【毎日】250521<旅するみつける>館山・南房総の戦跡
<連載:旅する・見つける>
平和問う「首都防衛最前線」
千葉 館山・南房総の戦跡
被害と加害の歴史、思いはせ
館山市、南房総市周辺は海に面した温暖な気候から海水浴やマリンスポーツが盛んなイメージがある。一方で、戦時中は首都防衛の最前線となり、要塞や地下壕などの跡が市内に点在している。いまなお残る大戦の遺構をたどり、戦後80年に思いをはせた。
【上東麻子】
「地図を逆さに見ると、太平洋側の頂点に位置するのが館山。昔から他の地域の人が流れ着き交流してきた場所なのです」。地元で歴史・文化遺産の調査・保存活動をするNPO法人「安房文化遺産フォーラム」共同代表の池田恵美子さん(64)は説明する。
しかも、南房総は東京湾の入り口に位置する。このため江戸・東京を守るため幕末から台場が置かれ、明治から昭和前期には対岸の神奈川県横須賀市とともに砲台群が築かれた。それが東京湾要塞だ。1930年には館山海軍航空隊(現海上自衛隊館山基地)も置かれた。
要塞のあった大房岬は戦後、自然公園として整備され、今の時季は新緑がまぶしい。のどかな鳥のさえずりを聞きながら歩くと、古いコンクリートで覆われた弾薬庫がひっそりと点在していた。中は暗く、ひんやりとする。周辺はカムフラージュのために樹木で覆われている。キャンプ場に近いトンネルを抜けると照明所跡がある。直径2メートルのサーチライトが置かれ、9キロ先まで東京湾を照らしたという。砲台跡の一つは花壇になっていて、時の流れを感じる。
公園南側の入り江には人間魚雷「回天10型」の特攻基地跡があり、近くの断崖には無数の穴が開いている。砲撃の練習跡だという。
赤山地下壕跡も訪れた。同航空隊に近い赤山(標高 約60メートル)にトンネルを縦横に掘って築かれ、総延長は約1・6キロに及ぶという。
ヘルメットをかぶり壕の中に入った。高さは2~4メートルほどで、茶褐色の地層がむきだしの壁面はツルハシで掘った跡が生々しい。発電機が置かれた場所や治療所とみられる部屋もある。公開されているのは一 部だが、一体どれほどの労力を費やして壕は掘られたのだろう。建造時期について市教委は太平洋戦争末期としているが、同フォーラムは住民の証言などから太平洋戦争開戦前からとみている。
赤山を下ると畑と住宅の間に、草に覆われた不思議な形のコンクリート製の建造物があった。空襲から戦闘機を守るために造られた「掩体壕」で、戦争末期にはゼロ戦を格納していたという。兵士だけでなく、近くの住民や学生らも駆り出され、約10カ所の掩体壕が赤山周辺に造られたとみられる。
戦争末期には「本土決戦」に備え、館山には7万人近い部隊が置かれた。基地があることなどから空爆され、多くの市民も犠牲になった。
池田さんが言う。
「住民もさまざまな形で戦争に巻き込まれたが、館山の基地が(日本の)航空戦略の最前線だったことも事実。戦争の被害と同時に加害の歴史も知って、平和を考えるきっかけにしてほしい」
海に3方を囲まれ、黒潮の影響を受ける南房総は海の宝庫でもある。中でも古くから海女によるアワビ漁が盛んで、明治時代にはポンプなどを装着した「器械式潜水」も始まった。
1897年、根本村(現在の南房総市)の海産物問屋「金澤屋」の小谷源之助・仲治郎兄弟をはじめ、多くの漁師が米カリフォルニア州モントレーへ渡り、現地に日本人コミュニティーを築いた。そこから、米国でも缶詰やステーキとしてアワビを食べるようになったという。
アワビの缶詰工場で成功した仲治郎は帰国後、七浦村千田(同)の人々を潜水士として養成し、米国に送り出した。その一人が早川音治郎で、弟の金太郎(芸名・雪洲)も後に渡米し、日本人初のハリウッドスターになった。雪洲はブロードウェーでも主役を張り、映画「戦場にかける橋」など多くの作品に出演した。こうした世界をまたぐアワビ食文化の歴史の一端は、渚の駅たてやま内の「渚の博物館(市立博物館分館)」でも展示されている。
■メモ
大房岬自然公園(南房総市富浦町多田良)は、JR内房線富浦駅から徒歩約40分。または市営路線バス「大房岬レストハウス前」下車徒歩1分(※土日祝日のみ3便運行)。電話0470・20・4344で要予約。
赤山地下壕跡(館山市宮城)はJR内房線館山駅からバスで、宮城バス停下車徒歩3分。毎月第3火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始は休み。入壕料は一般200円、小中高生 100円。問い合わせは豊津ホール0470・24・1911。