【房日寄稿】181225*赤山地下壕30万人到達と紹介した番組を見て感動

赤山地下壕30万人到達と紹介した番組を見て感動

(房日新聞寄稿2018.12.25付)‥⇒印刷用PDF

館山市指定史跡である「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」は、平和学習拠点として公開されて14年目で、入壕30万人を迎えた。館山市広報誌「だん暖たてやま」12月1日号の表紙に紹介され、素晴らしいことだなと思った。

その赤山地下壕がいつ作られたかということについて、BSテレビ東京の「ミステリアスジャパン」という番組で、「巨大地下要塞と直接軍政4日間の謎」というテーマの特集が放送された。

市のホームページや解説看板によると、「昭和10年代のはじめに、ひそかに建設がはじまったという証言もあります」とする一方で、「昭和19年より後に建設されたのではないかと考えられています」と記されているが、この矛盾を検証しようという内容であった。

番組ではもうひとつの謎として、ミズーリ号降伏文書調印式の翌日、昭和20年9月3日に米占領軍3500名が館山に上陸し、全国唯一4日間だけの直接軍政を館山に敷いたことについても言及している。

長年にわたり調査研究にあたってきたNPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長が出演し、調査報告と見解を紹介していた。

東京湾の入口にあたる館山は、幕末から台場が造られ、明治から昭和にかけて東京湾要塞の拠点であった。関東大震災の直後の海を埋め立てて昭和5年に開かれた館山海軍航空隊は、空母パイロットの養成基地だったという。赤山地下壕はその管制塔を担う軍極秘の地下要塞として、震災後の地質を調査したうえで場所を選定し、専門部隊により建設が始まったとNPOでは考えている。

さらに、赤山の前で生まれ育った元館山市教育長(昭和2年生まれ)は、日米開戦(真珠湾攻撃)前から掘削が始まっていたと明言しているという。また、NPOがテキサス軍事博物館より入手した資料には、終戦直後に館山に上陸した米占領軍の兵士の報告書があり、「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、そこには完全な信号、電源、ほかの様々な装備が含まれていた」と記され、終戦時には赤山地下壕が完ぺきな状態で存在していたことを意味する。

これらの事柄から類推されることは、戦争末期のいわゆる防空壕ではなく、国内でもかなり早い段階から秘密裡に建設が始まったという説が正しいのではないかと考えられる。こうした証言や資料が明らかになったのであれば、市指定史跡の解説について再度の調査検討が求められるのではないだろうか。

番組ではもう一つの謎として、昭和20年9月3日から7日にかけて、全国唯一、館山だけが米占領軍により直接軍政が敷かれたことの背景について言及している。はっきりした理由はわからないが、戦後日本をどう扱うかという試金石として、国民性を知るためのモデル占領だったのではないかと仮説が立てられていた。

海に囲まれた半島先端の館山では、古くから海を通じて交流や共生があり、遭難救助が当たり前という助け合いの精神が生きていた。とくに、外務省終戦連絡委員会とともに市民代表として交渉にあたった館山病院の川名正義副院長は、米軍機が墜落し漂着した遺体を検死して埋葬した事実を伝えたという。こうした紳士的な館山市民の特質によりGHQは安心し、4日間で軍政を解除した可能性が考えられる。

もし館山でクーデターや反発が起きていたら、沖縄のように全国が占領統治されていたのかもしれない。館山市民のもつ「平和の文化」が、平和な戦後日本をもたらしたのではないか、と番組は締めくくられた。

知られざる館山の一面について掘り下げられ、きちんと整理されてまとめられていて、とても参考になった。館山市民として誇らしい気持ちになった。多くの人に見てほしい番組であり、ぜひ再放送を望むところである。

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