ツアー・講演の感想

081121コープネット労働組合*舘洞 美奈子さま、皆さま

先日は、館山戦跡スタディーツアーの学習とガイドありがとうございました。

時間の関係で充分にコースを廻ることはできませんでしたが、参加者からはよかったという感想が寄せられています。

全員ではありませんが添付いたしましたので、ご一読ください。

座学のなかで案内のあった、「赤い鯨と白い蛇」の上映を考えています。

上映権をお持ちということでしたので詳しく教えていただきたいと思います。

よろしくお願い致します。

また、来年の6月頃にお会いできそうです。みなさんによろしくお伝えください。


【館山戦跡スタディツアー参加者感想】

2008.11.21

参加者:20名

事務局:02名 計22名


※館山がこんなにも歴史(戦争の跡を残した)あるところだとは知りませんでした。赤山地下壕はスケールが大きく、案内で紹介されている防空壕ではなく愛沢さんの説で要塞というのも「そうだなぁ〜」とうなずけた。暗さと静けさは怖さを感じるものでした。噫 従軍慰安婦」の碑の話も慰安婦の話もなんとなく知っている程度だったが深く掘り下げて聞くと戦争のむなしさ、悲しさをあらためて知りました。(軍人はまつられても慰安婦は何もない)午前の1時間の座学は本当に良かった。特に学んだのは歴史で何が起きた、何があったかを学ぶのではなくその背景を(想像)することが大切であること。戦跡を残すことをただ残せ!というのではなく色々な角度から伝えていくことが重要なのだということ。(憲法9条も同じように色々な角度で話していくことが必要)今回参加して戦争は絶対にしてはいけないし、何も生み出さないということをあらためて感じ、今後のライフワークの中にも役立てていきたい!


※噂に聞いていたが(何かの本で見た)館山でこんなにスケールの大きな戦跡があったとは思いませんでした。次回第2弾もあったらいいなぁ。戦跡が埋もれてしまわないようにたくさんの人に関心を持ってもらいたい、感動しました。


※有意義な一日でした。ガイドの方の説明も熱心で時間があればもっといろいろ見学したかったのですが残念でした。集合時間は7:15のはずが(いつものことですが)時間を守らない人がいたのはどうにかなりませんか。


※風邪は強かったけれど、お天気でとても良かったです。個人ではけして見学なんてしなかったと思います。戦跡ツアーを計画していただいたから見ることができました。あの岩を人の手で掘っていたのですね、みな無理矢理連れてこられてずっと寒くて暗い中で作業したんですよね。地下壕の奥行きすごいですね、全て人が作ったのですよね。私は戦後に生まれて本当に良かった・・・・。かにたの施設、登っていくのに大変。従軍慰安婦の石碑を見て、声にならない声、しぼりだした声「噫」むなしい、かわいそう、何の罪もないのにこっそりと生活しなければならなかったのですものね、お気の毒でした。とてもいい勉強でした。ありがとうございました。


※平和について勉強するのは高校生以来のことだと思います。前半の座学はとても良かったです。おもしろかったし、ためになったし、考えさせられること、感じるものがありました。こんな内容ならまた勉強したいと思いました。後半の見学は、シンと静まりかえった壕の美しいともいえる壁を彩る地層をみていると、現在の外観から感じる印象と終戦時期の喧騒や混乱を考えると複雑な思いがしました。自分が知らず知らず通り過ぎている街並みにも歴史の跡があり当時の人々の思いを伝えているかもしれないと考えました。


※館山というと海水浴のイメージしか知らなかったのですが、歴史を知って驚きました。また、NPOとして熱心に活動している方がいる一方で、行政の無関心もいまどきありえないと思います。美しい海を見下ろす山は、実は地下に戦争の爪痕をかかえている。日常をはなれて戦跡ツアーに参加するなんて私はなんて平和なのでしょう。この街で暮らしている人がいるというのに・・・・。良い一日でしたありがとうございました。


※館山の戦跡については全く知らなかったので勉強になりました。かにた村の名前は聞いていましたが、館山の山の上にあったのですね。まだまだ封印された場所、事柄がたくさんあるのでしょうね、まだ、戦争を知っている世代が残っているうちに正しく記録されて伝えて欲しいです。


※貴重な戦跡をめぐる機会を頂ありがとうございました。地域史が世界史と無関係ではなく、リンクしているということを実感でき非常に興味深いものでした。ガイドの方の戦後ではなく戦前という言葉が重く感じられました。


※戦争を語り継ぐ上でその土地に根ざした形で取り組むことの大切さを感じました。同時に、近現代史の視点、海外との関わりなどについても考えて行きたいと思いました。戦跡については、実際にこの目で見て、戦争中の状況について想像力を働かせることの大切さを感じました。また、戦跡を保存したり、証言を集め残すことの大変さ、大切さを感じました。今が再び「戦前」になってしまうことのないようがんばっていきたいと思います。


※愛沢伸雄、池田恵美子さんのお話がとても分かり易く、歴史のつながりの感動を覚えました。平和は貧困克復と普段の生活が末永くできるようにすることを痛感しました。人々は皆、それぞれの仕事、生活を通して平和的、友好的に生活してきたものだと思う。国家権力がかかわるとどうして戦争になってしまうのか。実は、館山は家内の実家なので、38年間通い詰めて来ましたが、身近にこのような活動があったのを知りませんでした。家族での話題が一つ増えました。


意見・要望(次回企画など)

★このような楽しい企画を広く知らせていくべき。そのヒントは、今日の池田恵美子さんの話にあったように!

★とうきょう・さいたま戦跡・平和マップは、これから一つ一つ行ってみたい、役に立ちそう。

★次回は一泊して、一日目10:00発で二日目14:00帰路に着く行程でジックリ見学してきたいですね。(廻るべきところは全て廻って)

★戦跡などについて実際に見て想像力を働かせる企画

★戦争体験を語り継ぐ企画

★近現代史の学習

★戦争と平和に関わる映画の上映

★最近の日米安保体制の学習

★さいたまと戦争との関わりがある場所・施設(軍需工場など)

★これからも個人では行けないけれども、ツアー企画だったら参加できるので企画していただきたい。

★長野県松代(一泊二日)・沖縄(二泊三日)くらいで!

★城を見たい(土から成る)!(歩いてみたい)

★松代も見たい!(沖縄もいいなぁ〜)

081116カモミールの会*西田洋子さま

昨日は、ありがとうございました。

熱意あふれた池田さんの講義に、ただただ圧倒されました。同行した生協の方も、池田さんのお話をもっと聞きたいと言っておられました。

カモミールの会の仲間達も、館山に行けて、池田さんのお話を聞いて歴史を学び、現地で戦跡を見て、ヘリコプターの騒音を聞き、学ぶところが多かったです。

案内をしてくださった、9条の会の皆さんの丁寧な説明に、心打たれました。


研修内容について、他の友人にも伝えたいと思います。


今後も、ご活躍を!

(千葉市女性センター 男女共同参画講座受講者)

081115九条の会・岬の皆さま

11月15日(土)好天気のもと、秋のイベントである館山の戦跡をめぐる「平和ツアー」が行われました。

午前中1時間半,「NPO法人安房文化フォーラム」からパワーポイントを使っての大変分かり易い事前講義を受けました。ホテルでの昼食後、同会ガイドさんの懇切丁寧な説明・案内で「赤山地下壕」など5カ所の戦跡をめぐりました。これらを通して、参加者一人ひとりが平和への想いをより深め、憲法9条の大切さをあらためて確認しあえた、大変有意義な一日となりました。


・・・・・

◎戦争体験者として当時のことが想い出され平和でなければとつくづく感じました。終戦直前、房州でも勝浦で同じように壕を掘るため、勤労動員で出た覚えがよみがえりました。規模は全然違いますが・・・・戦争反対!多くの方に知らせなくてはと心を新たに致しました。(大滝良子さま)


◎ 座学での講義を聴いて,歴史は継続しているのを感じた.幅広い活動の中で戦争のことなどを市民の中に広げているのに感心した。戦跡から感じ取るのは,旧日本軍が最後の最後まで敗ける戦に抵抗し続けたこと、・・・敗戦間際まで要塞を築いていたのは何であったのか?


◎海軍航空隊館山基地という戦時中からの存在は知っていたつもりでしたが,今日実際にお話を聞き,赤山地下壕をはじめ戦跡の数々を見て、改めて戦争の無謀さ,そのために費やしたエネルギーと莫大な人的犠牲など痛感させられました。絶対に戦争を起こしてはならないし,戦争を企んだりさせてはいけないと思いました。


◎ 戦争体験者として当時のことが想い出され平和でなければとつくづく感じました。終戦直前、房州でも勝浦で同じように壕を掘るため、勤労動員で出た覚えがよみがえりました。規模は全然違いますが・・・・戦争反対!多くの方に知らせなくてはと心を新たに致しました。


◎ 今回ツアーに参加させてもらって,房総半島,特に館山を中心に要塞化がすすめられていた事にあらためて驚きました。房総半島で地上戦が行われたらどのくらいの被害が出たか想像するだけでも恐ろしい。平和の大切さをあらためて感じました。映画「硫黄等からの手紙」で壕の中から上陸して来る米軍を攻撃する日本軍の一場面を思い出しました。


◎ 大変貴重な機会を体験させて頂き、ありがとうございました。もっと、若い世代に広めて欲しいと痛感させられました。


◎ 本日はありがとうございました。私の知らなかったことがたくさんあり,大変びっくりいたしました。館山に米軍が上陸したことは今日、初めて知りました。 いつまでも,平和を守っていきたいと心よりおもいました。


◎ 今日は大変お世話になりました。9条の会を通して,今回のような計画を催されてありがとうございました。どうぞ今後とも会の発展のために宜しくお願い申し上げます。かつて館山には2年程亡き主人と生活し,とてもなつかしく思い出しました。


◎ 風もなくお天気もまあまあで良かったですね。まず夕日海岸ホテルでの予備知識勉強会は私にとって,とても有効でした。 そしてまた,現地での説明は分かり易く、有意義な一日でした。NPO の方々の地道な活動、ボランティアには頭の下がる思いです。二度と戦争が繰り返されないよう,更めて戦争のない平和が長く続くことを願ってやみません。 昼食はいつもより食べ過ぎてしまいました。 帰途、道の駅で買った「いか墨たくあん」も美味しかったです。


◎海洋交通の要所としての館山の位置づけなど池田さんの話は,新しい発見や発想の転換など引きつけられるものがたくさんあり、時間が経つのも忘れるほどでした。赤山地下壕は,当時のままの姿で,館山で起きた地震によってできた断層の跡がはっきりと分かりました。館山9条の会やNPO法人の努力で当時地下壕を掘っていた人の証言が聞けたり、収穫の多いとりくみでした。館山夕日ホテルとNPOとの連携などとても大事なことだと想いました。息子と参加できたこともよかったです。 お昼のさんが焼き定食もおいしかったです。


◎「夏草や強(兵)者どもの夢の跡」、日常のくらしに中に9条の大切さをあらためて感じています。戦争に置ける様々な“負の遺産”を学ぶなかで、歴史の重みを感じました.本日はありがとうございました。


◎午前中のホテルでの池田さんのお話で,館山についての地理的歴史的な全体像をつかむことができました。池田さんのお話はとても分かり易く、ぜひ、子どもたちや若い人たちに聴かせたいと思いました。午後の戦跡巡りで,特に印象に残ったのは赤山地下壕です。つるはしの跡が残る天井や壁を当時どんな人たちがどんな思いで掘り進めていったのか、きっと過酷な作業だったことでしょう。 戦後、「731部隊」の生き残りの方がこの壕の中で、40年もの間、キノコ栽培をされていたそうで、戦争のためにつくられた施設が平和利用されていたことを知り、救われた気がしました。


◎始まる前は,あまり気が進まないなあと思っていたが,始まってみると案外楽しくて,こんなのも悪くないなと思った。さんが焼き定食はうまかった。最後はゲジがいっぱいいて嫌だった。私の高校では,2年の時に修学旅行をやる。長崎、広島、沖縄(?)へ行く。だからどうということはないが,今回のことは、そういうことの下見になるだろう。今回はよい経験になった。またこういう機会があれば、参加してもよいかもしれない。

P.S.)今世界経済は混乱しており、日本も影響を受けている。世界大戦が起きなければよいと思う。世界大戦は起きないと思うが・・・・。さらにPS私が平和の証しだと思うことは、何にも考えずに落書きができて、学校で授業中に寝れることだと思う。(参加した高校生)

081018東京湾海堡ファンクラブ*内田正伸さま

「館山戦争遺跡」見学会に参加して


2008年10月18日に行われた題記見学会に参加しました。参加者は、館山駅に10時ごろ集合し、マイクロバスに乗り込みました。最初に市内のホテルに行き、ここで「館山戦争遺跡」の説明を受けました。説明者は、NPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢氏で、戦時中の新聞などの写真パネルなどが掲示されていました。館山は硫黄島と密接な関係があり、米軍が上陸した硫黄島での戦闘で館山で訓練を受けた多くの兵士が戦死したとのことです。

館山に15年戦争の遺跡があるというのは、浅学の身には初耳でした。

「たてやま夕日海岸ホテル」で昼食をとりました。地魚サンガ焼き定食が美味でした。食後にマイクロバスにのって遺跡めぐりが始まりました。最初に着いた所は、赤山地下壕で海上自衛隊館山基地の近くにあります。総延長約2㎞の地下壕の一部と燃料タンク基地跡を見学しました。ほとんど素堀りのまま使用されたそうで、ツルハシの痕がのこっています。建設の資料が無いそうで、建設の由来は全く不明だそうです。中はジメジメした感じがなく乾燥しており、天井も高くて普通の姿勢で歩く事ができました。数少ない証言から推察して、全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕ではないか、とのことでした。

この近くには敵機から戦闘機をかくすための格納庫「掩体壕」があります。またマイクロバスに乗って、128高地「戦闘指揮所」「作戦室」「地下壕」、さらに、「噫従軍慰安婦石碑」を見学し、最後に山の中に入り込んで洲崎第二砲台を見学、さらに民家の庭にある砲側庫(爆弾をいれておく庫)を見学しました。16時30分館山駅で解散しましたが、普段忘れている第2次世界大戦を肌身に感じた一日でした。

蛇足ながら、日本全国に残っている戦争遺跡について調査した本(編著=戦争遺跡保存全国ネットワーク、発行=平凡社出版)が発刊されています。


東京湾海堡ファンクラブ会報№24より

081018東京湾海堡ファンクラブ*高橋悦子さま

お世話になっております。

見学会の節は、たいへんお世話になり、ありがとうございました。

皆さまの熱心な活動に感動いたしました。

参加者から、「とても有意義な体験をした。」と、いくつも感謝のメールが届いております。

参加者を代表して御礼申し上げます。

愛沢代表、ガイドしていただきました小沢さん、斉藤さんにもよろしくお伝えください。

東京湾海堡ファンクラブでは、東京湾砲台群の世界遺産登録を目指して活動してまいります。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

第一海堡、第二海堡への上陸が可能になった日には、是非ともお越しください。

(現在は第一海堡・第二海堡ともに上陸できません。)

東京湾で連携して、大きな動きになることを期待しています。

080913大東文化大学生(教育学科平和ゼミ)*田中裕介さま

先日は、お忙しい中、私たち杉田ゼミナールの館山平和学習合宿のためにお時間をいただき、

まことにありがとうございました。

私は、今回の合宿で初めて館山を訪れました。

当日はなんとか天候にも恵まれ、海と山、館山の豊かな自然を楽しむことができました。

しかし、館山という地は、豊かな自然だけでなく、私たちに普段の生活からは実感することの難しい、

「戦争」の跡を見せつけてくれました。館山の戦争遺跡は、戦後63年経った存在、

住民の生活の中に埋もれてしまっているように感じましたが、それら遺跡の存在感は今なお健在で、

赤山地下壕や射撃場跡地では戦争の跡を生々しく肌で感じることができました。

また、池田さんや愛沢さんのお話を聞き、伝えることの大切さも強く感じました。

これをきっかけに今の自分に何ができるのか考えてみようと思いました。

また、ゼミとしての今後の活動にも良い刺激にしていきたいと思います。

私たち杉田ゼミナールも後期日程が始まり、今回の館山合宿で感じ、学んだ多くのことを

これっきりにすることなく、今後の学習に繋げていきたいと思っています。

秋冷、日増しに加わります。お体に気をつけてお過ごしください。

080816専修大学文学部歴史学専攻新井勝紘ゼミの皆さま

*blogアルバムはこちら。


前期のゼミでも告知した通り、8月12日火曜日に千葉県館山市に行ってきました。都合が合わずに来ることの出来なかったゼミ生もいましたが、このブログを読んでくれればと思います。

まず最初に、NPO法人安房文化遺産フォーラムの代表である愛沢伸雄さんと副代表である池田恵美子さんに会いました。池田さんがスライドを使いながら館山の歴史について話してくれました。愛沢さんは、かにた村にある「噫(あぁ)従軍慰安婦」の石碑を見て「このままではいけない。」と思ったそうです。貴重な話をたくさん聞くことが出来ました。ありがとうございました。

昼食後に「赤山地下壕跡」に行きました。

「赤山地下壕」とは、太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕の一部が館山海軍航空隊の防空壕として使われていた。いつ頃作られたかということは、赤山地下壕に関する資料がほとんどなく、はっきりしたことはわかっていない。合計した長さが1.6Kmあり、全国的にみても大きな壕である。終戦の日まで建設工事が行なわれていたという証言もあるため、未完成であることは確かです。(パンフレットを見て作成。)

夏休みということもあり、家族連れの人や、年配の団体の人がいました。ヘルメットを被って、いざ中へ・・・。中は思った以上に冷えていて、半袖では寒いくらいでした。外との温度差がすごかったです。見学ルートには電気が付いていますが、それ以外の場所は真っ暗です。間違えて入った場合は確実にまずい状況です。中は非常に入り組んでいます。未だに謎が多い壕であることは確かです。

次に向ったのは「かにた婦人の村」です。

「かにた婦人の村」とは、婦人保護長期収容施設です。池田さんの話によると、各都道府県に保護施設というものはあるそうで、その中でも重度の障害者の方が「かにた村」へ来るということです。1965年に設立し、国有地であった場所を約1億円で買い取ったそうですが、国はほとんどお金を出してくれなかった。世界中のクリスチャンから援助が募ったということです。

「かにた村」を訪れた理由は、この敷地内に「噫従軍慰安婦」の石碑があるためです。「かにた村」がある場所も高いですが、石碑がある場所もさらに小高い場所にあります。(「噫」とは、苦しくて声が出ないという意味だそうです。)

もう1つ、普段は見学できない場所である「128高地」の「戦争指揮所・作戦室」の地下壕にも行きました。先に行った「赤山地下壕跡」とはまた違い、少し状態が危ないようです。この壕は3層説があるようですが、入った場所が1階とすると、地下は水が溜まり、とても行ける状況ではないようです。(2階も行けません。)見学している際も、歩くと地面から水が出てくるような・・・危ないです。天井には龍が彫られていて、何のために彫られたのか謎だそうです。ガイドさんもしきりに「ここは、あんまり来たくないんだよなぁ・・・。」ということを言っていましたので、危険なのかもしれません。

次に向ったのは「洲ノ埼海軍航空隊 射撃場跡」です。この場所は、全国でただ1つの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機に関わる専門技術を学ぶ養成機関だったそうです。通称「洲ノ空」と呼ばれる施設。射撃の的(射撃場照準壕跡)を置いた場所も見ましたが、壁が崩れてきていました。ここも少し危ないそうです。戦争遺跡の保存は難しい問題であるようです。銃弾の跡も残っていました。

その次は「戦闘機用掩体(壕)」に行きました。どこにでもある野原の場所にトンネルのような形をしたものがありました。これは、戦争末期に空襲から戦闘機を守るために作られた「掩体壕」と呼ばれている格納庫だそうです。この壕の近くに真っ直ぐな平らな道がありましたが、昔はもっと横幅があり、滑走路だったようです。しかし、戦争末期にはガソリンも不足し、格納庫に入れる際は人の手で運んでいたとガイドさんが話していました。飛行機を人の手で運ぶなんて・・・現在の飛行機と比べれば小さいですが、それでも車よりは大きいわけで、大変な作業だったのではないかと思いました。

最後に向った場所は、「大巌院」というお寺にある「四面石塔」を見に行きました。これは1624年に建立された石塔で、インド・中国・朝鮮・日本の言葉で「南無阿弥陀仏」と刻まれています。特に朝鮮文字は初期ハングル語のもので、現在使用されていない文字があるそうです。

朝7時に川崎集合で最後に見学した「大巌院」で16時頃でした。1日を使って、かなりの戦争遺跡を見学することが出来たと思います。愛沢さん、池田さん、そしてガイドをしてくださった方に感謝です。お隣の県である、千葉にこんなにもあるとは想像もしていませんでした。そして企画をしてくださった院生の小薗先輩、運転を引き受けてくださった宮崎先輩、お忙しい中、本当にありがとうございました。感謝感謝です。そして今回参加できなかったゼミ生も、次の機会で参加してください。

080628和光大学・歩く平和学*岩本さま

土曜日の見学、大変有意義でした。はじめて見るウミホタルの妖しい光や、まさに土地に刻まれた戦争の爪あとに、感じ入ることが多々ありました。

先ほど、福岡の父(岩本照夫、大正14年12月26日生まれ)に電話を入れてみました。「館山海軍航空隊」の昔話をしてくれましたので、ご紹介いたします。思わぬ長電話になりました。館山の人に知らせてあげるといったら喜んでいました。必要あれば自由にお使いください。


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館山海軍航空隊といえば、自分が最初に覚えた航空隊の名前だった。昭和10年ごろ、台湾・花蓮港の陸軍飛行場に、館山から、複葉の13式艦上攻撃機と、90艦上戦闘機が来た。全部で40機くらい来たようだ。飛来の予告があり、子供たちは飛行場に見に行っていた。すると、敏捷な戦闘機が3機で上空500メートルから300メートルあたりを旋回し、こちらに向かって次々と急降下しては反転上昇することを繰り返すデモ飛行を行った。エンジン音が怖くて、地面に伏せた。女の子たちはたまげて逃げていた。これが「艦橋掃射」のスタイルということは後で知った。複葉機の方は特に何もせずに、次々と着陸した。

その日の6時ごろ、親父(岩本清、昭和15年に数えの40で没)が、木材会社の社宅に海軍兵を三人くらい招き、風呂に入れた後、花蓮港で一流とされていたカフェ「タイガー」にタクシーで連れて行って飲ませた。出かける前に士官が点呼に来て、兵隊に厳しく指示をあたえる口調が、まるでいじめているかのように、子供心に感じられた。航空兵は操縦や機上射手の軍曹くらいの人で、中に18歳の田中兵曹という人がいたのを覚えている。18歳というと予科練だったのかもしれない(陸軍の少年飛行兵は遅かったが、海軍は早かった=照夫はその後、陸軍少飛12期=)*。

航空兵たちは自分(照夫)が寝た後にカフェから戻って一泊し、翌朝には再度将校がやってきて点呼をとった。父(清)は脇で神妙にしていた。「何時にバスが来るから忘れ物のないように」といったことを伝える口調がやはり厳しく、いじめている感じがした。

小学校の校庭で朝礼があっている時。体操が終わり、はげ頭の校長が講話をしている最中に、離陸する飛行機の爆音が響き渡り、頭上を飛行機が飛びだした。子供は大喜びで校長の話どころではなくなった。

この時の館山航空隊は、黄海の空母を飛び立ち、花蓮港経由で高雄まで行った、海上航法能力の海軍初となった長距離訓練だったことを、後になって知った。


*海軍の予科練は昭和5年に出来たとあります。

http://www.yokaren.net/modules/tinyd0/


その他

飛行場の立地に関しては『飛行場設定教範』というパンフレットがあり、航空航法、土地の風向きの性質をにらんで造成することなどを習った。ただ陸軍はフランス流だったのか、飛行場は四角で、吹流しの向きで離着陸を行っていた。それでも、主滑走路はこっち向きくらいは決めてあった。

海軍は燃料や爆弾で重く、揚力のない状態から空母を飛び立たなくてはならないため、飛行場の立地は陸軍よりも厳密だったのだろう。

渡洋爆撃の「中攻」は「中型攻撃機」の略。その後、一式陸攻(陸上攻撃機)が出てから、96陸攻と呼ばれるようになった。


以上が岩本照夫の昔話です。ご案内いただいた射撃調整場には、映像にもあった大型の機銃弾(私の手元のサンプルを取り出してみましたが、やはり20mmでよいと思います)の他に、小型のが刺さっていたようでした。ノギスがあるとよかったのですが。こちらは7ミリ7で、いずれも徹甲弾か曳光弾だろうと思います。壁面におわん位の穴があいていたのは、炸薬入りの7ミリ7だった可能性があります。あそこで零戦の、弾道の違う20ミリと7ミリ7を収束させていたのでしょう。将来、出来るものであれば整備の際に、きちんと考古学的な発掘をしてデータを取りたいものだと思ったことでした。


長くなりました。今後ともよろしくお願い申し上げます。