海軍通信兵(昭和20年赤山駐在)
戦争遺跡に関する聴取報告書
NPO法人安房文化遺産フォーラム
聴取者 金久・斉藤
聴取日 平成22年9月25日 10:00-11:30まで
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●氏 概略
戦時の任務 海軍通信兵 兵長(現役時代)
昭和4年5月27日生まれ
15歳 横須賀海軍通信学校入隊 昭和19年7月
16歳 海軍903航空隊に転属 昭和20年3月31日付
館山にとどまる その後実家の市原に戻る
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●氏は、志願兵として、いわゆる霞ヶ浦の予科練に合格されましたが、軍命により久里浜の横須賀海軍通信学校に入隊なさったとの事でした。
厳しい指導のもと、通信に関する実務を習得され九ヵ月位で卒業しました。
学校内の74分隊では16歳の兵員は2名で一番若い方だったそうです。館山には、水上班滑り台横より上陸したとの事。館空は16歳は自分だけだったと思う。また着任当時は、4月で桜がきれいだったことを覚えている。
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赤山地下壕での通信兵について
場所 = 現在奉安殿と呼んでいる所と、USaと書かれている場所の間の狭い通路で行っていた(別紙参照)
人員 = 通信班と暗号班で、一直20名程で六直あった。通信隊は7分隊と呼ばれていて、全体で150名から200名いたのではないか。
暗号班もあり、事務的な仕事もある。隊員は佐久間大尉(だいい)である。
(一組20名で6回ごとの交代制の意味)
内容 = 任務は一回につき4時間で交代制であった。それで任務が夜中にくることもあった。
国内外の通信を扱い送受信していた。受けた通信は、暗号班に渡して平文にする。私は年が若く経験も少ないので主に国内の通信を扱っていた。先輩たちは、飛行機、船舶からのものを受けていた。
電波状態が悪いと聞き取れないので、再度打電してもらうこともあった。
今の館山小の向かい側の城山下に、通信用の送信機があり毎日2・3名で交代で、点検にいっていたと思う。博物館の裏あたりになる。
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●氏によるエピソード
☆通信隊は、昭和20年3月には、館空三階から移動して赤山地下壕に移転していた。通信機もすべて移転していた。
(予備分は、戦闘指令所の前の通路に置いた可能性あり)
米軍の爆撃に備えて、移設していた。米軍機による機銃掃射を受けた事もある。爆撃は少なかった。
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☆館空にいる間、昭和20年5月から7月に、出撃する特攻隊を二度ほど見送った。九州鹿屋から沖縄へ行く、5・6機であった。
特攻隊員は、特別扱いで、昼から宴会をして騒いでいる時もあった。
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☆当時の飛行機は、いろいろなタイプの物の寄せ集めで、同種の飛行機を集めて部隊を編成できなかった。20機から30機位あったと思う。
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☆終戦時は、今の豊津ホールの所に集合して玉音放送を聞いた。
遠くから来ている兵隊から順番に帰郷した。私は市原なので27日まで残った。やはり千葉出身の人が多かった。北海道の人もいた。
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☆部隊の食事は、ホーローの容器が御飯用、御菜用、味噌汁用とあり、野菜が二つ三つ入った味噌汁とおかずは、野菜が多かった。魚はあまり出なかったが、月に二・三度は、牛乳のシチューが出た。
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特記事項
☆赤山壕の熊の神社方面の出入り口は、一般の兵隊は、出入りができず、将校と通信分隊の兵隊また衛生版が使っていた。扉のような物もなかった。
応急治療所付近には、木製のベッドが置いてあり、ケガ人や一般の病人もいた。一般兵は別の出入り口を使用していたと思う。奉安殿や横壁については、良く覚えていない。天井の穴に関しても、記憶がない。
一度、分隊で暗号表の一部が無くなり、大騒ぎになった。暗号係が徹夜で探していた。あとで見つかり、事なきを得た。以後より出入りが厳しくなり、通路に鉄格子の扉が昭和20年7月頃できた。
最後の司令は、鬼塚大佐(だいさ)と記憶している。
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聞き取り所感
非常に元気な方で、記憶も確かなものと感じました。
「赤山での勤務が短いので全体的なことはわからない」と話されました。
お話からうかがえることは、赤山壕は米軍上陸に対する本土決戦体制のもと、館山海軍航空隊の実質を地下壕に移してその機能を維持し、爆撃等から物資・人員・機材を保持するための壕と思われます。軍事的にみても、強力な要塞としての機能よりも、防衛的な基地ではないかと思われます。