万里小路通房

●万里小路通房(までのこうじ・みちふさ)
1848(嘉永元)〜1932(昭和7)

「促成栽培で近代農業を発展させた伯爵」
父親は幕末の尊皇攘夷派公卿として国御用掛を務め、本人は幼少時より明治天皇と学問や日常生活をともにした。明治維新後、英国に4年間留学し、宮内庁御用掛などを歴任したものの、1890(明治23)年には侍従職を辞して、北条町新塩場に移住し、房州永住を決意。翌年には貴族院議員となっている。

1895(明治28)年、近代農業技術の第一人者福羽逸人を招いて指導を受け、なす・きゅうりを作ったのを機に、安房の促成栽培を始める。1898(明治31)年、本籍を北条町に移し、社会教育団体「安房大道会」の会長や「日本弘道会安房支会」の顧問となり、1913(大正2)年には後任が決まるまでの7日間だけ北条町長を務めている。さらに北条文庫の設置など、教育や文化の振興に寄与している。館山市役所敷地内にあるミカンの木はいまも実をつけているが、万里小路が植栽したものという。震災後は、北条海岸の別荘・静松庵を本宅とした。

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…◎『館山まるごと博物館』より抜粋…