青山学報*房州館山水泳部合宿所

青山学報 第46号(大正15年9月28日)より

「房州館山水泳部合宿所新設」

年来の宿望が叶へられて、今度房州館山に青山学院の水泳部の合宿所が新設された。館山は北条と隣接の地であるけれども、其の土地の風習は、北条よりも遥かに勝れてゐる。至って質朴なよい印象を外来の私達に与へて呉れる。

今度青山学院が館山に新設した合宿所の土地購入に就ては、館山の有力な方々が随分と御尽力下さった。又土地の人達が我学院に随分好意を持てゐて呉れるので、一度館山の地を踏んだ私達には、館山と言ふ印象を永く忘れる事は出来ない。中にも、土地の有力家として知られてゐる鈴木病院長及び御一家と、町会議員である津田氏、又館山小学校の教師をしてゐられる高橋理記氏とには、我青山学院の水泳部が合宿の時其他の時何時も少なからざるお世話になる。私達はさうした厚ひ扱ひを蒙ってゐるので、何か館山の為めになる様な事例令それが小さい業であっても試みて見たいといふ気に溢れてゐる。館山の合宿の感想を記する前に厚くお禮を申述べて置きたい。

合宿所の建てられた地所は、元小学校の跡で、平坦な1,500坪ばかりの地所で、本夏清水組の好意によって、生徒合宿室80畳と、職員室8畳、予備室6畳、食堂、炊事室及炊事人居住室等を包含する平屋建のバラックが建てられた。

合宿所は無論高地である為めに、静かなる鏡が浦を一眸の中に収むることが出来る。此処より約一町の地を下れば汀に達する。余程の暴けでなければ海は至って静かである。前面には丸い玉藻の様な高島がある。浴客の足を止むる茶亭の設備、水泳場の設備があって、足場は左のみ悪しくはない。島内には水産講習所の実習所見たいなものが建てられて魚介類の収集を厳禁してゐる。海上56町余を隔てて沖の島がある。此処は交通が不便なので人足が稀れである。島影には白帆を張るヨットの影も見える。

宿舎の裏は青山で、豊津公園がある。山には夏季になると山百合の白い花が一ぱい咲き乱れる。夜は沖合はるかにいさり火がちらつく。庭園の桜は春になったら花もつけよう。兎にも角にも長い間の宿望が果されて、斯うしたよい宿舎が与へられたといふことは、我が水泳部の為めによい事である。

然るに此処に私の感想として書かして頂きたいのは、近来運動熱の勃興とともに、水泳は又一の独立的の立派なる競技となり、最にはハワイに於ける我日本チームの対抗競技となり、近くは玉川プールに於ける日米水泳競技が挙行された。其競技の結果如何は既に新聞紙に於て明瞭に報告されてあるので御承知の事と思ふ。

優秀なる競技は平常の練習に俟たなければならない。仮令優秀なる素質を具備するとも、平常の練習に抉ぐる所あらば、其は実に玉を抱いて磨かざるにひとしい。我青山に於ける運動部は夫々其運動に適はしい運動場、練習場等が与へられて、急激なる発達と進境を見せてゐる。独り我水泳部は平素の練習を為すべき機会と場所とを有せない。而もインターカーレーヂ戦に於ては平常の練習の機会を有する他校を前に廻はしての戦ひだから、骨が折れるのは言ふまでもない事である。此処僅か両3年の中に異常の進境を見せた我部は、昨年白熱の大激戦を演じて、漸く斯界に台頭して、青山学院の存在を認められた事を喜ばしく思ふと同時に、平常の練習をなさしむべきプールが何時か与へられん事を希望する。(中村生)

青山学報第173号(昭和17年10月1日 )より

「館山練成道場譲渡」

千葉県館山西小学校跡に青山学院水泳部寄宿舎を建設する手続を完了したのは大正15年1月8日であった。この間尽力された諸氏は学院側として石坂正信院長、阿部義宗中学部長、佐藤亥蔵生徒監等であった。館山町側としては、○木町長、鈴木病院長、津田町会議員、高橋理記・・・・・・・・・・・・。・・指導は佐藤生徒監の数名であった関係から特に援助されたやうである。

—当初、水泳部寄宿舎使用は全学部でなされる事になってゐたが、漸次中学部が維持、経営の任に当る様になった模様である。

其後寄宿舎の前方に海軍航空隊が設置され水泳に不便を感じる様になったので海軍への譲渡の話も持上ったが何時とはなしにお流れになって了った。ところが昭和16年12月海軍の方から譲渡の話が持出され急速に進展し、昭和17年1月20日付を以って手続を完了した。この責務に当った諸氏は、笹森順造院長、村上精一中学部長、尾崎信二主事、西村輝雄訓青主任等であった。10数年に亘る館山町有志の厚意を感謝する次第である。