お知らせ

青木繁「海の幸」オマージュ展2015

NPO法人青木繁「海の幸」会では、小谷家住宅保存のチャリティ基金を得摘めるためのオマージュ展を、2015年も各地で開催します。全国の著名な画家の素晴らしい作品が一堂に展示される機会です。乞うご期待!


・第10回 京都 5月26日(火)〜31日(日) ギャラリーヒルゲート 075-231-3702 … (終了)

・第11回 東京 8月 4日(火)〜20日(木) 永井画廊 03-3547-9930 … (夏季休業期間あり)

・第12回 福岡 8月22日(土)〜9月6日(日) みぞえアートギャラリー 092-738-5655

・第13回 埼玉 10月31日(土)〜11月14日(土) ギャラリー彩光舎 048-822-9952

【房日】140417=青い目の人形

戦火逃れた友好の証

青い目の人形「メリー」展示 19日から 館山市立博物館

(房日新聞2014年4月17日付)

昭和初期に日米関係の悪化を懸念し、友好の証しとして米国から贈られた「青い目の人形」のうちの一体「メリー」が、館山市立博物館本館で19日から6月8日まで公開されることになった。関連行事で、メリーにちなんだ語り部なども予定されている。

「こうした資料は戦争に関する展示会で公開されることが多いが、普段から平和について考えるきっかけになれば」(同館)と、収蔵資料展に合わせて展示することにしたという。

青い目の人形は、京都帝国大学などで英語を教えた米国人宣教師、シドニー・ルイス・ギューリックが、日米間の緊張を文化交流で和らげようと、帰国後の昭和2年、全米に呼び掛け日本に贈った1万2739体の親善人形。日本からは答礼に日本人形58体を贈った。

大戦中に大半が処分され、現存が確認されているのは全国で324体。県内には11体あり、安房地域では館山小、富浦小、東条小分の3体が残っている。

メリーは、当時の館山小校長から富田文枝教諭に託された人形で、押入れの奥で憲兵の目を逃れ、現在は富田教諭の親族が保管している。過去には旧県立安房博物館で展示、紹介されたことがあるという。

関連行事は5月6日と31日のそれぞれ午前11時からと、午後2時から。6日は語り部「さくら貝」の松苗禮子さんによる語りで「富田先生の青い目の人形」、子供の文化研究所の宮崎二美枝さんによる紙芝居で「原爆の子・さだ子の願い」。31日は松苗さんによる語り「富田先生の青い目の人形」と、紙芝居「小沼の花咲和尚さん」となっている。

観覧料は一般300円、小中高生150円。

【写真説明】公開される青い目の人形「メリー」

【房日】130725=ふるさと講座・吉武教授

海の幸は青春の輝き

ふるさと講座 吉武教授語る 館山

(房日新聞2013年7月25日付)

館山市中央公民館の「第2回ふるさと講座-『海の幸』の輝き」が20日、同市コミュニティセンターで開催された。女子美術大学の吉武研司教授が、青木繁の生涯や作品の魅力について語った。

同市布良で青木繁(1882〜1911)が描いた代表作「海の幸」(重要文化財)を中心に、美術史や海の幸以外の青木繁が描いた作品、西洋絵画などを紹介しながら画家の視点から青木の芸術性について話した。

吉武教授は、女子美の宿泊研修で、10年以上前から同市布良を訪れ、学生らに、海の幸を描くきっかけとなった漁村風景や小谷家などを見学させて来た。現在は、青木が宿泊した小谷家の修復と保存の活動団体として、NPO青木繁「海の幸」会理事も務めている。

吉武氏は、青木と同じ九州の生まれで、幼いころから身近に感じてきたことなどを語り、「青木の海の幸には日本人の文化があり、日本人のにおいのする作品だと感じている」と日本人の誇りが感じられる作品と説明。

海の幸を制作した時期は、青木が青春を迎えていた若者で、しかも西洋の油絵を歴史からしっかりと学び、恋人の福田たねと出会い、そのたねと友人を連れて小谷家で過ごした時期であっあとし、「日本の近代化という世界へ向けていく時代背景と青木の青春時代が交差するところで作品『海の幸』が生まれ美しい輝きが出たようだ。この1点だけ残すことで絵描きとしては幸せだった」と語りかけた。

【房日】150523=公開講座「小原代議士の資料から考察」

小原代議士の資料から考察

館山公開講座、愛沢伸雄氏が語る

(房日2015.5.23付)

安房歴史文化研究会による今年度1回目(通算35回)の公開講座が、30日午後2時から、館山市コミュニティセンター2階集団指導室で開かれる。同会の会員で、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄氏が語る。資料代として参加費200円。

テーマは「小原金治の資料から館山の近現代史をみる〜『大正九年三月安房郡在京者氏名録』の考察。

愛沢さんによると、小原金治は日清戦争勃発の明治27年(1894)、衆議院議員に初当選。日清戦争時における代議士活動を記載した小原は、実際に地域のリーダーらとともに、「安房国中央恤兵会」を結成し、戦後、鶴谷八幡宮に「征清記念之碑」(安房郡から従軍した1000人近くの人物名が刻字)を建立している。小原が持っていた「大正九年三月安房郡在京者氏名録」は、県立安房中学校を卒業した若者たちが、東京で勉学するために設立した「安房育英舎」事業に関わる名簿ではないかと推察。

当日は愛沢氏が調査したこうした内容を語る予定。

定員は先着50人。問い合わせは事務局の石崎和夫さん(0470-23-6677)へ。

150628・0705・0721*証言者のつどい(戦跡学習会)

証言者のつどい(戦跡学習会:3回)


①6月28日(日)15:30〜 (A会員総会終了後)=館山地区公民館

1930年生まれ、戦時中に館山市船形在住だった西村榮雄(よしお)氏は、旧制安房中学に在学中、軍事施設作りに関わった勤労動員の日記を保持している。館山市那古地区の川崎空襲跡の惨状を目撃するなど、鮮明な記憶を証言する。 父の西村迪雄(みちお)(陸軍少将・鎮海湾要塞司令官)は陸軍士官学校15期で、同じ船形に在住していた同期の多田駿(はやお)(陸軍大将・反東條派・1941年予備役)と親交があった。なお、赤門病院の芳名録に参謀総長梅津美治郎(よしじろう)の署名があり、終戦直前の7月23日に館山を訪れていることがわかった。その後、ミズーリ号の降伏文書に調印することになった梅津が、なぜ来館したのか謎である。彼もまた陸士15期の同期であった。


②7月 5日(日)13:00〜 (赤山ガイドサービス終了後) =館山地区公民館

1927年生まれで赤山の前で生まれ育った高橋博夫氏(元館山市教育長)は、館山海軍航空隊の建設と拡張工事に伴い自宅を2度転居させられている。赤山地下壕の建設は日米開戦前から始まっていたと証言。1944年7月旧制安房中学5年時に船橋の日本建鉄に勤労動員。1945年3月卒業、教員不足のため西岬村東尋常小学校の代用教員に勤務。降伏調印の翌日、外務省館山終戦連絡委員会の担当者とともに自宅から米占領軍の上陸を目撃。4日間の「直接軍政」のとき、自宅横に米軍の衛兵所と機関砲が置かれたことで、米兵との交流があったとのこと。戦後は、子どもたちに教科書の黒塗りを指導しただけでなく、小学校に直接米兵を連れていき、地理や英語の模擬授業をおこなったという貴重な体験をもつ。

青山学院水泳合宿所は、1926年に赤山の麓に開設され、生徒たちは夏の時期に柏崎の浜で水泳訓練をしていた。しかし赤山地下壕の建設に伴って1941年12月に海軍より譲渡の話が出され、すぐに閉鎖となった。青山学院高校の佐藤隆一教諭が、学校側の記録や写真から分かった調査を報告する。


③7月21日(火)13:00〜 (終了後にNPO運営委員会) =館山地区公民館

房総南端の布良(館山市)は幕末の一時期に砲台が置かれ、明治には海軍布良望楼(1894年)が建設された軍事的な要衝である。マグロ漁で栄えた漁村で海難事故が絶えなかったため、帝国水難救助会布良救難所(1903年)が開設され、救難所の看守長は村議の小谷喜録が務め、布良望楼とともに沿岸警備の役割を担っていた。日露戦争開戦となった1904年、画家の青木繁は友人3人と布良を訪れ、小谷宅に40日逗留し、重要文化財『海の幸』を描いている。隣接して館山海軍砲術学校(1941年)が開かれ、戦争末期には本土決戦体制として布良陣地が構築された。小谷喜録の長男・希六は徴用漁船「海幸丸」で就漁中に機雷にあたり亡くなっている。戦争と関わりの深かった漁村の状況について、1928年生まれの船大工・豊崎栄吉氏ら布良の人びとと語り合う。

150609=布良崎神社奉納画・調査報告会

布良崎神社奉納画・調査報告会

印刷用


【日時】2015年6月9日(火)13:15
【会場】館山市立富崎小学校体育館

報告者:株式会社ディヴォート修復室長 尾形純氏

主催:青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会

(事務局:NPO法人安房文化遺産フォーラム)

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青木繁の3年後輩として東京美術学校に学んだ寺崎武男はイタリアに留学し、フレスコやテンペラ画などを学び、日本洋画の発展に貢献した画家です。関東大震災後より館山に居住し、多くの神話を描き、その作品は安房神社や下立松原神社などに奉納されています。布良崎神社には、天富命が布良に上陸した神話が描かれた巨大な奉納画があります。鳥居型に額装され貴重な作品ですが、作品の傷みが激しく今後の管理状態が心配されています。 (写真上)

NPO法人青木繁「海の幸」会の大村智理事長(女子美術大学名誉理事長・韮崎大村美術館長)は、多くの寺崎作品を所蔵されており、そのうち30数点を修復しました。このたび、その修復技術者をお招きし、布良崎神社の作品について調査をしていただくことになりました。

布良崎神社には、寺崎作品だけではなく、「敬神」と彫られた巨大な扁額があります。制作者名は「御額師舛川」とあり、「茂卿謹書」と「茂卿」の印刻が彫られています。「茂卿」は江戸期の儒学者・荻生徂徠の字名と同じですが、扁額の由来は謎のままです。 (写真下)

当日は、これらの作品を修復技術者に調査していただき、その報告をお願いしています。作品は会場に展示しますので、早めにご来場し、ご覧下さい。終了後は14時より、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会の会員総会を行ないます。入会希望の方は受付でお手続きください。

150905~07*第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会

テーマ=戦跡と文化財を活かしたまちづくり「館山まるごと博物館」

詳細の内容(印刷用PDF)

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