お知らせ

布良という聖地へ行こう(芸術散歩バスツアー他)

*布良の「小谷家住宅」公開見学日

・7月14日(土)10:00〜12:00
・7月22日(日)10:00〜12:00
・8月5日(日)13:00〜16:00
・8月19日(日)13:00〜16:00

◎ 送迎はありません。

館山駅からJRバス関東で20分、

「安房自然村」下車、徒歩5分。

青木繁が滞在した「小谷家住宅」は館山市指定文化財ですが、ご高齢の小谷家当主ご夫妻がお住まいの住宅のため、通常は一般公開されていませんのでご注意ください。

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*館山の芸術・文学散歩バスツアー

参加費=2,000円(昼食・資料代)要予約
・9月1日(土)10:00〜16:00
・10月6日(土)10:00〜16:00
集合・解散=JR館山駅西口

古くから画家や文人墨客に愛された風光明媚な南房総・館山は、多くの芸術や文学が生まれています。青木繁《海の幸》をはじめ中村彝《海辺の村(白壁の家)》など多くの画家が描いた布良は、林芙美子が青木を題材に書いた小説『夜猿』や高田敏子の詩『布良海岸』の舞台でもあり、岬を越えた白浜では若山牧水が「白鳥や哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」を詠んでいます。歌舞伎や人形劇にもなった『南総里見八犬伝』は実在した戦国大名・房総里見氏がモデルになりました。どこをめぐるか、乞うご期待!

宿泊プランをご希望の方は、翌日、館山を代表する戦争遺跡「赤山地下壕(館山市指定文化財)」のガイドサービスもご利用いただけます。詳しくはお問い合わせください。

【房日】120603*館山で没した林栄之助

館山で没した林栄之助

明治期に印刷業・うちわ産業に影響
関係者が資料提供呼びかけ


明治時代に、尋常小学校などの辞書編纂に携わり、房州うちわ生産や館山の印刷業振興にもかかわったとされる林栄之助。館山で没し、同市安布里の源慶院に墓があるが、栄之助の足跡を明らかにしようと、源慶院の小池宏学住職ら関係者が、資料発掘への協力を呼びかけている。

小池住職や、調査を行っているNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄さんによると、栄之助は美濃岩村藩の江戸深川屋敷にいたとされる林角助の子として生まれた。明治10年(1877)に、妻のち賀とともに、当時の北條町に転居。同24年に他界した。館山へ転居した理由は分かっておらず、生年月日も不明だが、墓石から58歳で亡くなったことがわかっており、天保4年(1833)に出生したらしい。岩村藩最後の藩主、松平能登守の家臣で維新後、東京士族となった。

全国で広く活用された「高等小学読本字引」「尋常小学読本字引」ほか、明治の三筆と称された書家の日下部鳴鶴が題字を書いた「篆書参考 実用新選字典」を編纂。これらは、大学の図書館や国立国会図書館に保管されているという。

さらに栄之助の死後、明治30年に印刷された北海道の地図に、栄之助の名前が印刷されていることから、幕末に陸軍奉公を務めた能登守が管理していた日本地図を、許可をもらって編集し版権を所有して印刷、発行していたのではないかという。

栄之助と交流のあった長尾藩士が、明治16年、栄之助の自宅近くに印刷業を開業し、栄之助の指導を受けていたと見られていること。また丸亀うちわで知られる丸亀藩京極家と岩村藩松平家、さらには家臣の栄之助も交流があったことから、栄之助がうちわ産業の接点となったと推測され、房州うちわの製造技術や、印刷技術の振興につながったとしている。

栄之助編纂の字典や関連資料に心あたりのある人は源慶院(0470-22-2923)へ。

 

(房日新聞2012.6.3付)

青木繁「海の幸」オマージュ展

詳細はコチラ

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Blog安房国再発見


■東京展

・日時=2012年6月11日(月)〜16日(土)11〜19時(最終日は17時まで)

・会場=銀座ぎゃらりぃサムホール

(東京都中央区銀座7-10-11日本アニメーションビル2F)

・主催=NPO法人青木繁「海の幸」会

・後援=館山市・館山市教育委員会



■館山展

・日時=2012年6月26日(火)〜9月2日(土)9〜16:45

・会場=渚の博物館:館山市立博物館分館

(千葉県館山市館山1564-1“渚の駅”たてやま)

・主催=NPO法人青木繁「海の幸」会、館山市・館山市教育委員会

・後援=福岡県久留米市

・協力=青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会、NPO法人安房文化遺産フォーラム



【関連事業】
①ギャラリートーク

・講師=佐々木豊(洋画家)・ワシオトシヒコ(美術評論家)

・日時=2012年7月14日(土)13:30〜15:30

・会場=青木繁「海の幸」オマージュ展館山会場

②講演会(ふるさと講座)「夭折の天才画家青木繁」

・講師=植野健造(美術史家・福岡大学教授)

・日時=2012年7月22日(日)13:30〜15:30

・会場=館山市中央公民館(館山市北条740-1)

③図書館:青木繁「海の幸」特設コーナー

・期間=2012年6月26日(火)〜9月2日(日)

・会場=館山市立図書館(館山市北条1740)


東京成徳大学:房総地域文化研究プロジェクト(公開講座)


詳細はコチラ

■第33回特別講義

・日時=2012年6月14日(木)10:40〜12:10

・テーマ=四面石塔の謎〜館山大巌院の古ハングル石塔

・講師=鶴巻孝雄(東京成徳大学)


■第34回特別講義

・日時=2012年6月21日(木)10:00〜12:10

・テーマ=房総里見氏と『南総里見八犬伝』〜市民による城跡保存運動の歩みを中心に

・第一部=八犬伝の舞台と里見氏ゆかりの史跡

・第二部=八犬伝のふるさと・里見のまちの城跡保存運動

・講師=愛沢伸雄・池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム)


【会場】東京成徳大学八千代キャンパスAVホール


【大学へのアクセス】

・京成本線勝田台駅・東葉高速鉄道東葉勝田台駅よりスクールバス


【申込み】参加費=無料

①FAX=04-488-7104

②はがき=〒276-0013千葉県八千代市保品2014

③Eメール=tsu-2001@tsu.ac.jp

【53】120626村上吉夫さん*ドーム球場の設計に携わって

知恵袋講座53回目

 

語り手=村上吉夫さん
テーマ=ドーム球場の設計に関わって

参加費=200円(茶菓子・資料代)

 

映画『赤い鯨と白い蛇』の撮影地になった旧小原家には、勝海舟や副島種臣の直筆の書などお宝がたくさん。現在のご当主・村上吉夫さんは、後楽園はじめ福岡ドームなど、全国のドーム球場の建設に関わってきた設計士です。

【新婦人】120531*初夏の南房総へ平和と歴史を考える

初夏の南房総へ〜平和と歴史を考える

「慰安婦」鎮魂の碑が語るもの

(新婦人しんぶん2012.5.31付)


5月19日、平塚らいてうの会が「らいてう忌2012」として企画した「南房総 館山日帰りの旅-らいてうゆかりの地を訪ね、平和と歴史を考える-」バスツアーに同行しました。

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らいてうと房総

参加者28人を乗せたバスが、東京湾アクアラインを通過し、千葉県に入りました。らいてうの会副会長の折井美耶子さんから「らいてうと房総についてのお話がありました。

「戦前の房総は、湘南よりも東京の人たちに親しまれていた地域。らいてうも1914年の『青鞜』3周年気年号発行のあと奥村博と御宿海岸へ、1921年には新婦人協会(※1)の活動で体調を崩し2人の子どもと竹岡海岸に静養に訪れていました」

館山の北条海岸はらいてうの父定二郎が老後に移り住んだ地でもあります。

(※1)婦人の社会的・政治的権利獲得を目指し、1919年に結成された婦人団体。

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沖縄戦の次は館山だった

館山市の歴史を学ぶ学習会の講師はNPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長の池田恵美子さん。

「1945年、沖縄の南部戦線には10万人の兵士が送り込まれ、さらに、太平洋に突き出した房総半島は沖縄戦後、真っ先に狙われると、安房には本土決戦に備えた7万人の兵士が配備されました」

兵士の食糧確保のため、花畑をつぶして、麦やイモ畑に換えろという「花作り禁止令」が出され、花の球根や種子は焼却されたといいます。

館山湾は世界でも有数のウミホタルの生息地ですが、この“ウミホタル”も軍事利用されていました。ウミホタルを乾燥させて、夜間に敵味方を判別するときや、懐中電灯の代用品として使われていた、と。また、終戦直後の1945年9月3日、アメリカ占領軍本体約3500人が館山に上陸。本土で唯一「直接軍政」が敷かれ、4日間ではあっても、館山を占領支配したことは、ほとんど知られていません。

学習会のあと、一行は海上自衛隊館山基地のすぐ近くにある「赤山(あかやま)地下壕(ごう)」に向かいました。壕といっても、中は広く、迷路のように入り組んでいて、たくさんの部屋にわかれていました。「地下壕というよりも、実戦のための地下要塞です」と、安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん。

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巨大な地下要塞

地下壕建設に関わる資料がほとんど不明のなかで、数少ない証言から、館山海軍航空隊の極秘の航空機開発や、実験施設、野戦病院のような医療施設があったのではと推定されています。

“御真影”(※2)がおかれていた奉安殿や、出入り口付近の大きな部屋は、壁がコンクリートで塗られていましたが、ほとんどは素堀りで、ツルハシの跡がくっきりと残っていました。

赤山壕からほど近い住宅街には「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる、敵機から戦闘機を隠すための格納庫があり、館山市内だけでも48の戦跡があります。

(※2)天皇・皇后の公式肖像写真

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女性たちが共同で暮らす

戦時下の抵抗拠点の一つとしてつくられた洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」「作戦室」壕は、婦人保護施設「かにた婦人の村」の敷地内にあります。

「かにた婦人の村」は、「社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設を」とキリスト教の深津文雄牧師が軍の払い下げ地に1965年に設立。特に障害の重い女性が入所する売春防止法(1956年)に基づく「長期婦人保護施設」です。

傷ついた女性たちが、家族として暮らす「かにた婦人の村」にはいまでも80人ほどの女性が暮らしています。

スイカズラの甘い香りが漂う敷地内には、寮のほかに、畑や、牛乳やパンをつくる部屋、協会があり、その一番高い場所に「噫(ああ) 従軍慰安婦」の碑があります。この碑は、村で暮らしていた城田すず子さん(仮名)の「慰安婦」体験の告白を受けて85年前に建てられたもの。

「軍隊がいるところには慰安所がありました。看護婦とみまがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦になるのです。兵卒用の慰安婦は1回の関係で50銭、また1円の切符を持って列をつくっています。・・・なんど兵隊の首をきってしまいたいと思ったかしれません。半狂乱でした。・・・どうか鎮魂の塔を建ててください」(深津牧師への手紙。「戦争遺跡」より)

最初は一本のヒノキの柱でしたが、2度とこういうことが起きないようにと、翌年には石碑が立てられました。

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1日かけて館山の戦争の歴史を学び、東京から近い千葉県の館山に、こんなにもたくさんの戦跡があること、「直接軍政」の場になったことを知り驚きました。「慰安婦」鎮魂の碑からは真の解決へ、歴史の真実をひとりでも多くの人に知ってほしいと感じました。

 

※「かにた婦人の村」「噫 従軍慰安婦」の碑は、NPO法人安房文化遺産フォーラムのスタディツアー参加者のみ見学が許可されている。

問い合わせ TEL 0470-22-8271 HP: http://bunka-isan.awa.jp/

ちばNPO・ボランティア活動ニュースレター№110届きました。

ちばNPO・ボランティア活動ニュースレターVol.110(2012年5月25日)

発行=千葉県環境生活部県民交流・文化課

http://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/npo/letter/documents/20120425.pdf


1=「市町村とNPOとの意見交換会」のテーマを募集します

2=企業・NPOによるパートナーシップ事業成果報告会ほか

3=事業報告書の提出について

4=ショートムービーコンテストのお知らせ・県民活動促進事業受託者決定のお知らせ

NPOだより№47〜2012.5.27

 

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◎定期総会のお知らせ

■知恵袋講座

・6/26(火)=村上吉夫さん「ドーム球場の設計に関わって」

・7/25(水)=河辺智美さん「安房からウガンダの交流・支援活動」

・8/28(火)=小谷福哲さん「青木繁が滞在した頃の小谷家」

■巡回展・青木繁《海の幸》オマージュ展

■ツアーガイド&講演のスケジュール

■第54回歴史教育者協議会全国大会千葉大会

■第16回戦争遺跡保存全国シンポジウム三重鈴鹿大会

【赤旗】120422*敵船への滑り台〜戦争遺跡を歩く⑧

敵船への滑り台〜戦争遺跡を歩く⑧

水上特攻挺「震洋」基地跡 千葉県館山市

(しんぶん赤旗2012.4.22付)

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東京湾口部に位置する千葉県館山市には、太平洋戦争末期、米軍上陸を想定して海軍特攻部の数多くの基地がつくられました。

東京湾沿いにある小さな漁港・波佐間は、水上特攻挺「震洋(しんよう)」の出撃センターでした。1人乗りの震洋は全長5メートル、重量約1トン。300キログラムの爆薬を積んでモーターボートのように敵の上陸用船舶に突進し、体当たりするためにつくられたものです。

砂浜にはコンクリート製の緩やかな滑り台が海に向かって突き出しています。震洋が海に発進するためのスロープです。南房総の戦争遺跡を調査している「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表は「搭乗員の多くは特攻に志願した18歳前後の若者たちで、波佐間基地には176人が配属されました」と話します。

滑り台から200メートルほど離れた山すその深い藪を分け入ると、防空壕のような穴がいくつも掘られています。ここから海岸まで運ばれ滑り台から発進する予定でした。

「1945年8月13日にやっと6隻が基地に配備され出撃態勢をとったなかで特攻隊員たちは敗戦を迎えました」(愛沢さん)

民家にまぎれてつくられた波佐間の特攻機地のように、南房総では軍事要塞と日常が一体化し、人々は厳しい監視下の生活を余儀なくされました。

その典型例が「花作り禁止令」です。南房総で盛んだった花作りは不要不急とされ、サツマイモや麦畑に変えられました。花の球根や種は焼却され、苗も抜き取られました。

しかし、農民たちはひそかに苗・種を隠し、今日の房総の花作りにつなげていったのです。「この民衆の抵抗も戦争に対する勇気あるたたかいの一つだと思います」(愛沢さん)

(寺田忠生 随時掲載)

 

問い合わせ「安房文化遺産フォーラム」 awabunka@awa.or.jp 0470(22)8271