【東京】000605=戦跡、町の文化財指定へ:大房岬砲台

21世紀に引き継ぐ遺産
大房岬砲台(富浦町)
戦跡、町の文化財指定へ

(東京新聞 2000.6.5.付)

「要塞(ようさい)」というのは、「外敵を防ぐために、国境、海岸などに構造する構造物」(広辞苑)のことだ。南房総の東京湾岸側もかつて「首都防衛」のため東京湾口全域を射程に入れた「砲台」が配備され、一帯が「東京湾要塞」と呼ばれたことがあった。

三浦半島(神奈川県)に向かって東京湾に突き出た「大房(たいぶさ)岬」も要塞の一角だった―。

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県立安房南高校の愛沢伸雄教諭(48)の研究によると、旧日本軍は1928(昭和3)年に大房岬を買収し、要塞造りに着手した。当時は第一次大戦直後で各国が海軍軍縮条約に調印し、主力艦の保有量が制限されたため、大房岬に築かれた二基の砲台には、解体された巡洋艦「鞍馬(くらま)」が搭載していた砲塔(20センチカノン砲二門入り)を据え付けた。ほかに、探照灯(サーチライト)の地下格納庫、発電所、観測所、弾薬庫などをいずれも鉄筋コンクリートで建造。4年後の32(昭和7)年には、「大房岬砲台」ができた。

41(昭和16)年にアジア太平洋戦争に突入すると、軍部は軍事機密の漏えい防止との理由で、列車が海岸線に近づくと窓のブラインドを下ろさせ、乗客が外の景色を眺めることさえ禁じた。大房岬のある富浦町の文化財審議委員長や教育委員を務める生稲(いくいな)謹爾さん(66)は「私の父が勤労奉仕で砲台周辺に行った時、砲の口径を触ろうとしたら、『おまえはスパイか』としかられたそうだ」と話す。

探照灯を含むすべての兵器は、敗戦直後の45年9月、館山湾から上陸した米軍にダイナマイトで破壊されたが、コンクリートの施設自体は強固で壊れず、今日に至っている。

富浦町は昨年秋、大房岬砲台跡を町の史跡にしようと、町文化財審議委員会に諮問した。審議会は近く、これを了承する旨の答申をする。

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戦争遺跡保存全国ネットワーク(事務局・長野市)の調査によると、国や市町村によって文化財に指定された戦争遺跡(戦跡)は、沖縄県南風原(はえばる)町の陸軍病院壕(ごう)をはじめ全国で8件。大房岬砲台は9件目で、千葉県では第一号となる。