正木貞蔵、清一郎

●正木貞蔵、清一郎(まさき・ていぞう、せいいちろう)
貞蔵1837(天保8)〜1913(大正2)/清一郎1855(安政2)〜1934(昭和9)

「水産と海運の発展に生涯をかけた父子」
最新の水産知識・技能や国際的な水産業の動きを見ながら、果敢に立ち向かっていく関澤明清や弟の鏑木余三男の取り組みは、千葉県や安房で水産業に関わる人びとに大きな刺激と夢を与えていた。そんななか大きな役割を果たしたのが正木清一郎である。

正木家は里見氏の末裔といわれ、代々船形村の名主であった。父貞蔵は安房郡市の官吏も勤め、吉田謹爾らとともに安房の産業振興に尽力したが、1880(明治13)年、船形村(現館山市)に北条汽船を設立して以来、安房の海運業の発展を願って内湾汽船事業に携わっていた。清一郎も父の事業を手伝うかたわら、水産製造や漁業に従事し、農商務省や関澤らとともに、水産博覧会事務や八丈島沿海の漁場水産調査に出向くなど、水産界をリードするさまざまな事業に関わっていった。その間、地域では船形村長や町長に就任し、地元水産業の育成にも務めており、船形漁港前には銅像が建立されている。また、里見氏の墓所を整備するなど、文化事業にも大きく貢献している。

千葉県水産組合連合会は朝鮮への漁業移民を討議し、1905(明治38)年、韓国釜山に近い馬山近郊に「千葉村」を建設するが、清一郎はその先遣隊として現地調査に出向いている。

晩年北下台に暮らした貞蔵の没後、清一郎は海運事業に生涯を賭けた父を思い、隠宅の地に航路標識灯と公園内の照明を兼ねて、1917(大正6)年に灯台を建てた。花崗岩2枚の基台に柱を挿入した高さ7間の柱頭には100燭のアーク灯が輝き、正面には書家・小野鵞堂の揮毫により「正木燈」と刻まれている。管理は館山町に委託したといわれているが、灯火は1951(昭和26)に廃止された。1953(昭和28)年に公布された港湾法では、この「正木燈」を基点として半径3kmの範囲が「館山港」と指定されている。

【参考図書】

『館山まるごと博物館』より抜粋…

『朝鮮の千葉村物語―房総から渡った明治の漁民たち』