戦争遺跡保存全国シンポジウム、11年ぶりに館山で開催
9月5・6の2日間〜映画上映や講演会・見学会も
(房日新聞2015.1.20付)‥⇒印刷用PDF
戦後70年の節目を迎える今秋、本土で唯一の直接軍政を受け、戦後日本のスタートの地となった館山市で、戦争遺跡の保存と平和を考える「第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム」が開催されることになった。2004年に第8回大会を開いて以来、戦争遺跡だけでなく多様な文化遺産を「まるごと博物館」として、民官協働でまちづくりに生かす取り組みが評価され、11年ぶりの館山大会開催となる。
シンポジウムは、各地の戦争遺跡保存団体や文化財保存全国協議会、歴史教育者協議会などを中心に団体・個人が集い結成された「戦争遺跡保存全国ネットワーク」が主催。戦争遺跡を後世に残し、過去の戦争を現実のものとして捉え平和学習や地域おこしにつなげようと、大本営地下壕跡のある長野県松代町での第1回を皮切りに、毎年各地で開かれている。
東京湾口にある館山とその周辺には、首都防衛のための軍事施設などが多数つくられ、貴重な戦争遺跡が数多く点在していたことから、11年前に初めて同市を会場にシンポを開催。同市では、そのシンポを契機に市民の間に戦争遺跡を中心に多様な文化遺産保存の機運が高まっていった。翌年には、見学地の一つだった館山海軍航空隊赤山地下壕跡が、市指定史跡となったほか、青木繁の「海の幸」誕生の小谷家住宅が市指定文化財に、また、里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)が国史跡になるなど市民運動が成果を挙げている。
終戦の1945年8月15日以降、日本軍の降伏と武装解除を進めていたアメリカ軍を中心とした連合軍は、先遣隊に続いて9月3日には、館山海軍航空基地にアメリカ占領軍の第112騎兵隊が上陸。本土で唯一4日間の直接軍政を受けた歴史も持つ。
同ネットワークでは、そうした史実も含め、多様な文化遺産をまちづくりに生かした取り組みが展開されている同市を、戦後70年の節目となる記念すべき年のシンポ開催地に決定。9月5、6の両日、南総文化ホールと同市コミュニティセンターを会場に開かれることになった。
シンポジウムでは、戦時中の館山を舞台にした、せんぼんよしこさん監督の映画「赤い鯨と白い蛇」の上映や講演会、分科会、現地見学会などを2日間にわたって計画。市民活動の中心的な役割を担い、主催者にも名を連ねるNPO法人安房文化遺産フォーラムなどで館山大会実行委員会を組織し、現在、具体的な行事スケジュールが検討されている。
安房の高校から支援活動20年
交流の像、ウガンダへ
(読売新聞2015.2.21付)‥⇒印刷用PDF
ウガンダの首都にこのほど、館山市の彫刻家が制作したブロンズ像が建てられた。安房地域の高校生がウガンダに対して20年続けている寄付、交流活動の象徴だ。支援の仲介窓口を務めてきた旧安房南高校の元教師愛沢伸雄さん(63)(館山市)に届いたメールには、像を囲む大勢の子どもたちの写真が添付されていた。
(笹川実)
支援活動が始まったのは1994年。南高の教師だった愛沢さんが、来日中のウガンダの男性と出会ったのがきっかけだった。
ウガンダの男性は、エイズ孤児の救済活動をするNGO「ウガンダ意識向上協会」のスチュアート・センパラ代表(57)。ウガンダの内戦やエイズ流行を知った愛沢さんのアドバイスで、生徒会が支援を呼び掛け、衣料品や学用品を送る活動が始まった。南高が安房高校に統合された後も続き、さらに安房西高校へと引き継がれている。
昨年9月には、3校の生徒や卒業生らが交流会を開催。旧安房南高の元美術教師、船田正廣さん(77)(館山市)が、高さ108センチのブロンズ女子生徒像を記念碑としてウガンダに贈ることを申し出た。
昨年12月、航空便が利用され、料金は安房西高の募金やバザーの収益金などが原資となった。像を建てる場所になったのは、ウガンダの首都カンパラの職業訓練施設「安房南洋裁学校」。旧安房南高の生徒らがバザーなどで集めた支援金で2000年に開設された施設だ。
センパラ代表からの報告は今年1月、愛沢さんにメールで届いた。添付された礼状は「館山との出会いは、恵まれないウガンダの子どもたちにいい影響を与えている。像は、結ばれた心そのものだ」とつづられ、像の周りに集まったセンパラさんと現地の子どもたちの写真も添付されていた。
「支援の証がいい場所に建った」と船田さん。愛沢さんは「民間の交流、支援は無理のない範囲で、今後も続けたい」と話す。
昨年、支援活動20周年記念誌「20年のあゆみ」が刊行された。旧安房南高卒業生の「支援は自分のためにもなった。活動のがんばりが社会人のいま、励ましになっている」との経験談が掲載されている。
⇒印刷用PDF
続きを読む »»
青木繁《海の幸》ゆかりの漁村を歩こう!
〜修復中の小谷家住宅、特別公開〜
⇒印刷用PDF
■日時=平成27年2月22日(日)
■集合=9:30「安房自然村」バス停
■アクセス=JRバス館山駅9:00発「安房白浜」行「安房自然村」下車
■見学地:青木繁『海の幸』記念碑・小谷家住宅・布良崎神社
■参加費=300円(保険料・ガイド・おもてなし)
■主催=青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会
.
館山市富崎地区は布良と相浜の漁村集落からなり、阿由戸の浜に房総開拓神・天富命が上陸したといわれる神話のふるさとです。目の前には女神山と男神山がそびえ、水平線上には富士山と伊豆の島々が並びます。マグロ漁で栄えていた漁村のエネルギーから、重要文化財の『海の幸』が誕生しました。
危険なマグロ漁は海難事故も多く、冬の夜空に赤く輝くカノープスは「布良星」と呼ばれ、亡くなった漁師の魂だという伝説もあります。青木繁は、布良崎神社の大神輿が海に入る夕陽の神事からインスピレーションを得て『海の幸』を描いたのではないかと考えられています。
⇒印刷用PDF
続きを読む »»
小谷家活用のまちづくり 館山の13団体
優良事例で「ちばコラボ大賞」
(房日新聞2014.12.30付)
青木繁が「海の幸」を描いた館山市布良の小谷家住宅を生かした漁村のまちづくりの取り組みが、優れた協働事例を表彰する「ちばコラボ大賞」(千葉県知事賞)を受賞した。
NPO、団体、行政などが力を合わせ、さまざまな地域課題の解決に取り組んでいる事例を表彰しており、今年度は3事例が選ばれた。
表彰されたのは、市指定文化財の小谷家住宅の修復、公開を目指し、全国の画家とともに修復基金を募ったり、保存用のふるさと納税制度を整備したりし、同住宅をはじめ周辺環境の整備、コミュニティー再生にも貢献している関連団体の取り組み。
実施団体は「NPO法人安房文化遺産フォーラム」、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」など13団体。
小谷家修復の道筋をつけるとともに、活用によって地域の魅力を再発掘し、地域内外の人々の絆を深めていることが評価された。
戦禍を刻む 69年円の夏に① 第2部場所ものがたり
闇が語る軍都の歴史〜日本の戦後ここにはじまる・赤山地下壕跡など
(千葉日報2014.8.15付)
⇒印刷用PDF
若者や家族ずれを中心に多くの海水浴客があふれ、花火大会開催の時には露店が所狭しと並ぶ。県内有数の行楽地、館山の夏の姿。その華やかさとは対照的に、東京湾の入り口に位置するここはかつて「東京湾要塞」として首都防衛の一画を担い、さまざまな軍事施設が置かれた。
実践航空部隊として全国5番目に開放された館山海軍航空隊、陸上の実地訓練教育を行う館山海軍砲術学校、航空兵器整備要員を養成する洲ノ埼海軍航空隊が次々誕生。市内には現在、これらに関連する47カ所の戦争遺跡が確認され、今日の平和を見守るように静かにその歴史を伝えている。
戦跡唯一の市指定史跡「赤山地下壕跡」がその代表だ。うっそうと生い茂る木々に隠れるようにして、にぎわう市営プールの横にひっそりと入り口があった。
足を踏み入れると、真夏とは思えないほどひんやりとした空気が肌をなでる。69年前から時が止まっているような妖しさ。狭い通路を抜けながら進むと、高さ約4メートルもある巨大な部屋がいくつもあり、壁にはツルハシで削った跡が鮮明に残る。
全長1.6キロと全国的にも大規模な防空壕がいつ、何の目的で作られたかは、はっきりしない。内部には発電所跡があり、館山航空隊の事務や医療施設などとして使われていたことが、数少ない資料や証言から判明しているのみだ。
南房総周辺の地域づくり活動をするNPO「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(62)は、極秘の航空機開発や実験など機密性の高い部隊が置かれていた可能性を指摘。終戦を知らされず、8月16日以降も数日にわたって待機する人がいたという証言もあるという。
ある男性が戦後40年間近く住み付き、温度が一定に保てることからキノコを栽培。愛沢代表は「この人は戦時中、何をしていたと思う?ヒントはキノコだよ」。男性は化学戦の研究で有名な731部隊にいたのだとか。残念ながら男性はすでに亡くなり、直接話を聞くことはできなかった。
赤山地下壕跡は2004年から一般公開され、今年3月末までの10年間で約15万人が訪れた。市生涯学習課は「平和学習の拠点としてだけでなく、観光資源としても定着してきた」。
空爆から戦闘機を守るための掩体壕、洲ノ埼航空隊の「戦闘指揮所」とされる地下壕跡や、機銃調整で使用された射撃場跡に今も突き刺さったままの戦闘機の弾。市内の至る所に生々しく残る“歴史の証人”たちを見て、海上自衛隊館山航空基地の正門近くにある海岸を最後に訪れた。
日本が降伏文書に調印した翌日の1945年9月3日、米軍が本土初上陸した海岸。館山は本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。「ここから日本の戦後が始まった」と愛沢代表。私有地に残る戦跡の保存方法など課題もあり「館山と戦争は切っても切れない。当時を知る方々が少なくなる中、戦跡を通して歴史を受け継いでいかなければいけない」と結んだ。
(社会部・鈴木陽次)
千葉から語り継ぐ戦争①
白浜の艦砲射撃〜爆音轟く240発23人死傷
(東京新聞千葉房総版2014.8.13付)
⇒印刷用PDF
爆音轟く240発 23人死傷
米軍、レーダー基地狙い
安倍政権が自衛隊の海外での武力行使を可能とする集団的自衛権の行使を認め、憲法の平和主義が根底から揺らぐ中、終戦の日は69回目を迎える。二度とあんな悲惨な体験はしてほしくない—。次世代に強く訴えかける県内の語り部を訪ね歩いた。
壕で家族助かる
「ヒューン」「バーン」。深夜の房総半島南端に爆音が轟いた。南房総市白濱町の飯田敏夫さん(81)は当時12歳。「家の空き地に掘っていた防空壕に両親と子供6人全員が逃げ込んだ。爆音に続いて土がさく裂してザーッと壕の天井に降り注ぐ。崩れないように下から両手で押さえていたことが忘れられない」
1時間ほどたち、恐る恐る外へはい出ると、周りは直径2〜3メートルはあろうかとう穴だらけ。「家族にけが人はなかったが、すぐに山の方向に走り、穴を掘って入り込んだ」
1945年(昭和20)年7月18日。米軍は午後11時52分、野島崎沖から白浜城山(じょうやま)レーダー基地に向けて艦砲射撃を開始した。巡洋艦4隻と駆逐艦9隻の布陣で砲弾240発を撃ち込んだ。飯田さんが「長く感じた」という攻撃時間は、たった5分間だった。基地は破壊されなかったが、現在の白浜町白浜付近に37発が着弾。6人が死亡。17人が負傷した。
艦砲射撃の後、白浜には米軍が上陸するとの噂(うわさ)が流れたという。「どの家にも竹槍(やり)があり、これで撃退しろと言われた」。町にある戦没者や戦災死没者らの碑を前に、飯田さんは振り返った。
今も生々しい痕
同町の星野幸枝さん(73)宅は艦砲射撃をいまに伝える。築約120年の旧宅で、亡夫の実家。居間の天井の梁(はり)には砲弾の破片が刺さってできた傷が残る。6センチほどの大きさの破片も保管している。
星野さんが夫から聞いた話では、攻撃の夜、家の近くに着弾し、居間の隣の二間はあっという間に吹き飛んだ。居間にいた夫の家族は奇跡的に助かったが、東京から疎開し二間で寝起きしていた親類夫婦が犠牲となった。6人の死者のうちの2人だ。
「戦後家は改修したけれど、梁や柱は頑丈なのでそのまま。建て替える予定はない。傷は残していく。戦争は二度と起きてほしくないから」と語る。
情報を隠す場所
終戦間近の白浜艦砲射撃。日本側に詳しい記録はいまのところ見当たらない。元高校教師で、NPO法人安房文化遺産フォーラム(館山市)代表の愛沢伸雄さん(63)は、戦後50年(95年)の活動で調査していたころ、国立国会図書館保管の米側資料の中に見つけた。「米国戦略爆撃調査団」が戦後の現地調査として、米攻撃の内容や日本側の被害などが書かれていた。
愛沢さんは「国民を動揺させまいと軍や政府が詳細を知らせなかったことで結局、戦後も広く知られることはなかった。本土決戦に向けて房総は一触即発だったのではないか。射撃は終戦に向かう要因の一つになった可能性はある」とみている。
◆取材後記
「バーン」。空襲や爆撃を経験した人が爆音を口頭で表現するとき、その迫力に驚かされる。突然、生死の境に追い込まれた極限の状況が語る人を通して聞く者に迫ってくるからであろう。
来年は戦後70年。戦争や戦災を直接経験した世代の高齢化が進む中、県内でも知る人が多いとはいえない白浜艦砲射撃の生々しい証言や砲弾破片の傷などに接することができたのは貴重なことだった。
(北浜修)
海の幸オマージュ展館山、前回上回る1万4099人
(房日新聞2014年9月12日付)
館山市立博物館は、市内2会場で開催された青木繁「海の幸」オマージュ展の来場者数をまとめた。来場者数は1万4099人で、前回の館山展(平成24年・8250人)を上回る反響があつた。
オマージュ展はフランス語で尊敬の意で、青木繁の代表作「海の幸」に影響を受けた現代作家の作品の展示会。
海の幸を描くのに青木繁が滞在した同市布良の小谷家の保存運動をするNPO法人青木繁「海の幸」会が、保存の機運を盛り上げようと、一昨年から全国で開催しており、館山展は市、市教委が共同主催した。
第1会場の渚の博物館(会期8月5日〜31日)には、延べ1万3441人が来場。帰省客、観光客も加わったお盆時期の14日、16日、17日には1000人を超える来場があった。
第2会場の館山コミュニティセンター(同8月5日〜24日)には、658人が足を運び、両会場で1万4099人となった。
青木繁や保存運動への関心の高まり、展示会の浸透からか、会期が長かった前回(会場は渚の博物館)より5000人以上多かった。
同博物館の担当者は「作品をじっくり鑑賞する方、青木繁や小谷家に質問をする方も多かった。小谷家住宅の保存活動に関心を持っていただくいい機会となった」と話していた。
読者のコーナー:布良に残る男の溜まり場
山口栄彦
(房日新聞2014.9.15付)
戦争体験者が減ったことと同列にすることは気が引けるが、井戸端会議に参加した女性もわずかになった。したがって井戸端会議という言葉は死語に近い。
井戸端会議とは「近所のおかみさんたちが共同の井戸にやってきて、洗い物をしながら世間話に花をさかせます」(『自分の頭で考える』外山滋比古著、中央文庫)
このことについて筆者はさらに続ける。「男性がかつての井戸端会議の場所、即ち床屋、銭湯を失った」と。外山氏に反発するつもりはないが、それに代わるものが現在布良にある。
船引き場(上架場)の端に船具や網などを入れる小屋がある。その小屋を背にして古い椅子が並ぶ。船主や釣り船のオーナー、退職のサラリーマンなど、60代から80代の男たちが集まる。彼らの前には古びたドラム缶があり、たばこ好きな男は吸い殻をそのドラム缶の中に投げ込む。
話の中心はやはり漁のこと。その次はやはり漁のこと。その次は目の前の集落や地元の様子だ。政治や社会のことも時々話題になる。頭上をひっきりなしに東京の羽田に向かう飛行機にも話は及ぶ。
当方が、自由な都会生活に長く浸っている間、男たちは昔からの地元の風習や、あらぬ噂などに耐えてきたのだ。彼らが話す訛(なまり)のある地元の言葉は、独特の響きがあり、ほのぼのとする。「まさしく男の井戸端会議」だ。
絵画の重要文化財≪海の幸≫を残した青木繁にこの光景を見せてあげたい、彼は後世から何と言うだろうか。
館山市 山口栄彦