親子でぶらり、赤山地下壕跡
戦時に想いはせ歩む250メートル
(東京新聞2013.7.4付)
こんもりと茂った赤山(標高61メートル)の麓にある入り口をくぐると、湿気を帯びた冷機に包まれた。
「夏場は22度。冬でも18度くらい。年間を通じてほとんど気温が変わりません」。案内してくれた館山市教文化財係長の杉江敬さんが話す。
壕が掘られた時期は定かではないが、館山に置かれた海軍航空隊の軍人ら3000人が避難、生活もできるように、昭和19年の秋ごろから工事が始まった、という説が有力だ。
幅10メートルほど、奥行き20メートル前後の「部屋」がいくつも、縦横に走る幅2メートルほどの通路で結ばれている。「部屋」の部分も含めて全長1・6キロだ。終戦まで堀られ続けていたといい、未完成のまま工事は中断したようだ。
「計画では掘られた壕の上に、さたに2層の壕を掘る予定だったとされます。上に向かって掘ろうとした痕跡も残っています」と杉江さん。「発電設備の跡がある、『地下壕で給料の計算をした』『服が大量に置かれていた』などの証言があります」という。
B-29による空爆はなかったが、艦載機による攻撃は受けた館山。戦局が厳しさを増す中で、壕にこもって業務をしていたことがしのばれる。
砂岩、凝灰岩が主体で風化しにくく、保存状態は全国でも有数だ。それでも崩落の危険があるため、現在公開されているのは250メートルだが、関東では最長だ。
「公開のための調査が入る前はマッシュルームが栽培されたり、子どもたちの格好の『秘密基地』になっていたようです。もうおくまでは入れなくなりましたが、貴重な歴史遺産を守っていきたいですね」と杉江さんは話している。(仁)
★ 赤山地下壕
千葉県館山市宮城192の2、JR館山駅からバス、みやぎ下車3分。入壕料一般200円、小中高生100円。午前9時半から午後4時まで。原則第3火曜と年末年始休壕。NPOによる有料ガイドあり。問い合わせは豊津ホール=電話0470・24・1911=へ。
ひとこと
国立歴史民俗博物館の林部均教授は、「戦争を考えるうえでいい場所だと思う。房総の海へ行ったらぜひ立ち寄りたいですね」と推薦。
● 足を伸ばせば
★ 洲埼灯台
館山市洲崎1043、JR館山駅からバス30分。洲埼灯台前下車5分。大正8年に点灯された高さ15メートルの灯台。東京湾に出入りする船舶の目印となっている。灯台は登ることはできない。近くに民間の有料駐車場あり。
★ 城山公園
館山市館山351の2、JR館山駅からバス、城山公園前下車5分。里見氏の居城だった館山城を整備した公園。眺望が開け、条件がよければ富士山も望める。芝生広場に土産処「里見茶屋」も。中腹には里見氏や安房の歴史を紹介する館山市立博物館がある。また、山頂の館山城では南総里見八犬伝に関する絵草紙、読本、錦絵などを展示、八犬伝博物館とも呼ばれる。共通観覧券は一般300円、小中高生150円。原則月曜休館。電話0470・23・5212.
赤山地下壕を無料ガイド
安房文化遺産フォーラム 毎月第1日曜日の午前中
⇒印刷用PDF
NPO法人安房文化遺産フォーラムによる、館山市指定史跡「赤山地下壕」の無料ガイドサービスが、観光客や市民らから好評だ。戦争遺跡として同市教委が2005年に史跡指定してからまもなく始めたもので、毎月第1日曜日の午前中、壕前に集まった人たちを案内している。
赤山地下壕跡は、全長1・6キロにも及ぶ全国的にも大きな防空壕。壕の建設に携わった旧海軍航空隊兵士の複数の証言から、敗戦色濃くなってきた1944年以降に建設工事が始まったことや、終戦の日(45年8月15日)まで工事が続けられ、未完成であることなどが明らかになっている。
同フォーラムによると、「館空」の機能を維持するための格納施設がつくられ、緊急の兵舎や医療施設として使用されていたという証言があり、地下壕内の形状から見て、基地の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫などの施設があったと考えられ、全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕であったと推察される。
この戦争遺跡を観光資源として活用しながら、多くの人に語り継いでいこう、と同フォーラムが、ガイドの練習も兼ねて少人数を対象に毎月第1日曜日に無料ガイドサービスをスタート。すでに10年近くを経過するが、ほとんど欠かさず継続。天候にもよるが、多い日には50人以上を案内することもあるという。2月2日が今度の無料ガイドの日で、「ぜひ利用してください」と同フォーラム。
予約不要で、豊津ホールで午前9時半から午前中いっぱい受け付けている。案内は無料だが、入壕料は、一般200円、高校生以下100円。
功績と精神を未来に
資生堂創業者区府原有信を語るつどい
(房日新聞2014/2/11付)
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館山市出身で資生堂創業者福原有信の歿後90年事業として、「ふるさと館山松岡の偉人、福原有信を語るつどい」が15日午後1時半から4時半まで、県南総文化ホールで開かれる。地元有志でつくる福原有信を語り継ぐ会、同市松岡区、NPO法人安房文化遺産フォーラムの3者が主催、房日新聞社など後援。福原の功績とその精神を地域の誇りとして、未来に語り継いでいこうという。無料。
当日は、資生堂企業文化部企業資料館の佐藤朝美氏が記念講演。安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長をコーディネーターに、福原勇さん(福原家の分家)、早川萬専さん(語り継ぐ会世話人、松岡区長)、早川政義さん(同世話人代表)、吉田茂徳さん(同世話人)、天野努さん(安房歴史文化研究会長)、愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)の6人が座談会形式で語る。
関連行事で、同日午前10時半から11時半に「福原有信のふるさと松岡を歩こう!」も開く。阿波特別支援学校前に10時20分までに集合し、松岡八幡神社、福原家跡、小塚大師(福原家之墓)を巡る。
福原有信は嘉永元年(1848)に松岡村(現館山市竜岡)の医者の家に生まれる。17歳で上京し西洋薬学を学び、海軍病院薬局長を経て、明治5年に日本初の調剤薬局「資生堂」を東京・銀座に開き、医薬分業の礎を築いた。房州白土を使った「福原衛生歯磨石鹸」を開発し、近代日本の公衆衛生に大きな足跡を残している。
また明治21年に帝国生命保険会社を設立し、水難事故の多かった漁村の救済にも貢献。同29年には安房銀行を設立し、ふるさとの経済振興にも大きな役割を果たしている。大正13年に76歳で他界した。
長女は館山病院の初代院長、川名博夫の妻となり、四女は日本資本主義の父といわれる渋沢栄一の次男に嫁いだ。館山病院は関東大震災で倒壊したが、福原の支援で療養型サナトリウムとして再建され、資生堂が窓口となって保養地館山の名を全国に広めた。
渋沢も虚弱児童の療養施設として館山養育院安房分院(現船形学園)を開いている。
問い合わせはイズミ野外学習サポート(0470-22-7586)へ。
昨日はお世話になりました。
本当に勉強になりました。
参加したおかあさんたちも心に打たれたものがあり、
今度は家族で地下壕に行ってこどもたちに何かを感じてもらいたいと言っていた方がいました。その時もぜひ案内してもらいたいといってました。
私も戦争とは遠い話のように捉えていたことを改めて感じ、とても身近に、そしてまだ続いている問題なんだと認識を新たにしました。
夜のニュースで慰安婦問題が取り上げられており、ニュースの見方が変わっていた自分に気づきました。
この体験をぜひさせたいと思います。
また来年度の事業の中にとりいれようと考えておりますので、ぜひぜひご教授ください。
本当におせわになりました。飯塚様、石井様にもよろしくお伝えください。
鈴木
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木更津市立波岡公民館
<歴史シンポジウム>
柏北部を街ごと博物館に
~エコミュージアムの提案
2014年2月22日(土)13:00~17:00
会場:柏の葉アーバンデザインセンター
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ふるさと館山松岡の偉人・福原有信を語るつどい
【福原有信・没後90年記念事業】
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福原有信は、1848(嘉永元)年に安房神社に近い松岡村(館山市)に漢方医の孫として生まれる。17歳で医学を志して上京、西洋医学を学び、医薬分業を提唱。1872(明治5)年23歳で日本初の洋風調剤薬局「資生堂」を銀座に開業。長女の嫁いだ館山病院の支援をはじめ、帝国生命保険や安房銀行(後の千葉銀行)を設立に関わり、日本と安房の近代化に大きな貢献を果たす。松岡八幡神社の鳥居には、明治44年に寄進した福原有信の名前が刻まれている。
2014年2月15日(土)
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【見学会】
10:30〜11:30安房支援学校前集合
松岡八幡神社=福原家跡=小塚大師(福原之墓)
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【シンポジウム】
13:30〜16:30 南総文化ホール小ホール
講演会
・佐藤朝美氏(資生堂企業資料館)
座談会
・福原勇
・早川萬専
・早川政義
・吉田茂徳
・天野努
・愛沢伸雄
・池田恵美子
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【主催】
福原有信を語り継ぐ会、松岡区、NPO法人安房文化遺産フォーラム
【後援】
館山市・同教委、神戸地区コミュニティ委員会、神戸区長会
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【関連行事】
・2月16日(日)=ヘリテージ見学会〜椿の館・小原家庭園
・2月16日(日)=シンポジウム「館山まるごと博物館」
・3月1〜3日(土日月)=ヘリテージ見学会〜青木繁ゆかりの小谷家住宅
⇒印刷用PDF
■ふるさと館山松岡の偉人・福原有を語る会
・見学会
・講演&座談会
■館山まるごと博物館〜文化遺産を活かしたまちづくり
・見学会(椿の館・小原家庭園)
・講演&シンポジウム
■青木繁《海の幸》誕生の小谷家住宅のひな祭り
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□明治大学平和教育登戸研究所資料館企画展「本土決戦と秘密戦」
□シンポジウム南房総・館山「小さな旅」
□シンポジウム柏北部を街ごと博物館に〜エコミュージアムの提案
□第47回千葉県歴史教育研究集会(船橋集会)
◆ツアーガイドのスケジュール
◎かにた婦人の村バザー
【講演抄録】「考古資料からみた安房神社成立の基層」覚書
古くから人の住んだ場所、海人集団首長の崇拝地か
安房歴史文化研究会会長 天野努
(房日2010.1.28)
安房神社の成立のもとはどういうことだったのかを考古資料から考えていく。
文献資料では忌部広成が書いたといわれる「古語拾遺」と、天皇の食膳を担当していた高橋氏による「高橋氏文」の2つの氏族伝承がある。今までは「古語拾遺」が多く語られていたが、最近の文献史学では新しい史料が発掘され、「高橋氏文」は史実を反映しているものだとされるようになった。
「高橋氏文」では▽安房のカツオと貝がセットで天皇の食膳に提供されていること▽高橋氏の祖先が天皇から「大伴部(おおともべ)」と呼ばれる部民を賜ったこと▽安房大神(あわのおおかみ)を御食都神(みつけかみ)として大膳職の祭神としていたこと—などが書かれている。
これまでの記述を証明するものはなかったが、731年の「類聚三代格」という文書の中に、「安房地方で安房大神を祀っていた女性たちが上京して宮中の御食都神を祀ることを命令されていた」ことを示す内容が見つかった。当時は安房神社は、安房大神と言われていたようだ。
これを考古学の資料からみるとどうなるか。
安房の漁村型集落遺跡の沢辺遺跡(南房総市白浜町)では、7世紀ごろの疑餌針が出ている。カツオの骨とウロコもたくさん出てきた。カツオ漁が行われていたのは確かで、「高橋氏文」の内容と符合している。
出土した貝はサザエが多いのだが、アワビオコシの道具も出ている。
平城京跡などから出土した木簡には、安房の「大伴部」がアワビを献上したことが記されている。出土木簡に書かれている「大伴部」姓は安房の人以外にはなく、このことからも「高橋氏文」の内容は史実だと考えられる。
一昨年、昨年と千葉大学の考古学研究室が、安房神社の境内にある安房神社洞窟を再調査した。洞窟のある場所は、6000年前の縄文海進で海が一番高くなった「沼1面」にあたる。出てきた一番古い土器は縄文前期。縄文海進が終わって陸化し、その段階で洞窟になっていたところに人が住み始めている。
安房神社の境内でも以前、縄文時代の土器が採取されたという。安房神社のある所に古くから人が住んでいた場所だ。
境内から出土して、安房神社が今も所蔵している高坏、5世紀のもので市の文化財に指定されているが、これが館山市沼の大寺山洞穴遺跡から出たものとまったく同じ特徴を持つ。安房神社のものは祭祀に使われたと考えられている。
大寺山の高坏は舟形木簡の副葬品だった。時代は同じ。形がまったく同じ高坏は、この2ヶ所以外では出ていない。大寺山では他に鉄の兜、短い鎧が出ている。これも5世紀のもの。短い鎧は房総では珍しいが、ふつうは古墳から出てくる。それが海岸近くの洞窟から出てきた。この遺跡に葬られた人々は、安房の海人集団の首長だと考えられる。
房総半島の中で、祭祀遺跡は(古代の)安房郡=注:現在の館山市、旧白浜町を主とする地域=に集中する。白浜の小滝涼源寺遺跡は4世紀後半からの遺跡だが、石製模造品と言われている剣や鏡が伴っている。祭祀が早い段階で行われていた。房総にはヤマトタケルの伝承もあるが、大和朝廷の東北支配にかかわる遺跡ではないかと考えられている。
5世紀の遺跡になると、土器を使った祭祀品が出てくる。
安房の地域には古代からの漁労民の集落があり、祭祀遺跡や洞穴遺跡がある。特に大寺山遺跡と安房神社境内に同様の出土品がある。安房神社のある場所というのは海人の首長に崇拝される、地域の人にあがめられる、そういう場所だったのではないか。
神社が形を持ってくるのは、天武天皇の時代の7世紀後半から。安房は5世紀ぐらいに大和朝廷の支配下に入っていく。当時の漁労種族、房総半島を回るときの水先案内人のような人々がいて、その中心的崇拝地が安房大神、それが安房神社になったのではと考えられる。
(本稿は平成22年1月23日に館山市コミュニティセンターで行われた同研究会公開講座の内容を要約・再構成したものです)
研究者ら可能性など探る 「館山まるごと博物館」でシンポ
(房日新聞2014.1.26付)
地域の自然遺産や文化遺産を「まるごと博物館」と見立てるエコミュージアムの手法が、市民による生涯学習として全国的に広がりを見せる中、館山市での取り組みを検証するシンポジウムが2月16日、市内のたてやま夕日海岸ホテルで開催される。この分野の第一人者による基調講演やパネルディスカッションをとおして、取り組みがどんな未来を創造できるのか、その可能性と課題を探る。
20年にわたり文化財保存運動を展開してきた「館山まるごと博物館」の取り組みは、実践的なモデル事例として注目されている。〝平和・交流・共生〟をまちづくりの理念として、文化遺産の保存・活用を呼びかけてきた同博物館の活動は、地域住民の絆を育むとともに、共通の歴史をもつ地域間の連携として、広域「まるごと博物館」のまちづくり交流に発展している。
その活動の中心的役割を担ってきたNPO法人安房文化遺産フォーラムと、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会が主催し、シンポジウムを企画。横浜国立大学大学院教授で日本エコミュージアム研究会前会長の大原一興氏を迎え、広く世界を見てきた同氏から「文化遺産を活かしたエコミュージアムのまちづくり」と題して基調講演してもらう。
この後、林浩二(県立中央博物館学芸員)、チョン・イルジ(神奈川大学助手)、杉江敬(館山市教育委員会生涯学習課文化財係長)、愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)の4氏をパネリストに話し合う。
午後1時半〜4時までで、参加無料で興味関心のある市民の来場を呼びかけている。
椿の小原家庭園 午前中に見学会
シンポジウムに先立って、同日午前10時から「椿の館」として知られる同市南条の小原家庭園の見学会が開かれる。参加希望者は、同所の観音寺前に時間までに集合する。
小原家は、築160年の和風建築で、離れは映画「赤い鯨と白い蛇」のロケにも使われた。三代前の当主・小原金治(1859〜1939)は、明治期に県議や衆議院議員を務め、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業株式会社の設立と経営に関わり、安房の近代化に大きな役割を果たした。
その孫の謹治(1910〜1999)は、館山市花となったツバキを700種類育てた研究者として世界に知られ、作付した新種は「布良」「相の浜」「山王」などと名付けられ10種類にのぼる。
シンポジウム館山まるごと博物館
〜文化遺産を保存・活用するまちづくり〜
⇒案内チラシPDF
【日程】2014年2月16日(日)13:30〜16:00
【会場】たてやま夕日海岸ホテル
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【基調講演】
・大原 一興 (横浜国立大学大学院教授)
「文化遺産を活かしたエコミュージアムのまちづくり」
【パネルディスカッション】
・林 浩二(千葉県立中央博物館学芸員)
・チョン・イルジ(神奈川大学助手)
・杉江 敬 (館山市教育委員会生涯学習課文化財係長)
・愛沢 伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)
・コーディネーター:池田 恵美子(同事務局長)
世界遺産(ワールドヘリテージ)をめぐる旅が人気となり、地域の自然遺産や文化遺産が見直されています。特に、1971年にフランスで提唱された「エコミュージアム」という考え方は、地域全体の魅力的な自然遺産や文化遺産を「まるごと博物館」と見立てて、市民による生涯学習まちづくりの手法として全国に広がっています。
なかでも、20年にわたり文化財保存運動を展開してきた「館山まるごと博物館」の取り組みは、実践的なモデル事例として各方面から注目されています。房総半島南部の地域像を見つめ直してみると、海を通じて先人たちが培った〝平和・交流・共生〟の精神が見えてきます。「館山まるごと博物館」ではこれをまちづくりの理念として、文化遺産の保存・活用を呼びかけてきました。この活動は、地域住民の誇りと絆を育むとともに、共通の歴史をもつ地域間の連携として、広域「まるごと博物館」のまちづくり交流に発展しています。
少子高齢化がすすむ地域社会において、「館山まるごと博物館」の取り組みは何をもたらし、どんな未来を創造することができるのでしょうか。広く世界を見てきたエコミュージアムの研究者や博物館の学芸員の話を伺いながら、その可能性と課題を探り、ともに話し合いましょう。
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【関連行事】
・2月15日(土)=ふるさと館山松岡の偉人・福原有信を語る会
・2月16日(日)=ヘリテージ見学会〜椿の館・小原家庭園
・3月1〜3日(土日月)=ヘリテージ見学会〜青木繁ゆかりの小谷家住宅
【参考】
・房日新聞記事2014.3.4
~高評価得た館山の実践~地域まるごと博物館シンポで