長沼守敬
●長沼守敬(ながぬまもりよし)
1857(安政4)〜1942(昭和17)
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わが国彫塑界の創始者といわれる守敬は、1881(明治14)年イタリアに留学し、ベニスのヴェネツィア王立美術学校で、正統な彫刻を学んだ、日本で最初の人です。6年後に帰国した彼は、浅井忠(1856-1907)ら洋画家たちと、「明治美術会」を結成し、洋風彫刻の普及に努力を重ねました。また、1898(明治31)年、東京美術学校(現東京芸術大学)に塑造科を創設して、初代の教授として、高村光太郎など後進の指導にあたりました。
作品制作の傍ら、しばしば館山に来遊した守敬は、やがて房州の持つ風土に魅せられ、永住を決意。1914(大正3)年、突然引退を表明し、一家をあげて移り住み、のんびりと生涯を過ごしますが、彼を慕い、館山を訪れる芸術家も多く、西の浜に別荘を求めた壁画家の寺崎武男(1882-1967)もそのひとりです。
1900(明治33)年のパリ万博で、みごとに金賞を射止めた『老父』の像(東京芸術大学所蔵)は、彼の代表作として有名です。これは植木職人をモデルにしたアカデミックな技法を駆使したモデリングの確かさから、明治期の洋風彫刻の頂点とされています。また、館山の地で制作された守敬自身の胸像は、生まれ故郷の岩手県立博物館で常設展示されています。
長沼邸は、館山市立博物館本館近くに現存し、今なお彼の彫刻道具のほか、原敬をはじめ、森鴎外、黒田清輝、高村光太郎の手紙など、彼の交友の広さを物語る貴重な資料が、東京に住む子孫に、大切に伝えられているそうです。
(南房総データベースふるさと百科*「広報たてやま」№420=1986年3月15日発行より)
■隠れた地域の文化遺産
館山小学校の近くには、日本の近代彫刻の原点を築いた彫刻家・長沼守敬が晩年住んだ屋敷がある。当時親しくしていた夫人と孫娘が震災で亡くなったことを悼み、北下台(ぼっけだい)の観音堂跡の堀口家墓石には、2人をモデルに長沼が製作したレリーフが刻まれている。
(『館山まるごと博物館』より)