本土決戦体制とコロネット作戦
■戦争末期の本土決戦体制
1944(昭和19)年7月に「本土沿岸築城実施要綱」が発令されると、館山湾からの敵上陸を阻止することを目的に、おもな抵抗拠点には頑強な陣地や塹壕を建設していった。沖縄戦に次ぐ本土決戦に備え、戦争末期には7万人の軍隊が配備された。
人間ロケット「桜花」や人間魚雷「回天」、特殊潜航艇「海龍」「蛟龍」、特攻艇「震洋」など、様々な特攻基地が次々と作られていった。
沖縄戦終結後の1945(昭和20)6月29日、大本営は「沖縄戦の教訓」という機密書類を作成している。本土決戦のための教訓であるが、まさに房総南部を想定した教訓であったといえる。
■米軍の本土進攻計画「コロネット作戦」
一方、アメリカ軍は本土進攻計画「コロネット作戦」を立案しているが、その作戦地図を見ると、関東一円をターゲットとした中心地は館山を指している。
この計画を立てるうえで、明治期にカリフォルニア・モントレーに移住した房総アワビ漁師たちが、その情報源として協力させられている。