほど走り廻り、矯風会の久布白女史が募金活動の陣頭指揮に立った。ドイツのベデスダに属する7,000人の奉仕女たちも奔走し、3,000万円近い資金を集めてくれた。世界じゅうの人々が、このコロニー建設に向けて手を差しのべてくれたのである。

こうして1965(昭和40)年4月、深津の亡き娘の遺言どおり、温暖の地・館山に「かにた婦人の村」が開かれた。「かにた」とは近くの山間を流れる小川の名前である。保護施設といっても、ここには高い塀や施錠された門などはなく、監視や厳重な罰則もない。一時的な保護施設とは異なり、社会から見放された女性たちが終生暮らすことになる。心を癒し、人間性を回復するために、行動は本人の自主性や自発性に委ねられた。施設のなかには、編み物、農耕園芸、調理、陶芸、製菓、畜産、洗濯、購買、看護などの仕事が生まれ、傷ついた女性たちが働くことの喜びを体得していった。自分で生産したものを自分で消費するなかで、自分が欲しいものは真心をこめて作るようになった。この村では、役に立たないと思われた人が役に立ち、生きている意味を与えられ、新しい人間観が生み出されていったのである。

深津牧師のいう「底点志向」とは、いつまでも底点に存在し続けることではない。ひとたび底点に到達したら、それを速やかに底点でないものに変化させることであり、さらに社会全体の変化に波及させることが求められた。「かにた村」の理念と実践は、つねに地域や日本、そして世界にひらかれていた。日本の婦人保護事業として先駆的な実績を果たし、また地域の福祉運動や平和運動にも積極的に参加している。

 

5.「噫従軍慰安婦」石碑は訴えつづける

すず子は二度の危篤を乗り越え、「かにた村」のなかで手厚い介護を受けていた。車椅子の彼女には作業らしいことはできなかったが、編み物、陶芸、製菓に励み、本をよく読み、色々な人々に手紙を書いた。牧師やディアコニッセ(奉仕女)たちの献身的な指導は、すず子に心の平安と生きる喜びを与えた。大家族として支え合い、ともに生きるなかで、心の奥の襞(ひだ)をもさらけ出すようになり、慰安婦であったという告白につながったのである。「かにた村」に暮らして20年、戦後40年経ってからのことであった。

「二度と従軍慰安婦という女性を生み出してはいけない」という願いと、日本人を代表する謝罪をこめて建てられた碑には「噫従軍慰安婦」とだけ刻まれた。「噫(ああ)」というのは「苦しみのあまり、声にならない」という意味をもつ。

韓国で従軍慰安婦問題に取り組んでいた梨花女子大学のユン・ジョンオク教授は、この石碑を定点として日本やアジア各地の掘り起こしを進めていた。その結果を発表した「ハンギョレ新聞」の連載記事は韓国内に反響を呼び起こし、韓国KBSテレビのドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』制作につながっていった。番組は、すず子の衝撃的な証言から始まり、従軍慰安婦の歴史的事実にふれ、日本各地の慰安所跡を丹念に追った。最後に深津牧師が、「噫従軍慰安婦」の碑の前で建立の経緯と謝罪の言葉を述べ、アジア各地から慰安婦にされた人びとや関係者が名乗り出ることを強く願い、番組をしめくくった。慰安婦であったという城田すず子の勇気ある証言は、「かにた村」から世界各地に発信され、日本国内はもとより、東アジアや世界各国の良心的な人びとの共感を呼び起こし、大きな運動になっていった。

「もし生まれ変われるなら、普通のお嬢さん、普通のお嫁さん、普通のおばあちゃんになって、孫に囲まれて生きてみたいわ」と笑顔で語ったすず子は、1993(平成5)年、71歳の人生を閉じた。内臓はぼろぼろに病んでいたが、安らかな死に顔であったという。2000(平成12)年に逝去した深津牧師とともに、「かにた村」の会堂地下にある納骨堂にしずかに眠っている。