成瀬政男

成瀬政男(なるせ・まさお)

1897(明治30)〜1979(昭和54)

「歯車研究の世界的な権威」

千葉県安房郡北条町八幡(現館山市)生まれ。白浜(現南房総市)で育ち、5年間毎日8時間かけて32キロを徒歩で安房中学校(現安房高校)へ通学。中学校卒業後、小学校代用教員を1年間勤め、仙台高等工業専門学校へ進学、東北帝大(現東北大学)工学部卒業。

1931年工学博士、1938年東北帝大教授。歯車の研究の世界的権威として知られ、1953年学士院賞受賞。東北大学退官後、中央職業訓練所(現職業能力開発大学校)所長。

池貝庄太郎が国内で初めて歯車の機械切削を実施した翌1897(明治30)年、北条町八幡で成瀬政男が誕生。安房中学を卒業後、苦学して仙台高等工業学校で歯車の基礎を学んだ。在学中に池貝鐵工所で旋盤作業の実習を経験したことで、技能者と技術者との協力の大切さを知ったという。

その後、東北帝大工学部で歯車の基礎研究し、同大学助教授となって、1934(昭和9)年には岩波全書『歯車』を出版し、歯車研究の第一人者となった。世界的な業績を築いた成瀬は、文部省在外研究員として渡欧米し、当時世界一の歯車研磨能力と生産技術を誇っていたスイスのマーグ社を視察した際に、高い研究技術だけでなく、誇り高い技能者たちが大切にされ、国の宝として扱われていることに深い感銘を受けたという。

この渡欧中の1936(昭和11)年に、トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎から国産自動車第1号の歯車開発の協力依頼があり、翌年には技術開発に成功して、トヨタAA型1号車の完成に大きく貢献したといわれる。帰国後の1938(昭和13)年に東北帝大教授に就任したものの、戦時下の工学部系研究者には軍部より航空機の研究開発や製作が命ぜられたのであった。当時、学生たちは戦時のなかで困窮していったので、私財を投げ打って通称「成瀬寮」という航空寮を東北帝大につくり、生活を支援した。戦後は、この寮生から大学教授やトヨタ自動車などの役員が誕生したという。

1961(昭和36)年に東北大学を退官後、中央職業訓練所長(後の職業能力開発総合大学校)に就任し、戦争で大きな傷跡を与えたアジア諸国の人材育成事業を支援し、たくさんの留学生たちを迎え入れる制度を国に要望して実現させた。81才で死去。

なお、成瀬政男の祖母・片山かのは、石川啄木の未亡人・節子が懐妊中で結核を患い、宣教師で医師のコルバン夫妻を頼って療養にやってきた館山(北条町八幡)で自宅離れに住まわせて世話をした。近所には「肺病(伝染病)出て行け」という心無い住民もいたが、かのは毅然と節子を守り、「コルバン夫妻が身寄りのない病人を助けているのに、わたしがこれくらいの世話をしないで外国の人に恥ずかしい」と言ったという。

成瀬政男と片山かのの墓所は、旧長尾藩共同墓地(安房高校に隣接)。

…◎『館山まるごと博物館』より抜粋…

【参考図書】
◎『心の灯台-成瀬博士の歯車物語』文:林太郎/絵:丹下敬二
企画:成瀬政男博士顕彰会、発行:東銀座出版社
◎『房州に捧げられた人 コルバン夫人』平本紀久雄著、崙書房出版

南房総市白浜地域センターにある成瀬政男の銅像

『心の灯台~成瀬博士の歯車物語」