お知らせ

141025*木更津市男女共同参画フォーラム〜館山バスツアー

平成26年度第2回木更津市男女共同参画フォーラム

館山の歴史・文化遺産を巡るバスツアー

“平和・交流・共生”のまちづくりをめざして

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館山の戦争遺跡・文化遺産をバスで巡り、解説をとおして、“平和・交流・共生”の精神を学びます。自分の行き方や足もとの地域を見つめ直すとともに、暮らしや現代社会の課題についても考える機会になればと思います。ぜひご参加ください。

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【日程】2014年10月25日(土)8:30木更津市役所集合

【講師】愛沢伸雄・池田恵美子(NPO安房文化遺産フォーラム)

【日程】

・館山航空隊赤山地下壕跡

・講義「館山まるごと博物館」

・婦人保護施設「かにた婦人の村

・128高地「戦闘指揮所」壕

・「噫従軍慰安婦」碑

・四面石塔

【参加費】500円

【申込・問合】木更津市役所0438-23-7485

【房日】140912*ウガンダ支援続けて20年

ウガンダ支援続けて20年

安房の高校生ら関係者が交流会 館山

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NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は7日、安房地域の高校生らによるアフリカ東部のウガンダへの支援活動20周年を記念する交流会を、安房西高校で開いた。関係者ら40人が集まり、活動を振り返ったあと、記念としてウガンダに寄贈するブロンズ像が披露された。

支援のきっかけは、当時、旧安房南高の教諭だった愛沢代表が、孤児の救済活動を行うNGOウガンダ意識向上協会の代表、スチュアート・センパラさん(57)に出会ったこと。ウガンダでは、内戦でエイズがまん延し孤児があふれていることを知った。

愛沢代表は、生徒らにボランティア活動を提案し、94年に支援が始まった。その後、安房高JRC部を経て、安房西高JRC部へと受け継がれて、支援バザーや募金などの活動が続けられている。

安房南高時代の資金援助を原資に2000年には、ウガンダの首都カンパラ市に職業訓練施設「安房南洋裁学校」が完成。交流の象徴として同南高の校章が掲げられた。

この日の交流会では、節目に合わせて作成した記念誌を、高校生や活動を支えた同窓芳誼会をはじめとする出席者に配布して、活動を説明。活動に関わった卒業生や支援を受けたウガンダの子どもたちの声も紹介された。

活動紹介の後には、20周年を記念してウガンダに贈られる、元南高の美術教師で彫刻家の船田正廣さん(76)が制作した、制服姿の安房南高の生徒立像が披露された。寄贈にあたり、安房西高JRC部から約5万円、館山信用金庫からふるさと応援ファンドとして10万円の助成もあった。

愛沢代表は「小さなことから始まった生徒たちの思いが、人と人をつないで素晴らしい活動になった。20年続いていることに感謝するとともに、今後も続いてくことを願っています」と思いを語った。

【房日】140716=青木繁《海の幸》フォーラム

青木繁《海の幸》フォーラム

布良で誕生した名画を考える

(房日新聞2014.7.16付)‥⇒印刷用PDFはこちら

明治期の洋画家。青木繁の代表作「海の幸」誕生の聖地として館山市布良に残る小谷家住宅の保存運動に取り組む、「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)が27日、南総文化ホール関係者を迎え、「青木繁≪海の幸≫フォーラム」を開催する。基調講演やパネルディスカッションをとおして、明治の漁村で誕生した名作「海の幸」を考える。

青木繁が布良を訪れて今年で110年を迎える。同会の地道な活動により、その節目の年に小谷家住宅の修復工事も始まり、2年間の改修が終わる平成28年春には一般公開も予定されている。とはいえ、保存費用はまだ目標に達せず、引き続き支援を呼びかけるとともに、青木繁の力を借りて館山の地域ブランドに磨きをかけよう、とフォーラムを企画した。

フォーラムは午後一時半から小ホールで。第1部は、海の幸を所蔵する福岡県久留米市の石橋美術館の森山秀子学芸課長が「青木繁を通してみる文学と美術の交流」をテーマに基調講演。第2部では、小谷家当主の小谷福哲さん、「海の幸」会理事で女子美術大学の吉武研司教授、労働大臣認定カラースキャナー1級技能士で「海の幸」複製画を制作した島田吉廣さn、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん、同事務局長の池田恵美子さんがパネリストとして登壇。「明治の漁村・富崎から≪海の幸≫誕生を探る」をテーマにディスカッションする。参加費無料(資料代300円)で、多くの来場を呼びかけている。

また、このフォーラムに続いて8月5日から、渚の博物館と館山コミュニティセンターで、青木繁「海の幸」オマージュ展が開催される。銀座・京都・福岡・田園調布と並んで館山展として開かれるもので、著名な美術家の作品が一堂に会する。

【朝日】140908=高校生、ウガンダの子ら支援20年

高校生、ウガンダの子ら支援20年

安房地域の3校で活動次々引き継ぐ

(朝日新聞2014.9.8付)

高校生、ウガンダの子ら支援

安房地域の3校で活動次々引き継ぐ

安房地域の高校生が、アフリカ・ウガンダの子どもたちの支援を始めて20年。統廃合や校内事情で3校をリレーした活動を記念する「つどい」が7日、安房西高(館山市)で開かれた。

この日、参加したのは約40人。活動を続けている安房西高2年で青少年赤十字部長の進藤美紅さん(16)は「生まれる前からあったのですね」と驚く。さらに「地球の裏の人とつながる活動を引き継ぎます」。ウガンダ支援を安房南高(同市)で始めた看護師の川名麻紀さん(37)は「小さな力でもやるんだ」という気持ちで始めた。20年も続くなんて」と語り、「安房西の皆さんもそんな気持ちで続けてください」と励ました。

安房西高のバザー売上金約5万円などと共に、しない在住の彫刻家船田正廣さん(76)が制作したブロンズ像「安房南高校生徒像」をウガンダに贈ることになった。最初に支援した安房南高は女子高なので、セーラー服姿の立像。船田さんは「ウガンダで身近な所に置き、みんなに手で触れてもらいたい」と話す。

活動が始まったのは1994年。集会を主催した安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(62)は安房南高の教諭で、来日していたウガンダ人スチュワード・センパラさん(57)との出会いがきっかけだった。

センパラさんは内戦中に難民キャンプで働き、後に「ウガンダ意識向上協会」を設立して代表に。子どもの教育や健康管理、食糧供給を手掛けている。安房南高校の生徒が贈り続けた募金などで、同協会は2000年、腫とカンパラに職業訓練校を建てた。校名の「安房南・洋裁学校」に感謝の気持ちが表れている。

安房南高が統合された08年、統合先の安房高(同市)の青少年赤十字部に活動が引き継がれ、そこが活動をやめた昨年、今度は安房西高へと活動が移っている。

(田中洋一)

140928*第20回安房地域母親大会

〜生命を生み出す母親は、生命を育て、生命を守ることを望みます〜

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日時=2014年9月28日(日)資料代500円(交流ビースのみ参加は不要)

内容

【第一部】館山市コミュニティセンター
・交流ブース
・ひろば➀「命をつなぐ食」
・ひろば②「困った!を笑顔に変える子育て」
・ひろば③「“平和の文化”の種を育もう」

【第二部】南総文化ホール小ホール
・ひろば報告&房す便で憲法を!
・李政美コンサート〜つながるいのち〜

チケット取扱=宮沢書店本店、鴨川書店

主催=第20回安房地域母親大会実行委員会

【構成団体】
・国連NGO新日本婦人の会館山支部
・国連NGO新日本婦人の会鴨川支部
・安房蓮協安房地区女性連絡会
・全日本年金者組合安房支部
・NPO法人安房文化遺産フォーラム

【あさひふれんど】131101*2人の繁(ワシオトシヒコ)

2人の繁

ワシオトシヒコ

(あさひふれんど2013.11.1付)

館山市図書館創立70周年記念の私の拙い講演を無事に終えたが、当日前までの下調べで、意外な事実がわかった。

館山は、房総半島の南端に位置する常春のような地。戦前には結核療養所もある静養先として、戦後から現在へ至っては主に観光景勝地として、多くの芸術家、文化人たちが移住したり、往来したりしている。そのなかでも私がもっとも話題にしたいのが、二人の「繁」だ。

一人は、いわずとしれた日本の重要文化財「海の幸」を布良の小谷家で描いた明治時代の早逝の洋画家、青木繁。もう一人が、若山繁。本名ではまったくわからないだろうが、雅号的にはなんと、あの〝漂泊の歌人〟若山牧水なのである。

牧水は、青木繁の三つ歳下。旧知の間柄ではないけれど牧水は自身の何番目かの歌集に、青木の作品を挿画として使いたいと第三者を通し、申し出ている。実現しなかったものの、「海の幸」の舞台の布良をぜひ観たいという願望が生じ、1907(明治40)年、複雑な関係の恋人園田小枝子を伴い、訪れている。その折に詠んだ作品三首の白御影石の歌碑一基が、隣接する白浜町の根本海岸の国道沿いに立っている。

は、牧水の代表作だけでなく、私自身の処世の姿勢を方向づける光ともなっている。

それに。この大らかな歌いぶり。

一方の青木も、すでに絵描き仲間たちと布良をめざし、恋人の福田たねも加わっている。二人の「繁」にとっても館山は、まさしく、恋の炎の地だったのだ。

(あさひふれんど千葉 2013,11,1)

【房日寄稿】140722*青木繁《海の幸》フォーラムへのお誘い

青木繁フォーラムへのお誘い

青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会

(房日新聞2014.7.22付)

今年は、画家・青木繁が房州布良を訪問し、《海の幸》を描いてから110年目にあたります。その節目に念願がかない、青木繁《海の幸》誕生の家・小谷家住宅(館山市指定文化財)の修復工事が始まることになりました。小さな漁村のまちづくり活動として10年の取り組みになりますが、この間、多くの皆様にご支援をいただいてきたことを心より御礼申し上げます。

まず、小谷家のご家族におかれましては、私有財産にもかかわらず「地域活性化と日本の美術振興に寄与できるなら、古い我が家をどうぞ使ってください」というご英断をしてくださいました。これから2年間の修復工事が終われば、平成28年春に築120年の母屋がよみがえって一般公開に供することになります。ご家族の住居は物置を増改築した小さな建物に移っていただき、たいへんなご不便をおかけいたします。改めて感謝と敬意を表するとともに、市民の皆様にも深くご理解いただきますようお願い申し上げます。

また、平成22年に発足したNPO法人青木繁「海の幸」会におかれましては、大村智理事長様をはじめ全国の著名な画家や美術関係の皆様が、小谷家住宅の修復基金のために力を尽くしてくださっています。東日本大震災で寄付が困難になりましたが、全国巡回で青木繁「海の幸」オマージュ展を開催し、売上の一部はチャリティ基金と納めてくださっています。オマージュとは尊敬を意味するフランス語だそうですが、青木繁《海の幸》誕生の聖地として小谷家住宅を後世にのこしたいと思ってくださることは、館山市民として本当に有難いことと感謝しております。3年目となる平成26年のオマージュ展は、銀座・京都・福岡・田園調布と並んで、たてやま渚の博物館と館山市コミュニティセンターを会場に館山展が開かれます。ご高名な先生方の作品が一堂に会するばかりでなく、伝統ある館山美術会の皆様が協賛される素晴らしい機会として、多くの皆様にご鑑賞いただけることを嬉しく思っています。

小谷家住宅の保存事業はまだ道半ばでございますが、館山市ふるさと納税(非課税となる寄付制度)や名画の購入を通じて、引き続きご支援を呼びかけているところです。日本を代表する青木繁《海の幸》の力を借りて館山の地域ブランドに磨きをかけて、子どもたちの未来に誇りを手渡せるよう、末永くお力添えいただけますよう重ねてお願い申し上げます。

【東京】140518*青木繁が逗留「小谷家住宅」公開目指し修復へ

名画描いた家残る〜青木繁が逗留「小谷家住宅」 公開目指し修復へ

(東京新聞2014.5.18付)

明治期に夭折した洋画家青木繁が逗留した館山市布良の「小谷家住宅」が、2016年4月の一般公開を目指し、本年度から2年をかけて修復されることになった。代表作「海の幸」が描かれた家の存続を願う関係者の熱意が結実しつつある。

(北浜修)

小谷家住宅は約90平方メートルの平屋で築約120年。小谷家は江戸時代から戦前まで、布良の網元だった。経緯は不明だが、青木は1904(明治37)年夏、知人らと二カ月ほどこの家に滞在。サメを担いで海岸を行く漁師たちを描いた日本洋画史上の傑作「海の幸」を残した。

小谷家住宅は2009年、館山市有形文化財に指定されたが、老朽化で屋根など傷みが激しい。現在の当主小谷福哲(ふくあき)さん(63)と、市民グループ・青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(館山市)、NPO法人青木繁「海の幸」会(川崎市)の三者が連携し、保存へ動いてきた。

現在、母屋の住宅には先代当主、栄(さかえ)さん(90)夫妻が居住する。計画では、工事に伴い、母屋に隣接する別棟を管理棟として改築し、先代夫妻は転居する。母屋は「青木繁『海の幸』誕生の家・小谷家住宅」として一般公開する。

母屋の修復事業には約2,800万円がかかる。このうち半分の約1,400万円について、館山市の指定文化財保存修理事業補助金や、ふるさと納税を利用した小谷家住宅保存活用支援事業補助金で資金のめどが立ったことから、修復工事に踏み切った。

残りは、三者が今後も地元有志や各地の青木繁ファン、画家らに支援を求めていく。管理棟への改築にも約1,800万円かかるが、NPO法人の支援のほか、小谷家の資金などを充てる。

福哲さんは「青木繁が『海の幸』を描いた家を、次代を担う人々のためにも残して、見せたい。一般公開後は、全国から足を運んでいただければ」と期待する。

住宅から徒歩数分の所には「海の幸」に描かれた海岸を見下ろす高台があり、1962年に建てられた青木繁没後50年の記念碑がある。誕生の家と記念碑と一体で、館山の新たな観光スポットにもなりそうだ。

青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会事務局の池田恵美子さん(53)は「建物の維持や管理、公開など、修復後の運営にも多くの方々の支援をいただきたい」と呼び掛けている。

【あおきしげる】 1882(明治15)年、福岡県久留米市生まれ。東京美術学校(現在の東京芸術大)を卒業した22歳のとき、恋人の福田たねや友人と館山市布良に滞在し、「海の幸」を描く。絵の中に出てくる白く美しい顔の人物はたねがモデルとされる。たねとの間に1男をもうけたが、結婚はしなかった。天才画家と評される一方で、放浪し画壇を批判するなど不遇の時を送る。1911(明治44)年、28歳で病没。