松苗禮子*富田先生の青い目の人形
●富田先生の青い目の人形
…(松苗禮子*語り部「さくら貝」代表、館山市北条在住)
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—— ぼぼー、ぼぼおー。
汽笛を鳴らしながら、大きな船がゆっくりと横浜港に入ってきました。春とは名ばかりの、風の冷たい日でしたが、岸壁は出迎えの人々でいっぱいでした。
船には青い目のお人形がたくさん乗っていて、その数なんと1万2千体。昭和2(1927)年のことでした。その頃はまだ飛行機はなく、何日も何日も波に揺られて太平洋を渡ってきました。「アメリカと日本がずっと仲良くしていくように、まず子ども達同士が仲良しになりましょう」と、アメリカの子ども達が送ってくれたのです。
その少し前から日本は大変な不景気で、大勢の人々が仕事を求めてアメリカに渡りました。ところが、安いお金でも黙って働く日本人を、以前から働いていた人達が快く思いませんでした。日本の移民たちはつらい目に合うことが多くなってきました。
そんな様子に心を痛め、日本人のことを心配してくれたのはアメリカ人のギュリック博士でした。それに、日本の渋沢栄一氏の大変な努力と、アメリカのキリスト教会の人々の協力があって、日本に青い目のお人形がやってくることになったのです。
それぞれ名前がつけられたお人形達は切符やパスポートや友情の手紙を持っていて、人形使節と呼ばれました。3月3日の雛祭りに東京での歓迎会が終わると、お人形達はひとつずつ日本中の小学校や幼稚園に送られました。
千葉県の南、房総半島の館山小学校にやってきたのは〝メリーちゃん〟でした。館山小学校の子供達は盛大な歓迎会を開き、ガラスのケースに入れて裁縫室に飾りました。毎日、大勢の子供達がメリーちゃんに会いたくて裁縫室にやってきました。
「わあっ、目の色が青い海みたいだ」
「寝かせると目をつぶるよ。ほら!」
…ママー…
「ああ、たまげた! 今、お腹に触ったら、マンマって泣えたよ。腹がへったんだっぺ」
「おっかさん、呼んだのさ」
「ハイカラな洋服を着ているね。丁寧に縫ってあるよ。だれが縫ったんだろう」
メリーちゃんは身長約60センチ、金髪、青い目、寝せると閉じるまぶた、お腹に音声装置をつけた〝ママー人形〟で、日本の子ども達に大人気でした。
いただいたお人形のお礼にと、今度は日本の女の子達が少しずつお金を出し合って振袖姿の日本人形をアメリカへ送ることになりました。千葉県からは、「千葉子さん」「房子さん」がアメリカへ行きました。この頃、『青い目の人形』という童謡が盛んに歌われていました。
♪ あーおい目をーしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイド… ♪
こうして十年が過ぎ、昭和12(1937)年7月7日、日本はとなりの中国と戦争を始めました。昭和16(一九四一)年12月8日には、アメリカやイギリスとも戦争を始めました。いくつもの国を敵にまわして、戦争は広がるばかりです。
日本中のあちこちから、たくさんの日の丸の旗と万歳に送られ、男の人達が戦争に出て行きました。子ども達は「アメリカやイギリスは鬼や獣の国だ。この戦争に勝ち抜くためには、敵を憎み、相手をやっつける覚悟を持て!」と教えられました。アメリカは、今は憎い憎い敵の国。みんなでやっつける敵の国。そんなある日突然、「青い目の人形は敵の国の人形。敵はやっつけてしまえ。壊してしまえ」と命令が出ました。国の命令には黙って従わなければならない時代でしたから、人形を竹槍で滅多突きにし、大勢の足で踏みつぶし、燃える火に投げ込んだり、冷たい水の底に沈めたり…。そんな出来事が手柄話として、新聞に書き立てられるようになりました。
とうとう、館山小学校の佐藤校長先生にも決断の時が来ました。ある日、女学校を出て母校の先生になった、若く美しい富田先生が校長先生に呼ばれました。校長先生はメリーちゃんを富田先生に渡し、「焼き捨てるようにと命令が出ているものをあなたにあげます。憲兵にはくれぐれも気をつけるように」と言いました。富田先生は、子どもの時からメリーちゃんと顔見知りだったのです。
その頃、東京湾要塞地帯という大きな基地の中心であった館山は軍隊の町でした。その上、「房総半島にはまもなくアメリカ軍が上陸して来て、ここで本土決戦が始まる」と言われ、学校やお寺や広い家には、陸軍の部隊も泊まり込んでいました。命令に従わない人や敵のスパイはいないかと、たくさんの目が光っていました。
富田先生の家にも航空兵が分宿していました。先生はだれにも気づかれないように用心しながら、そうっと押入れの奥に人形を隠しました。どうか見つかりませんようにと、祈るように毎日を過ごしました。
ようやく戦争は終わりました。やがて富田先生は結婚し、二人の娘さんのお母さんになりました。食べる物も着る物も不自由な時代でしたから、子ども達が遊ぶおもちゃもありません。そこでメリーちゃんは押入れの奥からやっと明るみに出されて、二人の娘さん達の遊び相手となりました。
娘さん達は成人しました。終戦から28八年も経ったある日、たまたま見ていたテレビで、富田先生は、あの時代に他にもしっかり生き残った人形があることを知り、大変驚きました。そして守り抜いたメリーちゃんのことを、初めて周りの人に話しました。千葉県に送られた人形は二一四体でしたが、残ったのはわずか十体でした。嬉しいことに、館山のとなりの富浦小学校でも、学校の戸棚に隠されていた青い目の人形が見つかりました。
大きな話題を呼んだそんな出来事も忘れられた、平成16年の今…。佐藤校長先生はずっと前に亡くなり、富田先生は重い病気です。メリーちゃんは、富田先生の娘さんの家のピアノの上にちょこんと座り、青い目をパッチリと開いて静かに暮らしています。
(2004.8.22.第8回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会にて)