特攻艇「震洋」波左間基地跡

「震洋」波左間基地_滑り台

第18突撃隊は、1945(昭和20)年6月下旬、1人乗り「震洋」58隻を主力とする、第59震洋隊の配備命令を出した。7月に入って、第59震洋隊には真鍋康夫中尉を部隊長とする、志願した176名の若者たちの配属を決定した。

館山市波左間の特攻基地の建設では、同年3月下旬から300名余りの兵士たちが送り込まれ、「震洋」の格納壕をはじめ居住・燃料・兵器・食料などの素掘りの地下壕が突貫工事で掘られた。この特攻基地施設は、航空機から発見されにくいように、小さな漁村の民家に紛れて配置されていた。

米軍引き渡し命令書

波左間の海岸から約200m離れた山すそには、「震洋」格納壕7本と燃料や食糧などを保管する地下壕が掘られ、「震洋」を海岸まで台車で移動させるためのコンクリート道路が敷かれた。また、海岸にはコンクリート製の滑り台(発進用スロープ)や、係留施設などが建設された。

ここから西方約3kmの洲崎灯台に近い栄の浦漁港でも「震洋」基地建設がほぼ完成している。真鍋部隊長らは、7月14日に波左間基地に到着したものの、主力兵器の「震洋」はまだ配置されていなかった。

8月13日になって、やっと6隻が基地に到着して、すぐに爆薬を装備し出撃態勢をとっていたなかで、若き特攻隊員たちは敗戦を迎えたのであった。敗戦直後、加害の証拠を隠滅するために、「震洋」艇は海に沈められたという証言がある。
地元のダイバーが海底からエンジン・スクリュー・火薬缶の残骸を発見し、震洋乗組員により震洋のものであると確認された。

NHK「おはよう日本」2017.8.16

また。地元の船大工が千倉(南房総市)で震洋を作っていたと証言している。

読売新聞2017.8.22付


震洋