お知らせ

【読売夕刊】150904*米占領軍上陸地(千葉県館山市)

戦後70年、歴史を歩く〜米占領軍上陸地(千葉県館山市)

行き違い?直接軍政の謎

上半身裸に短パン姿、腰にピストルを下げていた

(読売新聞夕刊2015.9.4付)⇒印刷用PDF(要拡大)

東京湾の玄関口、千葉県館山市の館山湾は「鏡ケ浦」と呼ばれ、穏やかな海が広がる。70年前、ここで米軍の対日占領政策の一歩が踏み出された。

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1945年9月3日午前9時半頃、米進駐軍(第112騎兵連隊)4200人が、湾内の館山海軍航空隊水上班滑走台から続々と上陸した。前日、米戦艦ミズーリ号で降伏調印があり、首都・東京を挟むように、東京湾の軍事拠点である館山と対岸の横浜への進駐作戦が始まっていた。

館山港の西側、上陸地点に立ってみた。コンクリート斜面が海中に滑り込む。飛行艇が出入した滑走台跡は昔のまま残っていた。

進駐軍の上陸に先立つ8月30日、米海兵隊先遣隊が館山や富津、横須賀に上陸し、要塞を破壊するなど事前作戦を展開している。

同じ日、館山航空隊(現・海上自衛隊館山航空基地)近くに今も住む元館山市教育長の高橋博夫さん(87)は自宅から、十数人の名兵が館山港から上陸するのを目撃した。「正午前、上半身裸の短パン姿で、腰にピストルを下げた連中が上陸した」と話す。この米兵は機雷などの障害物を除去する水中爆破班とみられている。

翌31日にクロフォード少佐ら先遣隊が館山航空隊を武装解除。9月3日、進駐軍のカニンガム准将らが、館山終戦連絡委員会(※)の代表らに指令書「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」を手渡した。

指令には「軍政参謀課(Military Government Staff Sections)を設置し、裁判所管理、物価統制などの権限を持つほか、学校閉鎖や外出制限を実施することなどが記されていた。「千葉県史」によると、終戦連絡委は「米軍は直接軍政を指向しているのではないか」と考え、間接統治のポツダム宣言や米政府方針と違うことを政府に急報したという。

当時、館山病院副院長の川名正義医師(1903〜83年)は地元医師会誌に市内の様子を書いている。「街に人影はなく病院も休診状態」。市民じゃ家の中で息を潜めるばかりだったが、川名医師は医療面の協力で米軍側の信頼を得た。終戦連絡委とカニンガムから市民代表に指名され、英会話教室を開くなど、米軍と市民の良好な関係を築く上で大きな役割を果たした。

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沖縄以外で唯一の直接軍政が、なぜ館山だったのか。

連合国軍最高司令官マッカーサーが準備した「軍政三布告」の撤回が命令されたのが9月3日午前10時。カニンガムの指令文が渡されたのは同9時半前。行き違いがあった可能性がある。

9月6日、米政府が出した間接統治の再指示で、軍政は終了したとされる。では軍政三布告を撤回後なぜ4日間続いたのか。戦史に詳しいNPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(63)は「カニンガムはソ連の南下や館山の戦争継続派への不安から、軍政を続けたかった。だが、館山市民は意外に協力的だった。これなら大丈夫と思ったのでは」とみる。

戦後日本の再出発の舞台の一つ、千葉県で行われた当初の占領政策は、こうして“幻の軍政”となった。

(千葉支部 笹川実)

【房日寄稿】150905*戦跡シンポ⑤河正雄

 

戦争遺跡保存全国シンポジウム⑤

韓国と日本、二つの祖国を生きる

河正雄(ハ・ジョンウン)=韓国光州市立美術館名誉館長

(房日新聞寄稿2015.9.5付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)

第二次世界大戦が勃発し、朝鮮人に対する徴用が法制化、創氏改名令が施行された1939年、私は在日韓国人二世として生まれた。不条理な戦争への恐れと民族的な「恨(ハン)」とがインプットされ、平和と幸福を希求する人生観と哲学が形成された。「恨」とは、人間の意思ではどうにもならない運命に振り回され、力が及ばない感情である。私は、韓国と日本、二つの祖国の故郷を愛し、信頼し合える兄弟になるための架け橋になろうと祈念してきた。

18歳まで秋田県で育ち画家を志したが、母に猛反対され、断念した。教師や新聞記者、弁護士にもなりたいとも思ったが、国籍条項や貧困のために諦めざるを得なかった。

埼玉県川口市で電気店を経営することになり、事業に成功した。私は画家になれなかったが、顧みられずに苦労してきた同胞(在日韓国人)の美術作品に出合って心揺さぶられ、その収集を始めることとなった。その後、多くの在日作家は両国の美術界で歴史的評価が高まっていった。

日本と韓国の間には歴史認識問題の溝があり、それらを乗り越えようと努力している人びとがいる。歴史を知らないということは、未来への展望が拓けない。平和を培っていくためには、しっかり歴史を学ばなければならない。その事例を紹介したい。

私が生まれた年、辰子姫伝説の伝わる田沢湖畔に姫観音像が建立された。これは、国策でダムと発電所が建設された時に絶滅したクニマスという魚類と辰子姫の霊を慰めるために建立した像であると、戦後に町当局は掲示板を立てた。私はこの解説文に納得がいかず調査を始め、10数年かけて建立趣意書を探し出した。すると、ダムと発電所建設のために徴用され、過酷な労働で亡くなった朝鮮人を慰霊する観音像であったことが明らかになった。私が朝鮮人無縁仏追悼慰霊碑を建立した翌1991年のことである。

私は在日韓国人画家の作品を収める「田沢湖 祈りの美術館」を建設し、戦前の朝鮮人犠牲者を慰霊したいと願ったが叶わなかった。しかし、韓国光州市立美術館に在日画家の作品を寄贈する縁に恵まれ、その後両国の美術館に1万余点を寄贈することになり、私の名を冠した霊巌郡立河正雄美術館も開かれた。霊巌郡は両親の故郷であり、日本に古代文化を伝えた王仁博士ゆかりの地でもある。

私のコレクションのコンセプトは「祈り」である。平和への祈り、心の平安への祈り。犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、歴史の中で受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈り。芸術の力は、韓日のわだかまりの根源と矛盾を克服し、地平を切り拓くことになった。文化こそが、平和をつくる上で大きな鍵となる。

私が尊敬する、浅川巧という日本人がいた。日本の統治下にあった韓国へ農林技師として渡り、禿山に植林して山を蘇らせた。朝鮮服を着て、朝鮮の食事をし。朝鮮の言葉を話して、朝鮮人を友とし、朝鮮の風習を身につけて暮らした。朝鮮の陶芸や民具の価値を認め、光を当て、韓国の文化を広く知らしめた。朝鮮人からも愛され、感謝されている。戦後、韓国では多くの日本人の墓が取りつぶされたが、浅川巧の墓は韓国の人びとによって守られてきた。

私も日本で生まれた以上、日本の国で日本を愛し、日本人にも愛されて、日本に貢献し、日本人と一緒に力を合わせて地域社会をよくする生き方をしようと、浅川巧から学んだ。異国人を見下すことなく、その文化を認めながら、両国の魂を結びつけて交流した先人の精神を忘れないようにと、私は山梨県北杜市の浅川伯教・巧兄弟資料館で「清里銀河塾」を開催している。

館山市には、戦跡やハングル四面石塔などの文化遺産を大切にして、平和祈念活動をする皆さんがいる。私は心より敬意を表している。なかでも、青木繁『海の幸』誕生の小谷家住宅を保存するために、全国の画家の皆さんと一緒に募金活動をしていることも素晴らしい。この作品は私が大好きな作品である。この絵は労働者の象徴である。苦労して私たちを育てた在日一世の姿にも重なる。小谷家住宅が公開され、船田正廣さんが制作した刻画『海の幸』のブロンズ像が設置されるときには、私も韓国の光州市立美術館に常設し、日韓の友情の証にしたいと願っている。

⇒ 日韓に設置されたブロンズ「刻画・海の幸」

 

【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム

①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

④ 館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ
:高橋博夫(元館山市教育長)

⑤ 韓国と日本、二つの祖国を生きる
:河正雄(ハ・ジョンウン/韓国光州市立美術館名誉館長)

【房日寄稿】150904*戦跡シンポ④高橋博夫

戦争遺跡保存全国シンポジウム④

館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ

高橋博夫=元館山市教育長=

(房日新聞寄稿2015.9.4付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)

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関東大震災の3年後、隆起した海を埋め立てて館山海軍航空隊(以下「館空」)の建設工事が始まった。伊豆石を積み上げ、赤山の南側を削った土砂を使って埋め立てた。足りない土砂は、本庁舎裏側の段差を削って使った。滑走路の部分は大林組がサンドポンプで浚渫して海の土砂を入れ、コンクリートで固めた。塩分を含む砂のため、東西800mの滑走路いい状態ではなかったが、航空母艦に見立てた離着陸の訓練をしていた。

館空建設のために多くの家が移転を命じられ、「第1次疎開」が始まった。私は昭和2年生まれだが、我が家も4年2月28日に海軍へ売却し、現在地に移転している。西原区は岩盤の水脈が豊富だが、館空は人が多いので宮城の山中にダムが作られ、地下の水路で館空に水を引いた。

地下壕建設が始まると、土砂(ズリ)を捨てるために、館空から東の砂浜を埋め立てて港の岸壁が作られた。この工事に伴いズリを運搬するために「第2次疎開」が行われ、境界線は高いトタン塀で囲まれた。砂利道に軽便鉄道用のレールを敷いた道路が作られ、トロッコで海岸まで運んだ。丸太を付けただけのブレーキ装置で体重をかけて止めていたが、道路は傾斜なので勢いよく曲がると横転して怪我人も出た。そのうち軽機関車で引っ張るようになり、踏切番のおばさんが立つようになった。今も信号脇に当時の踏切台が残っている。台車置場は子どもの頃の遊び場だった。トロッコ作業が始まったのは、ハワイ真珠湾攻撃の前年だったと思う。

地下壕の掘削方法は、最初はツルハシで、次はダイナマイトも使っていった。サイレンや笛で安全を確認してから爆破させていた。ツルハシはすぐ刃こぼれするので、脇の小屋に鍛冶屋がいた。赤山の作業には様々な職業の人が徴用されていて、年配の陸軍の兵士も赤山を掘削する労働者として駐屯していた。西の浜には赤山を掘削している会社の組頭がいた。

大正15年に作られた青山学院水泳合宿所は赤山の前にあったが、日米開戦の前後に退去している。同校の佐藤隆一教諭の調査によると、昭和16年9月に海軍から極秘の命令があり、譲渡と立ち退きが進められたという。地下壕の建設に関係しているのではないか。

戦争が激しくなるとB29の本土空襲が始まり、館空周辺も機銃掃射を受けたため、家屋の間引きも合わせて「第3次疎開」となった。

敗戦を迎え、今度は占領軍が上陸し、宮城から大賀は占領地となり住めなくなった。8月27日に「第4次疎開」が通知され、29日までに退去せよという命令だった。みんな着の身着のままで市内の親戚などへ移り、占領は約5か月続いたと思う。4回とも疎開になった人もいた。木村屋旅館に館山終戦連絡事務所が設置され、館山市民には戸締りと外出禁止の命令が出た。

我が家は館山湾を見晴らせる高台にあるため、連絡事務所の数名が待機し、上陸の様子を見ていた。30日に上陸した先遣隊は、上半身裸で緑色の短パン、腰に拳銃をつけていた。ミズーリ号の降伏調印式の翌9月3日には、館空の水上班滑走台から本隊が上陸してきた。星条旗が掲げられ、我が家の横から西側へは鉄条網が張られ、歩哨の見張り小屋が作られて機関砲がこちら側に向けて設置された。

4日間で軍政は解除となったが、道路は進入禁止のままなので、西岬国民学校で代用教員だった私は神戸経由の遠回りで通った。衛兵は戦闘服だったがフレンドリーな感じだったので、片言の英語で親しくなった。学校長と子どもたちの了解をとり、テキサス出身というその兵士を学校へ連れて行って話をさせた。余り教育を受けていないようで読み書きが苦手だった。また、「日本の生活が知りたい」という士官を我が家に招待した。靴を脱ぎ、畳の部屋で座布団に座る習慣や、床の間や欄間などの日本家屋に興味を示した。彼らからは文化度の高さを感じた。

館山病院の穂坂与明院長や川名正義副院長らは国際人であったので、占領軍との直接交渉や軍医の視察があったらしい。10月頃には院内に米兵による英会話教室が開かれ、私も11月に少しだけ通った。市内には米兵向けのお土産屋も開かれた。先遣隊の時には事件もいろいろ起きたが、占領軍本隊とはこのような交流が育まれ、戦後日本のスタートとなっていった。

 

【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム

①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

④ 館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ
:高橋博夫(元館山市教育長)

⑤ 韓国と日本、二つの祖国を生きる
:河正雄(ハ・ジョンウン/韓国光州市立美術館名誉館長)

【房日寄稿】150903*戦跡シンポ③佐野達也

戦争遺跡保存全国シンポジウム③

GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政

佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

(房日新聞寄稿2015.9.3付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)

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日本では8月15日を終戦記念日としているが、世界的には1945年9月2日が終戦といわれている。それは、東京湾上に停泊する戦艦ミズーリ号において降伏文書調印式がおこなわれた日である。戦争が正式に終結し、世界に平和がもたらされたはずのこの日、日本が国家存亡の危機に直面していたことはあまり知られていない。

調印式から6時半後の夕刻、横浜終戦連絡事務局の鈴木九萬(ただかつ)は、GHQのマーシャル参謀次長から呼び出しを受け、重大な通告を受けた。終戦連絡事務局とは、GHQと日本政府の間にパイプ役として置かれ、日本外交の最前線を担っていた機関である。そこで告げられたのは「三布告」と呼ばれる占領政策であった。「日本國民ニ告グ」で始まり、GHQが日本政府を飛び越え国民を直接軍政下に支配しようとする内容である。

・布告第一号:英語を公用語とすること

・布告第二号:占領軍裁判所が設置され、司法権はGHQにあること(軍事裁判により死刑)

・布告第三号:占領軍の発行する軍用紙幣B円を日本法貨とすること

すでに軍票B円は各部隊に3億円を配布済であり、翌3日の朝6時に「三布告」とともに公布する予定であるという。なかでも日本政府が怖れたことは、B円乱発によるインフレーションである。権力をもった占領国が経済をコントロールすることは、日本がアメリカの州のようになってしまうことである。鈴木は、「ポツダム宣言によれば、GHQは日本政府の存在を認めているのだから、日本国民に対する命令は日本政府を通してするべきだ、日本政府を通さず直接命令するのは違反である」と反論したが、「三布告」にはすでにマッカーサーの署名がされていた。

降伏文書調印式にも立ち会っていた終戦連絡中央事務局長の岡崎勝男は、首相官邸に呼ばれ、「三布告」撤回の使命を託された。深夜、岡崎は横浜のホテルニューグランドに潜入し、就寝中のマーシャル参謀次長に直談判した結果、3日未明に、「三布告」公布を延期するという回答を取り付けた。午前8時、重光葵(まもる)外務大臣と岡崎はマッカーサー司令部のある横浜税関で待ち、直接交渉をおこなった。その結果、マッカーサーは「連合軍の目的は、日本国を破壊し国民を奴隷とすることではない。この問題は、政府及び国民の出方一つによる」と言い、正午に「三布告」は取り消された。日本政府は、GHQの直接軍政下に置かれることをぎりぎりで阻止したといえる。日本の運命が分かれた2日間だったのである。

1945年9月3日、午前6時に公布予定だった「三布告」は正午に停止された。ところがこの空白の時間に、千葉県館山市では撤回されたはずの直接軍政が実施されていたのである。外交資料館の記録によれば、館山の行政を監督するのは軍政参謀課、つまり米軍であった。公的機関は閉鎖され、酒場や劇場など娯楽施設は休業させられ、夜間の外出禁止など戒厳令ともいうべき措置がとられた。9月5日の新聞には、「館山に軍政」と報道されている。千葉県立安房高校(旧安房中学)に残る当時の教務日誌によると、9月3日に学校の閉鎖が命じられ、6日までの4日間生徒は出校停止となっている。はじめ恐怖を抱いていた市民も、上陸した正規軍の紳士的で茶目っ気ある態度に緊張感は和み、占領は平和裏に受け入れられていったと証言している。

 

【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム

①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

④ 館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ
:高橋博夫(元館山市教育長)

⑤ 韓国と日本、二つの祖国を生きる
:河正雄(ハ・ジョンウン/韓国光州市立美術館名誉館長)

【房日寄稿】150902*戦跡シンポ②愛沢伸雄

戦争遺跡保存全国シンポジウム②

米占領軍の館山上陸の新史料発見

愛沢伸雄=NPO法人安房文化遺産フォーラム代表=

(房日新聞寄稿2015.9.2付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)

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館山は、米軍の関東侵攻計画「コロネット」作戦だけでなく、占領計画「ブラックリスト」作戦でも上陸地点と想定されていた。第2次世界大戦の終結とその後の日本の占領をみるうえで、館山は世界史的な出来事の地であったといえる。

戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式がおこなわれた翌9月3日9時30分、カニンガム准将が率いる米陸軍第8軍第11軍団112騎兵(機動)連隊戦闘団(以下112RCTと略)は館山に上陸した。上陸後、カニンガムは「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」6項目の指令を出し、「軍政参謀課」を設置した。占領では「一切ノ学校ヲ閉鎖」をはじめ、劇場や酒場の閉鎖、市民の夜間外出禁止などを命じ、日本本土では唯一の「直接軍政」を敷いたのである。

このたび、112RCTに関わる資料を有する米国テキサス軍事博物館に問い合わせたところ、リサ・シャリク副館長のご厚意で、館山に上陸した112RCTに関わる貴重な資料や写真の提供を受けた。館山での占領軍については不明なことが多かったか、解明の一歩となった。

資料はカニンガムが署名した報告書であり、初公開された。ここにその内容を紹介する。それによると、ブラックリスト作戦は8月18日に実行され、22日に112RCTがフィリピンから日本へ移動を命じられ、館山には9月3日に上陸し、拠点を築く任務が与えられた。また、輸送師団や第112機甲連隊は、館山の海岸を上陸拠点として千ヤード(900m)確保する特務を命じられた。事前に特殊部隊が機雷の掃海をし、海兵隊員を中心とする先遣隊が館山の調査活動をしていた。

112RCTは2日の午前7時に東京湾に入り、ミズーリ号の降伏調印式の光景を見ていた。翌3日は、午前3時に輸送師団が館山湾に入り、午前7時に館山航空基地の北3.6kmに停泊した。すでに先遣隊が館山の海岸を使用するのは困難と報告していたので、高ノ島にある館山海軍航空隊水上班滑走路が上陸地として指定された。午前7時30分に外務省の林男爵や陸軍の野村大佐、海軍の鬼塚大佐が、日本人通訳を伴い滑走路に現れた。彼らはカニンガムやスタッフとの協議のため、輸送師団の旗艦ラバカに案内された。

日本側は、館山の陸・海軍や民間人の状況と、武装解除に迅速な行動をとっていると報告した。カニンガムからは上記6項目の占領指令に従って、日本側に最大限の協力が要請され、会談は午前9時30分に終了した。

その時刻に112RCTや機甲連隊などが波状的に上陸し、基地の周囲を占拠した。午前10時に司令所が滑走台そばの水上飛行機格納庫に開設され、第11軍団指揮官やウィルキンソン大将が上陸して査察した。数日前から来ていた分遣隊は任務が解かれた。司令所は航空隊本庁舎へ移され、輸送してきたもの積み降ろしは3日に終了し、翌日から市内のパトロールが強化され、館山周辺の砲台を査察し使用不能にした。海岸線の道路に沿って勝山から神戸地区まで偵察パトロールがおこなわれ、館山駅には治安部隊を配備し、館山市内には他の占領軍兵士の立ち入りが禁止された。

この事態のなかで外務省館山終戦連絡委員会の林安委員長は、カニンガムによる6項目の占領指令に驚き、すぐに政府・外務省に連絡し、米太平洋陸軍総司令部に館山の直接軍政の中止を求めた。マッカーサー「三布告」と連動したもので、岡崎勝男の迅速な行動と重光外相とマッカーサーの会談により、3日の「三布告」が撤回された。ただ、軍都館山の市民や旧軍人の動きに注目して占領政策のあり方を模索したと思われ、その後の館山市民の協力的な姿勢や、軍事施設の解体が順調であったことなどが契機となって変わっていったと推察される。

なお、報告書には「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、そこには完全な信号、電源、他の様々の装備が含まれていた」と赤山地下壕のことが記載されている。

6日には占領軍は軍政が「米軍と市民との間に突発しそうな事件を未然に防ぐのが第一の目的」と表明し、9月7日は学校の開校や酒場営業を許可している。こうして直接軍政は「4日間」で解除されたのであった。

 

【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム

①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

④ 館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ
:高橋博夫(元館山市教育長)

⑤ 韓国と日本、二つの祖国を生きる
:河正雄(ハ・ジョンウン/韓国光州市立美術館名誉館長)

【房日寄稿】150901*戦跡シンポ①愛沢伸雄

戦争遺跡保存全国シンポジウム①

「戦後70年」大会へのお誘い

愛沢伸雄=NPO法人安房文化遺産フォーラム代表=

(房日新聞寄稿2015.9.1付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)

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「戦後70年」を迎えた本年9月5・6日、11年ぶりに館山で戦跡大会が開かれる。前回大会以降、市民が主役となった文化財の保存・活用は、点から線につながって面となり、地域全体を館山まるごと博物館と見立てて、「平和の文化」を活かしたまちづくりを官民協働で進めてきた。平和教育や平和創造が正念場といえる昨今、本大会では全国との地域間連携をさらに深め、地域に根ざした「平和の文化」を語り継ぎ、ピース・ツーリズムという平和産業を創出する契機にしたいと願っている。

ユネスコ(国連教育科学文化機関)が提唱した「平和の文化」とは、対立や争いを創造的な対話によって解決していくという行動様式や価値観をさす。これは、単に戦争がない状態を平和と捉えるだけでなく、貧困や差別、環境破壊のない持続可能な地域社会を目ざした考え方である。私たちも、戦跡や文化遺産から先人の培った〝平和・交流・共生〟の精神を学び、「平和の文化」の理念が生きたまちづくりを呼びかけてきた。

5日は南総文化ホールにて、10時より映画『赤い鯨と白い蛇』上映会、13時より全体会において河正雄(ハ・ジョンウン)氏の記念講演や、沖縄県南風原町・高知県香南市・館山市の事例を紹介するまちづくりディスカッションを行なう。

映画は、安房高女・安房南高校出身のせんぼんよしこ監督が、香川京子主演で制作した平和祈念映画である。美しい館山の風景と戦争遺跡、やわたんまち(八幡祭礼)を舞台に、平和と生命の大切さが描かれている。

河正雄氏は、在日韓国人二世として日韓の架け橋となった芸術メセナの実践者である。その活動実績により、韓国光州市立美術館名誉館長や朝鮮大学校美術学名誉博士となり、韓国宝冠文化勲章を受章している。また、田沢湖畔に朝鮮人労働者の慰霊碑を建立するなど、その活動実践は多岐にわたる。

翌6日は館山市コミュニティセンターにおいて、3つの分科会で全国の事例報告のほか、「米占領軍の館山上陸と直接軍政/証言者のつどい」をテーマとした特別分科会を開催する。

NHK『BS歴史館』の制作者・佐野達也氏は、ミズーリ号の降伏文書調印式の後、GHQによる「三布告」の日本占領計画が中止に至った経緯と館山の軍政を紹介したドキュメンタリー番組について解説する。

元館山市教育長の高橋博夫氏は、館山海軍航空隊開隊から赤山地下壕建設に至る間の住宅移転命令をはじめ、米占領軍の上陸と軍政について重要な証言を行なう。

青山学院高等部の佐藤隆一教諭は、赤山地下壕に隣接した場所(現在の市営プール)に1926年開設された青山学院水泳部合宿所が、1946年9月に海軍の極秘命令により譲渡と立ち退きが緊急に実施されていたことの調査報告を行なう。ほかに、安房中学の勤労動員、本土決戦下の漁村・布良の出来事、那古地区の川崎空襲、野島崎の艦砲射撃などに関わる証言が報告される。

本稿では、大会の報告概要の一部をシリーズで紹介し、多くの方の参加をお待ちしている。大会参加費は、1日券千円・2日券2千円、大学生は半額、高校生以下は無料。参加申込・問合は090-6479-3498。

特別企画として、5日午前は赤山地下壕跡のガイドサービスを行なう。「戦後70年」の企画展を、8月26日〜9月8日に南総文化ホールギャラリー、9月5〜6日に館山市コミュニティセンター展示室にて入場無料で開催する。

 

【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム

①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

④ 館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ
:高橋博夫(元館山市教育長)

⑤ 韓国と日本、二つの祖国を生きる
:河正雄(ハ・ジョンウン/韓国光州市立美術館名誉館長)

【毎日】150908*戦跡保存シンポ:館山大会が閉幕 アピール採択

戦跡保存シンポ:館山大会が閉幕

アピール採択

(毎日新聞千葉版2015.9.8付)

館山市で開かれていた第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会は7日、市周辺に残る戦争遺跡を2コースに分かれてバスで視察し、3日間の日程を終了。「戦争遺跡と文化財を活(い)かしたまちづくりをすすめよう」との大会アピールを採択して閉幕した。来年の20回大会は松代大本営地下壕(ごう)がある長野市で開かれる。

シンポジウムには県内外の研究者ら400人が参加した。ホスト役を務めたNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表は「70年前に館山に軍政が敷かれた時期に合わせて9月に開催したため、参加できない学校の先生もいたが、多くの戦争経験者の証言を引き出すこともできた」と成果を強調した。

【中島章隆】

【毎日】150906*戦後70年、館山で戦争遺跡シンポ

戦後70年:館山で戦争遺跡シンポ

若者の参加へ知恵出し合う 市民団体や研究者ら

(毎日新聞千葉版2015.9.6付)‥⇒印刷用PDF

第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会(戦争遺跡保存全国ネットワーク主催、NPO安房文化遺産フォーラム共催、館山市、市観光協会など後援)が5日、館山市の県南総文化ホールを主会場に3日間の大会の幕を開けた。戦争体験者が少なくなる中、全国の遺跡保存にかかわる市民団体や研究者が若い世代に保存運動をどうつなげるか知恵を出し合う機会となった。

館山大会実行委員会の委員長でもある地元の語り部「さくら貝」代表の松苗禮子さん(79)が88年前、米国から安房地区に贈られた「青い目の人形」たちがたどった運命を「語り」の形で紹介して開幕。金丸謙一館山市長の歓迎の言葉に続き、在日2世で韓国・光州市立美術館名誉館長の河正雄(ハジョンウン)氏が「二つの祖国を生きる」と題して記念講演した。

主催者の全国ネット共同代表、十菱駿武・山梨学院大名誉教授は戦後70年を迎えた戦跡保存について基調報告。この1年で文化財などへの登録が29件増えたものの、東京都武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所の倉庫が、保存運動にもかかわらず7月に取り壊されるなど、貴重な遺跡を失った事例も報告された。

この日のメインは沖縄と高知県で保存活動を続ける人たちによるパネルディスカッション。沖縄県南風原(はえばる)町で旧沖縄陸軍病院南風原壕(ごう)の保存活動に取り組む沖縄国際大の吉浜忍教授、高知県香南市で近隣市と連携して戦争遺跡の保存活動をしている同市の松村信博主監調査員、館山市商工観光課の池田英真主任学芸員がそれぞれの取り組みを披露した。

南風原町では町史の編集に20代、30代の若者を過半数加えた実績を報告。いずれも戦争体験者が減り、若い人たちに活動に参加してもらうための工夫をしている様子が伝わった。

6日は3分科会で研究テーマを報告する。特別分科会では地元の安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が米テキサス軍事博物館から取り寄せた終戦直後の米陸軍の館山上陸の模様を撮影した映像を再現。当時の館山を知る体験者らに出席を願い、立体的に当時の模様を再現する。

【中島章隆】

【房日】150908*全国戦跡シンポに400人

全国戦跡シンポに400人

館山舞台に公開討論や事例発表

(房日新聞2015.9.8付)‥⇒印刷用PDF

「第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会」(戦争遺跡保存全国ネットワーク、同シンポ実行委主催)が7日までの3日間、館山市の南総文化ホールなどであり、戦跡保存活動をする全国の団体や大学関係者など約400人が訪れ、戦跡を活用したまちづくりの取り組みや館山の「直接軍政」に関する分科会などに耳を傾けた。

初日の5日は「戦跡と文化財を活かしたまちづくり」をテーマにパネルディスカッションがあり、沖縄県南風原町、高知県香南市の関係者らが事例発表。

館山市からは市主任学芸員の池田英真さんが、年間入館者が2万人を超えた赤山地下壕、古い商家、民家を活用した長須賀のまちなか再生などの取り組みに触れ、館山を訪れる目的は、海水浴より戦跡など文化財見学の方が多くなっていることなどを紹介。

NPO法人安房文化財遺産フォーラムの愛沢伸雄代表は、これまで20年以上にわたる地域の戦跡、文化財の保存、活用、平和学習などの活動を語り、「足元から平和のあり方を考える文化をつくりたい。文化財を平和に生かすピースツーリズムを創出したい」と訴えた。

【読売】150904*「布良沖」生還者の手記発見

戦後70年、「布良沖」生還者の手記発見

沈没「5月29日」と記述、兵科予備学生回想集に収録

練習駆潜特務艇の可能性

(読売新聞千葉版2015.9.4付)‥⇒印刷用PDF

館山市布良沖で終戦の年、潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇が米軍機の攻撃で沈没し、多数の死傷者が出た「布良沖の惨劇」で、分かっていなかった発生日が1945年5月29日だった可能性が出てきた。本誌の戦後70年連載の記事がきっかけとなり、この沈没艇に乗っていて生還した士官の回想手記が見つかった。

(笹川実)

回想手記には、「5月29日、最終の艦務実習のため対潜校の練習駆潜特務艇にて早朝浦賀を出港、相模湾上にて一通りの実習を終了し帰港の途次(略)横浜大空襲の分派になるB25他により房総半島の布良沖に於(おい)て乗艇は撃沈された」などとある。

この手記は、「海軍第2期兵科予備学生の記(第2集)」(東港会刊)に含まれていた。書いたのは海軍第2期兵科予備学生の士官だった男性。「海軍機雷学校出身者の戦歴」と題し、43年の少尉任官から45年12月の福音までの自らの足跡を記していた。

兵科予備学生は一般に、大学などを卒業した志願者で、2期生は飛行科への転科を除き420名だった。日本の統治下であった台湾の東港で基礎訓練を受けた。「東港会」は同期生会。会員向け会誌を発行、第2集は回想集として97年に刊行された。

「布良沖の惨劇」に関する本紙記事は、8月12日の朝刊に掲載された。館山市にあった「民防空富崎監視哨」の哨員として目撃した豊崎栄吉さん(86)(同市布良)の証言や、豊崎さんらの証言を引き出した元中学教師の山口栄彦さん(84)(同市大神宮)を紹介した。記事を見た山口さんの知人が、たまたま手元にあった第2集に惨劇を裏付ける手記を見つけ連絡した。

発生日や船の種類、死傷者数は不明のままとされていたが、手記から5月29日に発生し、船は「練習駆潜特務艇」だった可能性が浮上した。また手記の続きの記述から、乗船していたのは基礎教育後、戦地経験を積んで戻り、専門研修中の中尉や少尉ら若い海軍士官だったことや、少なくとも手記を書いた男性を含め4人の生存者がいたこともわかった。

手記について豊崎さんは「私の記憶とよく似ていて、間違いないと思う」と話し、館山市で6日開催の戦争遺跡保存全国シンポジウムの特別分科会「証言者の集い」で報告する。山口さんは「2期兵科予備学生の悲劇とわかったので、さらに正式記録も探して裏付け、死傷者数など全容を解明したい」と語った。