川崎正*列車空襲を受けた勝山町助役の回顧録

~市部瀬の列車襲撃事件~

第二次世界大戦に遭遇、有史以来初の敗戦のため、銃後の行政関係もまたかつて経験したことのない戦時態勢に入り、町村防空活動はその首長に全責任が負荷され、警報の伝達・非難誘導・消防活動は空幕僚長としての私は、いやでも第一線に挺身せざるを得ないことになりました。終戦一年位前から、昼夜の別なく頻度を増した敵機襲来に、自転車で自宅から7、8分の距離の防空本部に通いきれず、役場に隣接した土佐工務店の一室を借りて、極端をいうならゲートル巻きの儘で寝る位、防空活動に当たらざるを得なかった。

終戦の年、昭和20年5月8日、P51二機編隊の敵機の空襲を受け、偶々町内を通過中の下り列車の機関部にその銃弾が命中、運行不能の列車は反復攻撃を受け、死者14名、重軽症者46名(入院中の死亡者数名)の犠牲者を出し、さらに焼夷弾による民家一戸消失の被害を受け、夢想だにしなかった混乱を生じた。

自町民以外の多数死者収容所は全然防空計画になく、死者数も第一報は数十体と知らされ、続々役場前に搬入される遺体の緊急即応の措置に、郷社加知山神社社務所の使用を考え、その了解を神官に申し出たが、神聖な神社に死体の収容とは狂気の沙汰と血相を変えて激怒された。国家神教の当時としては無理ないと知りながら、他に方法ない非常事態、やむを得ず伝家の宝刀、防空法の適用を決心、「防空法第●条の規定により加知山神社社務所を戦災による死体収容所に指定する」と宣言、その旨の公文書を交付、有無をいわせずこれに搬入した。

胸の名札により住所は判明したが、列車の切符さえ自由に買えないので、遺骸の引渡しに数日を要し、その間、夜間監視に複数の男子職員がこれに当たり、青森県の一体は間に合わず仮埋葬し、後日遺族の到着を待って確認のうえ野火で火葬して引渡したが、この災禍に関連した悲劇は多く、第一線戦場とは異なった現象を体験した。

一方、軍の強気とは別に戦局は緊迫し、最悪の場合、老幼並びに妊産婦等の避難計画も極秘の裡に進められ、第一次避難は隣接佐久間村奥山の山岳地帯に、敵上陸を想定した第二次避難は何と栃木県日光方面に一日五里の夜間徒歩と、今にして思えば正気とは思えない計画を役場吏員にさえ詳細を知らせず、限られた一部の人により秘かに準備着手の寸前、終戦を迎えた次第である。

 

【プロフィール】
川崎正(かわさきただし)
明治36(1903)年生まれ。大正13(1924)年から昭和20(1945)年8月までの間、断続的に勝山町(鋸南町合併前)の書記、収入役、助役を歴任。敗戦とともに引責辞任。館山造船株式会社総務課長、千葉相互銀行支店長、安房興業銀行取締役社長を歴任。座右の銘は「徳不孤必有隣」。昭和59(1984)年8月逝去。