【房日寄稿】250912_「戦後80年」講座参加のお誘い
戦後80年企画:米占領軍の館山上陸と「直接軍政」
安房文化遺産フォーラム共同代表・愛沢伸雄
幕末の動乱と明治の始まりからアジア太平洋戦争の終結までほぼ80年。敗戦から今日まで80年。合わせて160年の日本近現代史を俯瞰(ふかん)したときに、今なお「戦後」と付けるこの80年は重い意味をもっている。
戦争末期、米軍の関東侵攻計画「コロネット作戦」や占領計画「ブラックリスト作戦」において、館山と横浜は東京湾岸の最重要地として、首都制圧のはさみ撃ち作戦の上陸計画があったともいわれる。館山は侵攻の上陸地点と想定されただけでなく、降伏後に、沖縄以外では、日本で唯一の軍政による占領地となった。
8月15日正午の戦争終結の詔勅発布後、米軍は日本の政府や陸海軍の動きをどう見ていたのか。日本の軍人たちは、館山の街頭で「国民よ、総決起せよ」と檄(げき)をとばし、航空機からは「終戦は敵の謀略だ。我々は断固として最後まで戦う」というビラがまかれた。
館山では、徹底抗戦を叫ぶ陸海軍の一部将兵らにより、厚木にやってくるマッカーサー機の撃墜計画が立てられた。それを察知した大本営は「刺し違えてでも阻止するように」という厳命で、使者を館山に派遣した。戦後60年には存命だった使者・鈴木文郎氏の証言によると、「もし実現していたら、三つ目の原爆(投下)が起きかねないという緊迫感だった」と述べていた。
米軍司令部は、大本営に対して「占領軍本隊である米第8軍の一部が館山海軍航空隊に進駐する」と打電してきた。マッカーサーが厚木に到着した30日には、クロフォード少佐が率いる先遣海兵隊235名が「館空」基地の東岸壁に上陸した。即日、日本政府は「館山終戦連絡委員会」を設置し、基地周辺の民家に強制立ち退きを命じた。
1945年9月2日、戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式が行われた。翌3日の朝9時20分、カニンガム准将率いる米陸軍第8軍第11軍団112騎兵(機動)連隊戦闘団3500人が館山海軍航空隊(館空)水上班滑走路に上陸した。司令部を館空内にし、軍政参謀課が置かれ「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」6項目指令が出された。「一切ノ学校ヲ閉鎖」をはじめ、劇場や酒場の閉鎖、午後7時から午前6時まで市民の夜間外出禁止なども命じられた。
ポツダム宣言により間接占領が予測されていたところ、突然、館山にのみ敷かれた「直接軍政」に、日本政府は驚いたようである。その背景には先遣隊が「館空」に上陸した際、米軍と交渉した軍人が、「この地域は神風特攻隊がウヨウヨしている」と威圧的な言葉を発したからといわれる。これにより上陸部隊の警戒態勢を強化することとなり、マッカーサー了解のもと、館山だけが「直接軍政」占領の試金石とされた。そして、4日間の短期間で軍政条件は緩和されていった。
9月14日午後1時半から館山コミュニティセンター(第1集会室)において、「戦後80年」企画「米占領軍と直接軍政」を開催し、上陸シーンの動画上映や米国側から入手した米軍資料などを報告する。参加費は無料(資料代500円)。問い合わせは、NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田(090・6479・3498)へ。