お知らせ

【房日】140417=青い目の人形

戦火逃れた友好の証

青い目の人形「メリー」展示 19日から 館山市立博物館

(房日新聞2014年4月17日付)

昭和初期に日米関係の悪化を懸念し、友好の証しとして米国から贈られた「青い目の人形」のうちの一体「メリー」が、館山市立博物館本館で19日から6月8日まで公開されることになった。関連行事で、メリーにちなんだ語り部なども予定されている。

「こうした資料は戦争に関する展示会で公開されることが多いが、普段から平和について考えるきっかけになれば」(同館)と、収蔵資料展に合わせて展示することにしたという。

青い目の人形は、京都帝国大学などで英語を教えた米国人宣教師、シドニー・ルイス・ギューリックが、日米間の緊張を文化交流で和らげようと、帰国後の昭和2年、全米に呼び掛け日本に贈った1万2739体の親善人形。日本からは答礼に日本人形58体を贈った。

大戦中に大半が処分され、現存が確認されているのは全国で324体。県内には11体あり、安房地域では館山小、富浦小、東条小分の3体が残っている。

メリーは、当時の館山小校長から富田文枝教諭に託された人形で、押入れの奥で憲兵の目を逃れ、現在は富田教諭の親族が保管している。過去には旧県立安房博物館で展示、紹介されたことがあるという。

関連行事は5月6日と31日のそれぞれ午前11時からと、午後2時から。6日は語り部「さくら貝」の松苗禮子さんによる語りで「富田先生の青い目の人形」、子供の文化研究所の宮崎二美枝さんによる紙芝居で「原爆の子・さだ子の願い」。31日は松苗さんによる語り「富田先生の青い目の人形」と、紙芝居「小沼の花咲和尚さん」となっている。

観覧料は一般300円、小中高生150円。

【写真説明】公開される青い目の人形「メリー」

【房日】130725=ふるさと講座・吉武教授

海の幸は青春の輝き

ふるさと講座 吉武教授語る 館山

(房日新聞2013年7月25日付)

館山市中央公民館の「第2回ふるさと講座-『海の幸』の輝き」が20日、同市コミュニティセンターで開催された。女子美術大学の吉武研司教授が、青木繁の生涯や作品の魅力について語った。

同市布良で青木繁(1882〜1911)が描いた代表作「海の幸」(重要文化財)を中心に、美術史や海の幸以外の青木繁が描いた作品、西洋絵画などを紹介しながら画家の視点から青木の芸術性について話した。

吉武教授は、女子美の宿泊研修で、10年以上前から同市布良を訪れ、学生らに、海の幸を描くきっかけとなった漁村風景や小谷家などを見学させて来た。現在は、青木が宿泊した小谷家の修復と保存の活動団体として、NPO青木繁「海の幸」会理事も務めている。

吉武氏は、青木と同じ九州の生まれで、幼いころから身近に感じてきたことなどを語り、「青木の海の幸には日本人の文化があり、日本人のにおいのする作品だと感じている」と日本人の誇りが感じられる作品と説明。

海の幸を制作した時期は、青木が青春を迎えていた若者で、しかも西洋の油絵を歴史からしっかりと学び、恋人の福田たねと出会い、そのたねと友人を連れて小谷家で過ごした時期であっあとし、「日本の近代化という世界へ向けていく時代背景と青木の青春時代が交差するところで作品『海の幸』が生まれ美しい輝きが出たようだ。この1点だけ残すことで絵描きとしては幸せだった」と語りかけた。

【房日】150523=公開講座「小原代議士の資料から考察」

小原代議士の資料から考察

館山公開講座、愛沢伸雄氏が語る

(房日2015.5.23付)

安房歴史文化研究会による今年度1回目(通算35回)の公開講座が、30日午後2時から、館山市コミュニティセンター2階集団指導室で開かれる。同会の会員で、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄氏が語る。資料代として参加費200円。

テーマは「小原金治の資料から館山の近現代史をみる〜『大正九年三月安房郡在京者氏名録』の考察。

愛沢さんによると、小原金治は日清戦争勃発の明治27年(1894)、衆議院議員に初当選。日清戦争時における代議士活動を記載した小原は、実際に地域のリーダーらとともに、「安房国中央恤兵会」を結成し、戦後、鶴谷八幡宮に「征清記念之碑」(安房郡から従軍した1000人近くの人物名が刻字)を建立している。小原が持っていた「大正九年三月安房郡在京者氏名録」は、県立安房中学校を卒業した若者たちが、東京で勉学するために設立した「安房育英舎」事業に関わる名簿ではないかと推察。

当日は愛沢氏が調査したこうした内容を語る予定。

定員は先着50人。問い合わせは事務局の石崎和夫さん(0470-23-6677)へ。

150628・0705・0721*証言者のつどい(戦跡学習会)

証言者のつどい(戦跡学習会:3回)


①6月28日(日)15:30〜 (A会員総会終了後)=館山地区公民館

1930年生まれ、戦時中に館山市船形在住だった西村榮雄(よしお)氏は、旧制安房中学に在学中、軍事施設作りに関わった勤労動員の日記を保持している。館山市那古地区の川崎空襲跡の惨状を目撃するなど、鮮明な記憶を証言する。 父の西村迪雄(みちお)(陸軍少将・鎮海湾要塞司令官)は陸軍士官学校15期で、同じ船形に在住していた同期の多田駿(はやお)(陸軍大将・反東條派・1941年予備役)と親交があった。なお、赤門病院の芳名録に参謀総長梅津美治郎(よしじろう)の署名があり、終戦直前の7月23日に館山を訪れていることがわかった。その後、ミズーリ号の降伏文書に調印することになった梅津が、なぜ来館したのか謎である。彼もまた陸士15期の同期であった。


②7月 5日(日)13:00〜 (赤山ガイドサービス終了後) =館山地区公民館

1927年生まれで赤山の前で生まれ育った高橋博夫氏(元館山市教育長)は、館山海軍航空隊の建設と拡張工事に伴い自宅を2度転居させられている。赤山地下壕の建設は日米開戦前から始まっていたと証言。1944年7月旧制安房中学5年時に船橋の日本建鉄に勤労動員。1945年3月卒業、教員不足のため西岬村東尋常小学校の代用教員に勤務。降伏調印の翌日、外務省館山終戦連絡委員会の担当者とともに自宅から米占領軍の上陸を目撃。4日間の「直接軍政」のとき、自宅横に米軍の衛兵所と機関砲が置かれたことで、米兵との交流があったとのこと。戦後は、子どもたちに教科書の黒塗りを指導しただけでなく、小学校に直接米兵を連れていき、地理や英語の模擬授業をおこなったという貴重な体験をもつ。

青山学院水泳合宿所は、1926年に赤山の麓に開設され、生徒たちは夏の時期に柏崎の浜で水泳訓練をしていた。しかし赤山地下壕の建設に伴って1941年12月に海軍より譲渡の話が出され、すぐに閉鎖となった。青山学院高校の佐藤隆一教諭が、学校側の記録や写真から分かった調査を報告する。


③7月21日(火)13:00〜 (終了後にNPO運営委員会) =館山地区公民館

房総南端の布良(館山市)は幕末の一時期に砲台が置かれ、明治には海軍布良望楼(1894年)が建設された軍事的な要衝である。マグロ漁で栄えた漁村で海難事故が絶えなかったため、帝国水難救助会布良救難所(1903年)が開設され、救難所の看守長は村議の小谷喜録が務め、布良望楼とともに沿岸警備の役割を担っていた。日露戦争開戦となった1904年、画家の青木繁は友人3人と布良を訪れ、小谷宅に40日逗留し、重要文化財『海の幸』を描いている。隣接して館山海軍砲術学校(1941年)が開かれ、戦争末期には本土決戦体制として布良陣地が構築された。小谷喜録の長男・希六は徴用漁船「海幸丸」で就漁中に機雷にあたり亡くなっている。戦争と関わりの深かった漁村の状況について、1928年生まれの船大工・豊崎栄吉氏ら布良の人びとと語り合う。

150609=布良崎神社奉納画・調査報告会

布良崎神社奉納画・調査報告会

印刷用


【日時】2015年6月9日(火)13:15
【会場】館山市立富崎小学校体育館

報告者:株式会社ディヴォート修復室長 尾形純氏

主催:青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会

(事務局:NPO法人安房文化遺産フォーラム)

.

青木繁の3年後輩として東京美術学校に学んだ寺崎武男はイタリアに留学し、フレスコやテンペラ画などを学び、日本洋画の発展に貢献した画家です。関東大震災後より館山に居住し、多くの神話を描き、その作品は安房神社や下立松原神社などに奉納されています。布良崎神社には、天富命が布良に上陸した神話が描かれた巨大な奉納画があります。鳥居型に額装され貴重な作品ですが、作品の傷みが激しく今後の管理状態が心配されています。 (写真上)

NPO法人青木繁「海の幸」会の大村智理事長(女子美術大学名誉理事長・韮崎大村美術館長)は、多くの寺崎作品を所蔵されており、そのうち30数点を修復しました。このたび、その修復技術者をお招きし、布良崎神社の作品について調査をしていただくことになりました。

布良崎神社には、寺崎作品だけではなく、「敬神」と彫られた巨大な扁額があります。制作者名は「御額師舛川」とあり、「茂卿謹書」と「茂卿」の印刻が彫られています。「茂卿」は江戸期の儒学者・荻生徂徠の字名と同じですが、扁額の由来は謎のままです。 (写真下)

当日は、これらの作品を修復技術者に調査していただき、その報告をお願いしています。作品は会場に展示しますので、早めにご来場し、ご覧下さい。終了後は14時より、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会の会員総会を行ないます。入会希望の方は受付でお手続きください。

150905~07*第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会

テーマ=戦跡と文化財を活かしたまちづくり「館山まるごと博物館」

詳細の内容(印刷用PDF)

続きを読む »»

【房日】150120=戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会

戦争遺跡保存全国シンポジウム、11年ぶりに館山で開催

9月5・6の2日間〜映画上映や講演会・見学会も

(房日新聞2015.1.20付)‥⇒印刷用PDF


戦後70年の節目を迎える今秋、本土で唯一の直接軍政を受け、戦後日本のスタートの地となった館山市で、戦争遺跡の保存と平和を考える「第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム」が開催されることになった。2004年に第8回大会を開いて以来、戦争遺跡だけでなく多様な文化遺産を「まるごと博物館」として、民官協働でまちづくりに生かす取り組みが評価され、11年ぶりの館山大会開催となる。

シンポジウムは、各地の戦争遺跡保存団体や文化財保存全国協議会、歴史教育者協議会などを中心に団体・個人が集い結成された「戦争遺跡保存全国ネットワーク」が主催。戦争遺跡を後世に残し、過去の戦争を現実のものとして捉え平和学習や地域おこしにつなげようと、大本営地下壕跡のある長野県松代町での第1回を皮切りに、毎年各地で開かれている。

東京湾口にある館山とその周辺には、首都防衛のための軍事施設などが多数つくられ、貴重な戦争遺跡が数多く点在していたことから、11年前に初めて同市を会場にシンポを開催。同市では、そのシンポを契機に市民の間に戦争遺跡を中心に多様な文化遺産保存の機運が高まっていった。翌年には、見学地の一つだった館山海軍航空隊赤山地下壕跡が、市指定史跡となったほか、青木繁の「海の幸」誕生の小谷家住宅が市指定文化財に、また、里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)が国史跡になるなど市民運動が成果を挙げている。

終戦の1945年8月15日以降、日本軍の降伏と武装解除を進めていたアメリカ軍を中心とした連合軍は、先遣隊に続いて9月3日には、館山海軍航空基地にアメリカ占領軍の第112騎兵隊が上陸。本土で唯一4日間の直接軍政を受けた歴史も持つ。

同ネットワークでは、そうした史実も含め、多様な文化遺産をまちづくりに生かした取り組みが展開されている同市を、戦後70年の節目となる記念すべき年のシンポ開催地に決定。9月5、6の両日、南総文化ホールと同市コミュニティセンターを会場に開かれることになった。

シンポジウムでは、戦時中の館山を舞台にした、せんぼんよしこさん監督の映画「赤い鯨と白い蛇」の上映や講演会、分科会、現地見学会などを2日間にわたって計画。市民活動の中心的な役割を担い、主催者にも名を連ねるNPO法人安房文化遺産フォーラムなどで館山大会実行委員会を組織し、現在、具体的な行事スケジュールが検討されている。

【読売】150221*安房の高校から支援20年の像ウガンダに

安房の高校から支援活動20年

交流の像、ウガンダへ

(読売新聞2015.2.21付)‥⇒印刷用PDF

ウガンダの首都にこのほど、館山市の彫刻家が制作したブロンズ像が建てられた。安房地域の高校生がウガンダに対して20年続けている寄付、交流活動の象徴だ。支援の仲介窓口を務めてきた旧安房南高校の元教師愛沢伸雄さん(63)(館山市)に届いたメールには、像を囲む大勢の子どもたちの写真が添付されていた。

(笹川実)

支援活動が始まったのは1994年。南高の教師だった愛沢さんが、来日中のウガンダの男性と出会ったのがきっかけだった。

ウガンダの男性は、エイズ孤児の救済活動をするNGO「ウガンダ意識向上協会」のスチュアート・センパラ代表(57)。ウガンダの内戦やエイズ流行を知った愛沢さんのアドバイスで、生徒会が支援を呼び掛け、衣料品や学用品を送る活動が始まった。南高が安房高校に統合された後も続き、さらに安房西高校へと引き継がれている。

昨年9月には、3校の生徒や卒業生らが交流会を開催。旧安房南高の元美術教師、船田正廣さん(77)(館山市)が、高さ108センチのブロンズ女子生徒像を記念碑としてウガンダに贈ることを申し出た。

昨年12月、航空便が利用され、料金は安房西高の募金やバザーの収益金などが原資となった。像を建てる場所になったのは、ウガンダの首都カンパラの職業訓練施設「安房南洋裁学校」。旧安房南高の生徒らがバザーなどで集めた支援金で2000年に開設された施設だ。

センパラ代表からの報告は今年1月、愛沢さんにメールで届いた。添付された礼状は「館山との出会いは、恵まれないウガンダの子どもたちにいい影響を与えている。像は、結ばれた心そのものだ」とつづられ、像の周りに集まったセンパラさんと現地の子どもたちの写真も添付されていた。

「支援の証がいい場所に建った」と船田さん。愛沢さんは「民間の交流、支援は無理のない範囲で、今後も続けたい」と話す。

昨年、支援活動20周年記念誌「20年のあゆみ」が刊行された。旧安房南高卒業生の「支援は自分のためにもなった。活動のがんばりが社会人のいま、励ましになっている」との経験談が掲載されている。