庄司兼次郎*館山基地物語①

15歳で海軍特年兵に 死は考えなかった

(産経ニュース2012.12.8)

連載では今後、館山の軍事施設の由来を明らかにしていく

東京湾入り口の千葉県館山市からは対岸の三浦半島が驚くほど近くに見える。江戸の昔から首都を背後に控えた要衝だ。昭和の初めにはさまざまな軍事施設が置かれ、7万の軍人であふれた。総選挙の喧噪(けんそう)の中で迎える8日は、真珠湾攻撃から71年となる。「あの戦争」がますます遠くなりつつある中で、「軍都・館山」を記録にとどめておきたい。(羽成哲郎)

 

■「国のために」

フィリピンで死線をくぐり抜けた海軍一等機関兵が健在だった。館山市の海軍OB会である「館山海友会」会長の庄司兼次郎さん(85)。JR館山駅近くの自宅にうかがった。

戦場での生々しい体験を聴いた後、こんな問いをぶつけた。「先の戦争とは何だったのでしょうか」。

「自分で自分を奮い立たせるように。熱病のように燃え上がったというんですかね。近所で下士官の人が日曜に奥さんと2人で歩いているのをみて、それも憧れの一つだったかもしれません。戦争に行けば亡くなるということまで考えていません」

赤紙(召集令状)がきて思い詰めて出征する。戦後世代にはそんなイメージができている。庄司さんの証言だと少なくとも昭和16、17年の館山はそうではなかった。口調は誇らしげだ。

「あくまで国のためだった。自然に時代の流れにはまってという形でしたね」

 

■親に無断で

庄司さんは親に無断で願書に印鑑をつき、海軍特別年少兵に応募した。昭和17年春、15歳になる直前だ。同じ小学校で12人が受験して2人が合格。もう1人は空母加賀で戦死した。加賀は真珠湾攻撃に参加したあと、同年6月のミッドウェー海戦で沈没している。

特年兵第1期の3200人のうち約2500人が戦場に散った。63年に発行された「海軍特年会だより」を見せてくれた。分隊長の寄稿にはこうある。

「生命を国家にささげたのはあどけない面差しの16歳前後だった。海軍特年兵こそ『昭和の白虎隊』の呼び名がふさわしい」

海軍省が幹部候補生を養成するために始めた制度。午前は一般の教育、午後は軍事教練。庄司さんは11カ月、その厳しい課程を受ける。色あせた教科書は今、海上自衛隊館山航空基地の史料館に保管されている。

国語の冒頭は「明治天皇」。「海軍の伝統」「プリンス・オブ・ウエールズの最期」「上海陸戦隊」といった文章が続く。学者でジャーナリストでもあった徳富蘇峰が「日本の皇室がいかに世界に比類のないありがたい皇室であらせられるか、日本の国民がいったん緩急に際してはいかに猛烈かつ勇敢に護国の精神を発揮したか」と戦意を鼓舞している。

 

■鬼の館砲へ

庄司さんは土浦航空隊を経て19年3月に館山海軍砲術学校に入る。

「鬼の館砲(たてほう)」と呼ばれた海軍の教育訓練機関だ。館山市宮城の館山海軍航空隊から同市佐野の館砲まで約10キロ。丘を越える道路を海軍が切り開き、水源地も確保。田畑や民家を買い上げた。

市教育委員会の杉江敬係長は「憲兵がきて銃剣突きつけて無理矢理やったようなイメージがありますけど、きちんとお金も払っています」と言う。

館砲で編成された第129防空隊の一員として庄司さんは6月にフィリピンへ。そこで待っていたのは圧倒的な物量の差だった。

館山にあったさまざまな軍事施設の由来と時代の様子を追う。

1. 昭和20年9月3日、海軍館山航空隊の一角に上陸した米軍兵士ら(海上自衛隊館山航空基地提供)
2. 昭和20年9月3日に館山に上陸した米軍とにらみあう海軍館山航空隊の司令ら(海上自衛隊館山航空基地提供)。連載では今後、館山の軍事施設の由来を明らかにしていく
3. 庄司さんらが戦艦・三笠で記念撮影
4. 新兵の庄司さん
5. 時代の流れの中、自分を奮い立たせ海軍特別年少兵に志願したという庄司兼次郎さん=館山市の自宅
6. 元海軍機関兵の庄司兼次郎さんが使っていた歴史と国語の教科書は海上自衛隊館山航空基地の史料館にある

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